ライン・ワール・マースの狭間から、草の如し徒然の観察八景。 政ごと/商いごと/言の葉ごと/遊びごと。

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Miscellaneous Human History 雑史/外伝

Top of the memory 1st July 1916

At 07:30 AM on 1st July 1916 it began with first explosion along river Somme. In approaching the twilight, its wasting the British Expeditionary Force (BEF) counted about 60,000 soldiers. The Worst of trench warfare in history. [note 1]

col 01

The battle of Somme coverd a period of July - November 1916. It is reportedly : the original Allied estimate of casualties on the Somme, was British and French 485,000 and German 630,000.
col 07
Battle of the Somme. Map of first day, 1 July – 18 November 1916.

col 02

col 05
The Thiepval Memorial cemetery in Nothern France. Yellow flower carpet of maybe Crepis (Hawksbeardフタマタタンポポ) or Hieracium (Hawkweedヤナギタンポポ), so might it be a century ago.

col 03
Yesterday 100 year's ceremonies or misa took place in Westminster church in London and its cemetery of the historic battlefield. Since a century ago July 1 has been marked as Memorial Day, not only in anywhere in UK but also many places in old 'British empire'. For example in Newfoundland and Labrador in North America.
Right above at the corner ↓ mr/ms Cameron who is leaving as prime minister, but this is their patriotic obligation.
col 04
Queen and prince, an old couple of Winsor perticipaited naturally, despite of their age as middle of neinties.

【Note】:
1. This 'British soldiers' means soldiers from colonies and territories that belonged to the British Empire at the time. One of them was dispatched from Newfoundland, today part of Canada. Its 1st Regiment was wiped out by German at Beaumont Hamel on the first day. If one regiment was three thousand people, then its 90% (27,000) was killed within a day. Hierwith you understand the matter of fact that a units which represents in order to protect your home country might disappear at the moment of twinkling eyes. Can you imagine it?
*Reference → ブリテン何十万の兵たちが西部戦線から二度と帰ってこなかった。塹壕戦の半時間で数連隊が消えるような恐怖の戦いがまずイーペルから始った。http://zasshizassozatsujin.blog.fc2.com/?tag=%E3%82%A4%E3%83%BC%E3%83%9A%E3%83%AB

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Miscellaneous Human History 雑史/外伝

エリザベス・ステュアート 家族と生涯 <ボヘミア編の下-後> [画像追加update版]

フェーラルド・ファン・ホントホルストはユトレヒト派と言われる。ルネサンス・イタリア画家ミケルアンジェロム・メリージ・ダ・カラヴァッジィオに留学中に魅せられる。ユトレヒト派とは言わば蘭リパブリック時代のカラヴァッジィオ影響派と言えるだろうか。
Elizabetth Sutuart 05
左;ファン・ホントホルスト作``夕食のひと時…`部分。柔らかな光と影が大胆な構図と共に見事に落とされている。多作画家の数少ないしっとりとした佳作と思う。右は``師匠``ダ・カラヴァッジィオ作。単純に高窓からの光が差し込む人々の集まる場面。こんな扱いによって`光と影`の画家と言われるわけでないのだが…。二つとも色調を抑制し、典型的な華麗なる作品群と異なる。

冬の女王をチェコ綴りで”zimní královna in Czech”と綴るそうだ。今頃のチェコ若人が聞けばキョトンとするだろうか。うまやどの王は聖徳太子か?と言う学術論争に比べれば、10世紀後の山ほど一等資料のある"自分の国”の出来事だから、小中あたりの教科書にのっている筈。一党独裁が消えて早20年、iPhoneやフェイスブック中毒にかかるティーンエージャーはチェコも同じだから、`冬の女王`知名度はサァーどうだろう。

21世紀から見るなら、つまり後知恵の結論は、若夫婦のボヘミア行きは無謀だった。九世紀の前任者カルル大王や14世紀カルル四世の栄光の足元、その爪の先にも及ばなかった。

デン・ハーフ(ザ・ハーグは英語発声)中央駅から徒歩10分、トラムで5分の場所。ここに来るのはビンネンホフと言えば良い。現在の議会と首相執務(小さな塔)建築は左側になる。その向うがBinnenhof(=内庭)、政界ニュースのインタヴュー場所で観光スポット。右側の栃の樹通りは広場/公園で、手前と同じ当時の政庁街であった。
ハーグの池

フェルディナンド2世皇帝が旧教勢力を結集し、プファルツ若殿はボヘミヤ貴族を中心にする軍勢を集めた。しかしドイツ領内の新教同盟軍の支援はなかった。11月8日両勢がプラハ近郊の山地でぶつかった。あたかも72年後にダブリン近郊で起こったジェームス・ステュアート二世旧教軍とオレンジ公ウイリアム三世新教軍との先例であるかのように[補註1]。

戦闘はハプスブルグ軍が常に上位(高い方)にとって戦法勝ちと記述する本もある…。何となく一次大戦でエーゲからイスタンブールを抜け黒海に出ようとした英軍に対するトルコ軍のガリポリ勝ち戦に似ている…。だが、海岸山地のそれもボイン川合戦も壮絶な戦いだった。かたやプラハの実際はあっけない小一時間だったらしい。奇妙で全く信じがたい(ネタ不足で深謝)。時の運に、何もかもに、若殿は見離された。とりあえず、そうしておこう。

彼らは王座とプラハから追われた。エリザベス侍従が赤子である次男ルートヴィヒ(の乳母)を見つけられず、置き去りにして逃げなければならなかった[補註2]。命からがら真っ直ぐ北に逃げ延びる。そこベルリンにブランデンブルグ選帝侯ウィリヘルムがいる。旦那フリードリッヒ妹の嫁ぎ先。相当な借金をオラニェ・ナッソウにしている。頼りないプロイセン領主だが、しばらく頼れる新教の盟友。
左;ファン・ホントホルストの駄作中の駄作と思う。フリッツ本人はこれを見ていない筈。1618年冬の載冠姿の想像図で、安物雑誌のイラスト風な出来である。あるいは弟子の仕事にマアイイヤと言う塩梅かも知れぬ。右;画家はエリザベス次女ルイーゼを描いた。ホルストは子供たち全員に絵を教え、唯一ルイーゼだけがプロ並みの修業を果たした。肖像画家として力量が認められると言う。売り絵を描かず、親戚王族コレクション間に見いだされるそうだ。
Elizabetth Sutuart 04

本来帰るべきプファルツ領地は、南隣バイエルン領主にとってよだれの出る土地。ハプスブルグ皇帝軍として傭兵をうごかした旧教バイエルン公マクシミリンが駄賃として実質支配領にする。プファルツが再びフリードリッヒの次男に返るのは30年後のウェストファーレン条約を待たねばならなかった。

1621年の春、ベルリンに腰を温める暇も無く、夫妻は生き延びた家臣250名に伴われ母の里オラニェ・ナッソウ家ハーグに亡命する。領地を失ったが、新教側建前によると、彼はPfalz領主である。リパブリック・オランダは宗主国スペインと独立戦(80年戦争)さなかだから、ハプスブルグ側の領土地図を認めない。

Hofvijver 02.jpg
現在の姿;右が議会、中央のほぼ円錐屋根が首相執務棟。左はモーリッツ美術館。意気消沈のエリザベスとフリッツを迎えたリパブリック総統の名を冠している。こじんまりとした堅牢な建築で、時々話題になる展覧会をもよおす。
>De Vijverhof 02

エリザベスにとって、250人扶持は法外なコスト高である。父親ジェームス(死後は弟チャールズ)からの援助は微々たる額のため、雇員大幅カットし て、オラニェ家助力で何とかやりくりする。最終的住まいは時の国家弁護人と言われたヨハン・オルデンバルネフェルトの邸宅だった。彼は東印度会社を軌道に乗せ、頭領モーリッツを育て上げたオラニェ家の大家老と言うべき人物だ。歴史の常、政争に敗れ断首された。その屋敷が空いていた。

こうして腰を落ち着けると、エリザベスは懐妊し続け、しめて早折込み13人の子宝に恵まれる。亭主フリッツは実質的復位の為に妻の親元や新教諸侯と交渉を続けるうちに、生涯を閉じる。将来を嘱望された元プファルツ領主は当時ありふれた36才で没した。父親と同じ年数で遺伝子に忠実…。健康な上さんをもらったお蔭で賑やかな13人の子供。36にして13人なら、今なら一つの事業である。しかし17世紀に我ありと言う軌跡を残すには運に恵まれなかった。王と付く数限りない歴史に顔出す連中の大半は凡庸な人物である。

優しい旦那が亡くなるとエリザベスは幼子の母親役と同時に、家族と親戚の良き相談・世話役だった。弟ジェームス1世にお気に入りの画家を紹介したり[補註3]、フリッツ妹の14才息子(後のブランデンブルク・プロイセン大選帝侯フリードリッヒ・ウィリヘルムがベルリンから遊学中)の面倒を見たり、未亡人と言うより"ボヘミアの冬女王”たるハーグ生活をしたように思われる。ベルリン/ハーグ/ロンドンの美術館に彼女と子供達、あるいは弟の肖像画を見ることができる。ファン・ホントホルスト二つのアトリエ`本人+弟子`制作が殆どと思われ、ほか欧米の美術館にもまんべんなく掛かっている。

ファン・ホントホルストはエリザベス紹介で1628年にロンドン滞在。チャールズ宮廷に収める仕事をこなす。右はまだ若い風貌の国王肖像画。これなら彼の満足を得られる。故に相応な厚遇を得ている。こうした豊かさゆえに台所が苦しいエリザベスに3500ギルダーと言う大枚を融資。冬の女王と画家は王族と臣民であるが、友のように互いに助け合っていた。彼女自身、絵画に優れた感覚を持ち、その才能は次女ルイーゼ・マリアに受け継がれた。
Elizabetth Sutuart 02

長男はアムステルダム近くハーレムセ・メーア湖で溺れ死ぬ。父親フリッツの不手際だったらしい。次男カーレル(=カルル・ルートヴィヒ)三男ループレヒトはリパブリック将官としてスペイン戦に従軍。やがて二人は叔父チャールズ1世に加勢、王党側として各地の戦いで奮戦するも、内戦最後の戦に於いて議会派クロムウェルの組織だった攻勢に敗れる。フランスに逃れ、一つ置きの叔父ルイ14世に仕えるなど軍歴を積み一家を成す。カーレルは後述ミュンスター講和による領地返却を受け、選帝侯として生まれ故郷に帰り15人だかの子供をなす。

ループレヒト(英:Rupertルパート)は従弟チャールズ2世が王に返り咲いた以後[補註4]、母の国に帰化。海軍提督として蘭共和国ラウテル提督軍に対し海戦を重ねた。便利な溝付エッチング具や新型の釣り針を発案したり、趣味をよくする未婚の"発明者”。庶子二人を持つ今風"独身貴族”の先駆をなす。貧乏と縁の無い大貴族、同時に北米との貿易会社`社長`業をこなし、父親フリッツの倍以上の長寿を全うした。運のなかった"冬王”が草葉の影から「息子らはワシの血を引いておる」とニットしているだろう。

独名ループレヒト。生涯独身を通したが、愛するフランシス・バルドとの間に1666年男子1名、1671年にマーガレット・ヒュースとの間に女子を作る。後者はブリテン演劇史の初女役者=舞台女優と言われる。
Elizabetth Sutuart 01

1648年、ミュンスターを含むWestfalen地域で80年と30年戦争に関する11の講和条約が交わされた。前者はスペイン・ハプスブルグ対リパブリック組織の長丁場。後者はエリザベス関るボヘミアの戦いから全欧を巻き込み諸段階を経る30年。ドイツの場合2000万人口が1400万 に減少。国土は荒れ廃れ、どん底に落ち込んだ[補註5]。新しい欧州分割が取り決められ、続く1世紀と半分の欧州枠組みをつくることになる。

ブリテンに国を憂える士があちこちに出た。複雑な相互作用、合従連合、新旧キリスト教者入り乱れ内戦に立ち至る。国敗れて山河あり...。身内の戦いと言うのは残虐に満ち、愚かである。ソーシャルネットワークがあれば無駄せずモソットを上手に行ったであろうに…。

ブラディー・マリー(Bloody Mary)を美味いと飲むカクテル好きでも、マリー1世による300名近い聖職者の一挙生き火あぶりを見られまい。「こんな残虐は怒れる新教革命を呼ぶ」とスペイン観察武官がマリーの亭主スペイン王に報告したほどだった。それから百年たっても国教会とローマカトリックの謀略と騒乱事情は続いていた。三国連合の島国は、各国集まるウェストファーレン話に関りながら、つまり大陸で平和への試みが数年以上続いている時、チャンチャンバラバラとドンパチに忙しかった。英語仮名表記で言うウェストファリア条約の翌年、エリザベス四つ違いの弟チャールズは欧州史で偶におこる君主の国逆罪にてロンドンタワー下で断首される(清教徒革命)。

王位に束の間ついだ チャールズ長男が1651年9月内戦の最終ラウンドで敗れた。スコットランドで連合君主国の王として迎えられた彼は南に向かい進軍する。ウォースター郊外セヴァーン河床戦でオリバー・クロムウエル軍に叩きのめされた。フランス海岸にたどり着くまでの彼と重臣との一月余の波乱万丈エスケープは映画ネタになるほど知られる。グレイト・ブリテン(イングランド+スコットランド+アイルランド)は厳格なピューリタン主義者による共和制に移行する。10年近い期間の後半、軍事独裁政権に傾き、人心を失っていく。

Elizabetth Sutuart 03
内戦に敗れ捕らわれたチャールズ1世は高等裁判に直面。裁判中、かつての理髪師を望み拒否されたため、髭と髪を伸び放題に任せた。何人にも剃刀を当てさせなかったと言うから立派。黒い帽子は長髪を隠せるわけで無い...何故?といぶかった。思うに彼は既に完全な禿だったと思われる。ファン・ダイク画の三面肖像画から伺える。カツラを被り、その不自然ぶりを隠すために高い帽子をかぶっているのだ。高位の男女が(ブロンドetc)カツラを着用するのはごく普通の習慣/遊びだった。
右の大審問図はクロムウェルの芝居かかった演出を良く伝えている。王を裁くのだから、`正義`を国民に見せなければならない…。帽子をかぶったチャールズの後姿が認められる。彼の前に2名の議長がこちら向きに座り、その背後に大変な数の審判団がやはり被告人に向かい合うように陣取っている。

十年近い内紛が続く。この間に東南アジア貿易とその制海権争いで、エリザベス故郷の島国と亡命先リパブリックとが海戦を繰り広げた。七つの海のリパブリック覇権に対するクロムウェル共和国家の挑戦とも言えよう。新造大型軍船もち英艦隊の優勢でひとまず決着がつきかけた頃、権勢をふるったオリヴァー卿が亡くなる。

弟を天国に送った軍人死亡の好ニュースにつられるように、末娘ゾフィーの嫁ぎ先が決まった。あれこれ迷いようやくブラウン・シュヴァイク選帝侯家の4男坊に決まる。末娘と4男コンビだから苦労少なく仕合せになるだろう。この時、彼女の息子が島国の王に成ろうとは、もちろん誰にも分らない。40年ほど後、ブリテン議会が新教ゾフィーを王位継承者に定める法律を作り、その十数年後にゾフィー息子が島国へ渡りハノーファー朝を開く。

ゾフィーが北に嫁入る前後、ロンドン丸坊主派と言われるピューリタン議会勢力が力を失っていく。手短にいうと、護国卿に登りつめたオリヴァー・クロムウェルの専横に理由があろう。2代目護国卿は議会と軍に力を持たず辞職をよぎなくされ、ここに穏健議会派と王忠誠派による王政復古のレールが敷かれるのである。ロンドン議会からリパブリックのブレダに待機するエリザベス甥に帰還要請書簡が1660年5月半ばに送られる。エリザベスは25日ハーグの海沿いシュヘーブニンゲン村からドーヴァーに向かう甥を見送った。彼は29日にロンドンに言わば凱旋し、翌30日に30才の誕生日を迎え、再びチャールズ二世として立つ。

長生きはするものだ。2度と戻れまいと思っていた`ボヘミア冬の女王`が望めばいつでも海峡を渡れる状況が生まれたのだ。のんびりと気楽にロンドンを訪ねる思いが浮かぶ。47年間の空白がある。甥の暖かい面倒見で、結婚式をあげた広大な白亜宮殿に逗留。春に綺麗に刈り込まれるリンデン/シナノキ冬姿の下を散策、"インブリッシュ・ガーデン”を楽しむうたかたの日々を過ごす。ふるさとスコットランドを訪れ、6才まで育ったエディンバラに近い雪をかぶるリンリスゴー城にも遊んだであろう。

数ヵ月の穏やかな最期の時間がゆっくりと流れる。ほぼ半世紀、冬の女王の生涯が閉じられよう。1662年、日本は四代将軍/家綱治世の寛文二年。冷感きりっとするロンドンの2月13日だった。

【補注】;
1.ジェームスは従兄ルイ14世の支援軍を主力に二万五千を、ウイリアムはデンマーク・オランダ精鋭一万六千にイングランド二万を合わせた三万六千軍勢。戦場は山でなく、ダブリンに近いボイン川。キリスト新旧の攻防戦におけるプラハとダブリンの軍勢比較が似ている。数だけの相似性で言っていけないが、両例とも多勢が勝った。

2.戦のさなか彼を守る乳母または女官が行方不明になったのだろう。使命をおびた家臣が残り探し出し、本隊に追いついたらしい。捕まり処刑されなかったので、ウェストファリア条約で没収された財産返却と選帝侯位返還を受け、ハイデルベルク城に帰還して長寿を全うした。

3.Gerard Hermansz van Honthorst*(1592-1656)。 父親ホントホルストの薫陶を受けイタリーに留学、ユトレヒト派として活躍。1628年弟子と共に海峡を渡り、エリザベス弟ジェームスほか肖像画を手掛ける。40半ばの全盛期に、リパブリック頭領フレーデリック・ヘンドリックやデンマーク王クリスティアンなどから注文があいついだ。ユトレヒトに次ぐ二つ目のアトリエを宮殿のあるハーグに開き、彼自身も引っ越す。多くの門人を擁し、さながら注文に追われる工場の如しだったと言われる。それは作品数から十分に想像される。50近くから仕事と名声を減じたのは恐らく健康を害したと思われる。

4.国王チャールズ処刑は1649年1月。上述のように、息子のスコットランドからイングランドへの巻き返し戦は1651年9月。軍勢16,000は議会軍の半分以下で、散々な負け戦に成った。それだけでなく内戦後期からの議会軍優勢はNew Model Armyと言われる軍制の実現に起因する。ヨーク郷士で下院メンバー、Thomas Fairfaxを初代 NMA司令官として歩兵と騎馬の軍装を新たに、砲術部隊を改良、組織的かつ機動的な戦術と共に、王への忠誠軍を圧倒するようになっていた。

5.死者600万は(異説あれど)ナチ犠牲者数と同じ。時代差を考えれば、この600万はヨーセフ・スターリンの犠牲者数千万の人命に匹敵する大惨禍である。

*本稿は[記:2011-08-02]に画像追加したupdate版。

Miscellaneous Human History 雑史/外伝

ボヘミアのエリザベス  <ボヘミア編の下ー前> (画像追加update版)

>Bohemian war to the 30 years war

家康亡くなる三年前の元和年間1613年の冬、プファルツ領から大名行列が出た。今で言うとベルギー・ルクセンブルグの東側、北と南に伸びたり縮んだりし ながらハイデルベルグまで含む新教のドイツ選帝侯領。このPfalzはバイエルン領主ウィッテルスバッハ家系領だが、カトリックの本家と違い、カルヴァイ ン派新教を奉じた。

3年前父親フリードリッヒが36才で逝き、14才息子が5世伯になったばかり。勿論、国政は忠臣の家老たちによってマネージングされている。この殿が、エリザベス・スチュアート政略結婚の最適相手と見なされた。

ほかにスエーデン・グスタフ皇子などが候補に挙がった。だが三十路半ばの母親が猛烈に息子をジェームス1(スコットランド王としては6)世に売り込んだ。ルイーゼ・ユリアナと言い、以前の日記で 触れたオラニェ・ナッソウのウィレム1世の3人目女房の長女。異母兄でオラニェ家の御曹司モーリッツもロンドンに同行させ、結婚交渉をした。

新教蘭自治都市グループ+ブリテン王様寄合所帯+神聖ローマ帝国内の選帝侯と言う政治勢力結集である。手続き契約なって、1612年若きプファルツあるじはロンドンに 行き、エリザベスと初対面。互いに惚れあうような感じでルイーゼは大任を果たし二重の喜びだった。母はいつの世でも母である。同い年は政略結婚に百の内の一つ理由にすぎない、けれどもフリードリッヒとエリザベス本人たちに演じた役割は大きい...[補註1]。

良く考証されたコステューム映画で、天皇の牛車ほど大きくない車付き籠を見たことがある。新教派の血を流し続けたマリー・チュウダー1世の叔母は同名同姓マリー・チュダーで、かつて妙齢18にしてドーバーを越えて50超えルイ12世に嫁いだ。その時、能面のような白肌の少女がそんな籠に乗ったように思う。幌馬車で無いにしても、まだブナ心材の木製車輪ですから、かなり揺れた筈。

今度はその逆だ。ブリテンの姫君を迎えるための相当な行列だった。家老や重臣一同にとって、これでプファルツの格がドイツ諸侯で上る。それゆえ国庫を勘定しつつも、精一杯の礼と贅を尽くしエリザベス(大陸側ではエリザベートと発声)を迎えねばならない。内陸から海岸までは長旅でしんどい。しかし海に出て、風向きにあえば半日の海峡船旅。そして陸路一日でロンドンに到着する。

ヘンリー8世の初代アドヴァイザーとしてトーマス・ウォルジーは権勢を謳歌して宮殿のような公邸に住んだ。彼は王妃カタリーナ離婚でヴァティカン交渉に手間取り、短気ヘンリーと後がまアン・ブーーリンの怒りを買い失脚。没収された公邸は新王になる度に大普請を重ね、欧州一の大複合建築になる。正面にドームを戴く建築が白い石灰岩作りな ので白亜宮殿(現在言われるWhite Hallは火事焼失後の残り物か何か…)と呼ばれた。

Elizabeth en Friedrich

ホワイトパレスに粉雪が舞う2月にエリザベスとフレーデリック5世(本来の独名:フリードリッヒ)は挙式した。 彼等の前途は洋洋と言わなければならない。アングリカン・チャーチとカルヴェイン・プロテスタントのハイブリッドカップルの誕生。ままごとのような事象であるが、"自由・博愛・平等”精神が生まれる前の王様の時代だった。次の3月いっぱい、彼らは母親ルイーゼの 里、ハーグのオランニェ・ナッソウ家で歓待された。

4月になって、領地で行う祝宴行事のお膳立てにリパブリック(共和組織)オラニェ家2番手のフレーデリック:ヘンドリックがおぜん立てに先行した{補註2] 。若夫婦を伴ったのは正式身分名”オラニェ・ナッソウのプリンス”である伯父モーリッツ(この名称がリパブリック最高職。総統と訳される別語シュタット・ハウダーと同義)。ハイデベルグに凱旋するように帰る。大陸新教派連合の雄として輝くハップニングに、ハイデルベルグの宮殿も領地も華やいだ。

その秋だったか.支倉常長がカトリック総本山ローマへ船出した。主君正宗の意図は宗教よりスペインとの通商と西洋事情聴取にあった筈。日本国内で信長時代から既に、ポルトガル・スペ イン合体後のイザベラ女王、さらにフェリーぺ1世と2世からの布教ミッションが活動。ようそろ、日本カトリック化ならぬと禁教の世になりつつあった。時勢に反する画期的な海外使節であったが、スペイン風邪ッぽいクシャミくらいしかもたらさなかった。

ボヘミアを流れるVltava(ヴィッタヴァ)川。ここはプラハ市街を後にしてさらに北上する道中。やがてエルベに合流し、ドイツを貫き北海にそそぐ。


王族結婚とは政略結婚と同義、同時に近親結婚とも同義である。政略であるから、本人の意向と無関係。今なら児童虐待や児童出産で保護監督下に置かれるが、平均寿命30や40の時代だった。誕生後まもなく嫁ぎ先が決められる、甚だしい年違い、夫婦生活の無い遠く住まい、そんな具体例が転がっている。幼子で送られる皇女は、出来るだけ早く王の嫡子を作る任務につく。理想の王妃とは豊穣多産な女性。子を宿さぬ奥方は失格者である。

幸かな、このカップルは十等身もっと離れていようから、現在の常識から異存の無い健康夫婦になる。珍しい同い年で、さらに珍しいのは夫婦生活が円滑、円満だったこと。こうした幸せ多産な例はあって、代表二組を挙げると:オーストリア・ハプスブルグ家マリア・テレジア女帝と旦那フランツのコンビ、なんと子供16人。イングランドはハノーファー朝・ヴィクトリア女王と旦那アルバートの子供10人。夫の死後いずれも黒をまとい"喪服の未亡人”と呼ばれる。太っちょ巨漢の未亡人たちは子息子女を欧州中にばら撒いた。

ボヘミア王位はルクサンブール家から代替わりしてハプスブルグの神聖ローマ皇帝が兼ねていた。これに不満を抱くルター派貴族が、1618年に皇帝フェルディナンド使者を窓から投げ落とす。皇帝は制圧軍をだす。反乱新教派を助けるため、サボア公と若いプファルツ伯がにわか作りの傭兵軍コストを支出。これが何と皇帝軍に勝ったので、話がおかしくなった。[補註3]

皇帝をしりぞけた格好になった新教貴族たちは、新教の毛並み目立つプファルツ伯その人を王として招く名案を思いつく。孫の顔を見に来ていたオランニェ出のルイーゼが招待状を見て、母親の予感本能か、まず反対したらしい。ドイツ新教連合が会議を開き反対した。加えてエリザベスの父親ジェームスも大反対した。

紛争が長引くと、例えば新教独立低地域と宗主国スペインとの長い戦いと同じ泥沼に陥る。皇帝はあちこちで出費が重なり貧乏だ。だが低地(南Nederland)に常駐する精強スペイン軍に加え、裕福なカトリックであるバイエルンのウィッテルスバッハ公軍に傭兵軍を加え、旧教=皇帝連合軍として巻き返しをはかろうとしている。風雲急を告げる。

プファルツは`上`と`下`から成立している。下はハイデルベルグからデュッセルドルフまで。上はあまり知られない土地でバイエルンとボヘミア間の地域。 もし`上`とボヘミアが一体になれば経済的メリットが測り知れない。そうなれば将来バイエルンを新教側に取り込む可能性が見えてくる…。

若干24才の未経験な`若造`と‘御新造‘にすぎない。ただの選帝侯から国王への昇格の滅多にない話。結婚して6年、夫婦仲良く既に3人だかの子息子女をもうけ、引き続き毎年のように子供を作ることになる。その途中に舞い込んだ一寸したクイズである。彼らはハイデルベルクで、結婚初期の幸せな生活を送っているのだ。

フリードリッヒの叔父。異母兄モーリッツ1625年没後に`オランイェ親王`になり、即ち共和組織の総統職を継ぐ。兄と17才違い、息子のように可愛がられ総統教育を受けた。ライデン大学で学び軍に投じ4州国家軍の司令官を務める。野戦より都市戦を好み`都市攻略`将軍と言われる。
Frederik Hendriks 01

1620年の夏、153台の馬車からなる宮廷行列がハイデルベルグを出た。北部の低地域七つ都市と州などがまとまった年である。水が目線より上を流れるような低い土地は、スペイン(旧教ハプスブルク)に対し、既にほぼ半世紀の独立戦を経験している。彼らは「独り立ちをする」と宣言した。そして政争を潜り抜け且つ戦場を駆け巡る武将たち・オラニェの叔父たちは、甥っ子のボヘミア行きを承知したのである。

初め亭主フリッツは乗り気でなかった。何が決定のファクターになったか勿論、定かでない。恐らくアングリカンの強い信仰心を持つエリザベスの動機ではあるまいか。彼らは我がままな世間知らずの選帝侯・伯爵夫妻だが、それだけに若い夢と言うか、旧教サイド弾圧下(と信じている)のボヘミアに平和をもたらす正義感だろう[補註4]。
道中コースはバイエルンの北を抜けボヘミアに入る難路。料理人から家庭教師や宮廷官たちに加え、様々なブリテン家財道具を持って行ったらしく難儀な旅である。プラハ到着は11月1日、冬場に入っていた。

休む間もない三日後、準備を終え待ちわびていた貴族たちはまず亭主に王冠を授けた。さらに三日して上さんが女王として載冠した。`エリザベート`は王の后である。しかしそれよりも女王だと理解されよう。新教ボヘミア臣下がイングランド/スコットランド王ジェームスに向けたサインかもしれない。

ご令嬢は女王であられる。一刻も早く、我が女王(と我が王)を承認して下され候。
なぜならすぐに承認したのは、共和国宣言したばかりのオランダと、君主国のスエーデンとデンマーク、さらにヴェネチア共和国の四つだけだった。一寸お寒い`国際情勢`なのだ。くらい雲が新ボヘミアの空にかかっている。


【補註】
1.政略結婚におない年や数年違いは少ない。幼女で名ばかりの結婚もある。適齢期15前後の皇女なら理想的。スコットランドのマリーは適齢期に2才年下のヴァロア家フランソワと結婚。病弱な小年で夫婦関係をコンシュームせずに載冠の翌年に逝った。恋愛や惚れた相手と結婚する例は稀である。オーストリア・ハプスブルク女帝マリア・テレジアは数少ない例の一つ。

2.Frederik Hendrikはこの時29才の独身。彼自身も17才エリザベス亭主になる有力候補であった。オラニェ家存続のために政略上相応しい相手探しが続けられ、数度真剣に見当された。兄モーリッツの半ば強制を受け1625年(41才)、伯爵家の出Amalia van Solmsと結婚。ソルムスはエリザベスと共にプラハ-ベルリン-ハーグを随行/逃避の旅をした女官である。女王の身の回りの世話をする女官は常に高い身分の女性である。

3.1618年この事件を30年戦争のきっかけと見なす。1618+30=1648が欧州史の重要年で、関係国すべてがドイツ数都市で多くの条約に同意した。まとめて(英語読みで)ウェストファリア条約と言う。
4."生まれた時から王"種族の価値観が、21世紀庶民常識に会うととても思えない。
*本稿updateは{記:2011-07-30]に画像を加えたもの。

Miscellaneous Human History 雑史/外伝

ベアトリクス女王の退位 

Beatrix女王が昨日29日、退位宣言をした。退位と言う感じではなく「息子も立派になり、もう引退してのんびりします。今までお世話になりありがとう」そう言う優しく和やかな感じの語りぶり。ハーグ宮廷執務机から数分の放送。公と一民間局の二つのライブTVだった。人口1600万の三分の一ほどが生放送に見入った。そのあと終日、君主の退位宣言は全てのメディアを占領、ニュースサテライト局と各国映像メディアのトップニュースの一つだった。

明くる30日(本日)、印刷メディアに詳細記事。互いに親類のような君主制欧州諸国のみならず、民主主義による選挙で選ばれる大統領制の独仏なども非常な関心を寄せ詳細に過去の映像をまじえ報道している。ベアトリクスは母親ユリアナ退位を受け1980年第六代君主として載冠。来たる4月30日まで33年の在位になる。明日75才誕生日の女王にとって次世代へバトンタッチする好機会、と落ち着いた静かな表情。[補註1]

1815年ウィーン会議による王政復古で成立した欧州の王室が多い。ナポレオン後のウィーン体制なって、オーストリア/プロイセンなど列強はネーデルランドの南(オーストリア・ハプスブルグ領、後のベルギー)を加えたオランダの立憲君主体制を了承した。と言うのはウィレム・フレーデリックは3月16日既に南北ネーデルランド統合の王を名乗り、30日載間式を済ませていたのである。

彼は、列強が低い土地の南北統合とその王として自分を認めるだろうと十二分の算段があった。特にプロイセンとブリテン両国にとって、フランスと南で接する`強い王政国家`の出現は歓迎すべきことだった。両国にとり新オランダは言わば緩衝的機能を果たすことになるから。ウィレムは立憲君主と言いながら絶対王政の趣で王様業を始める。リパブリック即ち共和政体から王政に変わり、自信満々の一代目君主であった。

左;居間でくつろぐ優しい表情の老人。引退した王が腹をポコンと膨らませ、柔和な印象なのは死への旅立ちを伺わせる。こうした雰囲気の王侯ポートレートは珍しく、素描タッチも丁寧である。
  Willem 1 01
ウィレム・フレーデリックは日本史だと田沼意次の時代に生まれ軍人教育を受ける。父親は低い土地の北部7州の統領職家系、名前はやはりウィレム(5世)。だがナポレオンに7州を奪われ、父子揃ってブリテンにのがれ、従兄弟のプロイセン王フリードリッヒ・ウィリヘルムやロシア馬鹿帝王パーヴェルなどと組み、フランスに対抗するも歯が立たない。ナポレオンは弟を7州の王に据え、その代償として頭領の息子ウィレムに従来ナッソー領土だったドイツあちこちツギハギ土地を公爵領として与えるのである。散々な扱いだが、素晴らしいワイン・ガルテン(庭園)が含まれていたのが救いだったかも。オランダを取り戻すまで、彼は1813年10月ライプチッヒの激突を待たねばならなかった。30万連合軍と19万仏軍の歴史的戦い。とまれこの敗戦でボナパルトはエルバに流される。そしてオーストリア・メッテルニヒ主催の上述ウィーン会議に至る。


立憲君主制の蘭国初代国王としての彼の`功績`の一つは王位を次代に譲る`オランニェ伝統`を始めた事。定年になれば退職して老後を年相応に過ごす。左様な普通人の思考は現代の常識だけれども、過去の絶対君主の殆どは死まで王/帝位に留まった。病死や殺害によって次が載冠する。言い換えれば新王を迎えるために、王は死なねばならない。因みにロシア皇后エカチェリーナは亭主を殺害して女王になった[補註2]。ウィレムは1840年、68才で息子に王位を譲り、ベルリンの自領に悠々引退をした。事情があったのだが、21世紀から見れば、軍人にして優れ者であった。

UKプリンス・オブ・ウェールズは皇太子の公式称号。エリザベス2世長男チャールズは64才で、皇太子として世界記録を更新中。クイーン60年在位の母親もUK記録を更新中。この国に譲位は無い。ブリテン王室は日本天皇家に継ぐ古さだから納得できる。なお天皇制は男子のみに継承権を与える点で`苔むす`時代錯誤かもしれない…。チャールズも平成天皇と同じように、母親が亡くなって初めて皇太子を卒業して君主になれる。これに比べると、成人二十歳から数え25年の待ちでウィレム・アレクサンダーは王冠をかぶる。先祖ウィレムのお蔭である。それぞれであるが、ベアトリクスのんびり晩年の生き方に私は賛成する。

君主としてのオランニェ・ナッソー家は198年目になる。隣のベルギー連邦のザクセン・コーブルク・ゴータ家由来の王室は183年[補註3]。余談にくわえると、日本の君主・天皇家は3ケタの数字で収まらない。神武天皇から14代まで神話時代と言われる。実在性が濃いとされる15代・応神天皇(270年2月8日-- 310年3月31日)から平成天皇まで数えると1700年余にわたる。2番目に長いブリテン君主家も[補註4]遠く及ばない古く長い家系である。

ウィレム1世の後に2・3世が続き、3世後妻エマ(≒摂政役)を経て娘ウィリヘルミナ・ユリアナ・ベアトリクスと3人の女王が続いた。春の4月30日に4人目のウィレムが王になる。普通アレクサンダー(45才)と呼ばれるが、正式名はウィレム4世になる。知的聡明から遠いが、ハイテック農業国商いや水商売に充分役立つだろう[補註5]。屈託のなさはおばあちゃん譲りだろう。彼とマキシマの間に3人の娘があり、オランニェは女性系の家系なんだろう。

オランニェ・ナッソーは87%ドイツ系と勘定する人がいる。ベアトリクス母親ユリアナは芝居を趣味として、隣のおばさんのようなを気さくな人柄で知られた。ドイツ小貴族出を養子に迎えた。プレイボーイ且つロッキードスキャンダルで知られるベルンハルト。庶子のために金入りだっといわれる。君主兼妻ユリアナの某夫人へのセクト的のめり込などが絡み離婚寸前まで行き、時のデン・アイル政権が苦労した。

娘ベアトリクスもドイツ人を選ぶ。夢中に恋をした。Claus George Willem Otto Frederik Geert von Amsbergと綴る如何にも貴族らしい語を連ねる。同胞義父ベルンハルトと違い、プリンス・クラウスと親しまれた。女房が君主だから彼ら亭主の敬称はプリンスになる。君主が妻ならば、亭主は`王`と呼ばれない。逆の場合、女房は女王と正式に呼ばれるらしい。つまり`女王`に二義がある。君主と君主の妻の二つ。

好人クラウスはアムスベルク家のJonkheerとして生まれた。ドイツ言葉でJungherrに相当するが、ヨンクヘール和訳は若旦那又は若殿だろう。若殿は何不自由なく育ち、ヒトラー・ユーゲントに参加、のち第三帝国軍に属する。終戦時に捕虜経験をしている。ベアトリクスとの1966年結婚の時、アムステルダムはさながら`プロジェクトX`[補註6]に等しい反独感情の騒動が発生。蘭国を占領した敵国人との結婚は蘭人にとって受け入れがたいことだったのだが…。

時間が経過すると、全てが風化する。アルゼンティン軍事独裁当時の農業省次官ゾレグエタ(Jorg Zorreguieta)の娘マキシマ(Máxima) がベアトリクス長男の婚約者になる時、蘭国3/4の人々が受け入れがたい状態だった。クラウスを君主の理想的旦那と受け入れたように、現在マキシマは(選挙予測会社がゴシップ的調査を真面目に行う)王室メンバー中で最も人気がある。

ベアトリクス昨々日の退位/引き継ぎの発表に伴い、世襲制度に関する多くの論評が出ている。保守サイドは殆ど無条件に君主制を受け入れるのが通常である。左派サイドは21世紀は血つながりの世襲の時代でないとしつつも、事実上の王室権威に頭(コウベ)を垂れている。政治的権力を持たない点で、立憲君主の理想に近いのは日本かもしれない。2番目はスエーデンか…。

内閣と助言機関に君主/その家族をメンバーに加える蘭国は政治介入する顕著例。表向き/かたちだけと言われるが、事実上彼らの`威厳`による政治家や行政職長(知事市長)、さらに官僚への影響は大きい。王制はインスティチュート(組織/協会/機関/公法人…)であって、そうした隠然たる力を持つオランニェ・ナッソー家を``シミで汚れたインスティチュート``とコラム論評がある。的を得ている。

王室は開会式のテープ切りを本職とする。と発言したのは2004年没したクラウスである。君主の妻の陰になって懸命に本職を全うした人だ。しかし彼自身の苦い生きざまをユーモアとして聴衆に披露してみたかったのでは…と思われる。パーキンソン病を患い、それは戦前と戦後いずれの履歴にも負っていると解される。

王室の重要な役割は「王様権威と華麗なパブリックリレーション」である。海外に対するイメージアップと国家経済に役立つ`商い`のプロモーターである。王室が行う他国公式訪問にどさっと経済人が同行するのはお馴染みである。彼らは税金から相応な収入を得る代りに、あたかもガラス飾り箱の中の綺麗なお人形さんのように着飾って晩さん会に出る義務が与えられている。常に笑顔で手を振り、必要ならば大災害被害者を抱きしめる優しさを示すこと。さもなければ、国家にとって高価過ぎる存在になろう。

国内的に言うと、蘭国17世紀のリパブリックと言う伝統感に対し、王室自身が我が身である君主制を守らなければならない。198年のわずかな期間だから、常にリパブリックを唱える王室反対勢力が転覆機会を伺っているのだ…と噛みしめつつ、ベアトリクスはじめ王室メンバーは努力しなければならない。王室人気の維持は、絶えずゴシップが起こり得るから、容易くない。一つの人気維持手段は幾つかの王室ゴシップ紙である。大統領制のドイツやフランスにさえ、王室ゴシップジャーナル誌が存在するそうだ。高教育を受けなかった庶民は王室をもっとも支持する階層である。もう一つの基盤は経済界/商い世界である。

100年後に君主制が生きているかどうか?  エキスパート技能/職業を碌に持たないまま、血の繋がりだけでテープカット儀礼職によって贅沢に優雅に生活する一群の人々が消えゆく運命にあるかどうか? それは分らないと言う知名人は多い。もし欧州連合が一つの国家的組織としてより機能するならば、EU内部の複数王室の存在意義がなくなるのは自明である。税金を無駄に浪費する非合理を未来の人々が許すだろうか。

喧しい儀礼に縛られる君主家族はヒューマニズムに照らし在り得べくでないと言う意見がある。それを読み、天皇家の皇太子妃の話題を思い出した。日本皇室の仕来たりは欧州諸王室に比べ、はるかに厳しいように思われる。17世紀に及ぶ時間が天皇家の人々をがんじがらめにしている…? 2世紀に過ぎぬオランニェ・ナッソーの8倍以上の時空間の重みがかかっている。

欧州王室の多くは自由でわがままですらある。逆に言うと人間味に溢れている。例えばノルウェイの若殿は2度結婚した子供のある女性と挙式。エリザベス2世の子供たちは殆ど離婚して半ばスキャンダルを振りまいている。スペイン王家・長女の旦那は国家財源をチョロマカシ、ミニ国家モナコ公国家はサーカスとフォームラ1レースの`顔`であり、深刻な国際政治と関係ないエンターテイメントとレジャー産業で優雅に生きている。前ベルギー王ボードワインのファビオラ未亡人は彼女自身の王室費をインスティチュート管理にし、税金を支払わない。王室メンバーが税金逃れをするのはあちこちで起こり、それぞれの税支払者の顰蹙を買う。ざっとこんな塩梅なのだ。

債務危機とユーロ圏大不況のため、各国政府が節約に節約を重ね、南欧州は失業者で溢れる。王室費カットの世論がでてくる。ベアトリクスはマジェスティタイト(女王陛下)の威厳を持って、それをはねつけた。この点はがっちりとしぶとい。彼女の実質収入は因みに本日為替換算で1億200万円ほど。宮廷維持/人件費/旅行など諸経費は`宮内庁`負担ゆえに、1億なにがしのそのままは実質所得である。1億円所得のしもじもは沢山いるが所得半分以上を税金にとられよう。ベアトリクスほど心臓の強くないスペイン・カルロス王は世論に押されカットを受け入れた。ベアトリクスよりかなり少ないそうだ。US大統領はベアトリクスの1/3ほどらしい。ほんとなら少なすぎるのではないか。

立憲君主制と元リビア・ガダフィーやシリア・アル・アサド独裁者とは紙一重の差だと指摘する御仁がいる。君主との関係で人間/個人の尊厳/平等について意見を述べる人がいない。女王陛下に微笑して彼女の執務ぶりや人柄に敬意を表する。それは独裁者への従僕たちの態度と共通すると言う分けだ。エジプトの元大統領は30年余、リビアのガダ酋長は40年以上も続いた。彼らの支配の間、諸国政権担当者の誰が異議を唱えただろう。いわんや自国の従順な臣下が口を開くはずがない。

同じ文脈で民主主義に背くと直言しようものなら、王自身や総理大臣(≒臣下)のひいきを無くし閑職にまわされる。リパブリック主義だった左派の知事や市長が軒並み女王に賛辞を送り、いつの間にか王室ファンを自称するようになる。現在の体制ネットワークから除外されないように誰もが全力を尽くす。それ故に欧州諸王室は100年も200年も血の繋がりだけと言う奇妙な理由で継続してゆく。

欧州における民主主義政権が、`民主主義に正反対な`旧態制度を維持していると言うこと。民主主義が不合理を支える場合、許容範囲と観るべきだろうか。もしも王室存続のレフェレンダム(国民投票)の結果が否と出るならば、リパブリック=共和政体=大統領制になるだろう。王室メンバーの殆どはそうなってほしくないだろうと想像するが、どうだろうか。その場合、ゴシップジャーナリズムに嫌悪を示す彼らが皮肉にも、必然的にゴシップ紙と映像メディアにすべからくスター扱いされることに、生存手段をますます見出すのではないだろうか…。

[補註];
1.前項AmbiorixとBeatrixとは偶然、接尾語で共通する。ベアトリクスの最も有名な人物がオランダ女王だ。もちろん同名女性が多く、歌手や俳優がいるようだ(私は知らない)。ニックネーム又は派生名として、前と後の二つがある。Bea* ベアと*Trix(ト)リックス。Beatrice / Bice / Beatrijs / Viatrixなど変形がある。幸せを運ぶ人や旅する人の意味があるらしい。

2.英語名はキャサリン。独名はカタリーナ。神聖ローマ帝国北ザクセン区の公爵の娘ゾヒィー。露西亜正教に改宗、名前もロシア風に改名。女性の絶対君主の代表だろう。常に若い愛人を持ち、その精力が封建ロシアを強大にした。 頼りない息子ポール(母親没後のパーヴェル1世)は愛人の子の可能性が大きい。ドイツ皇女ゾフィーがロシアに君臨、長期間に宝石手工業が発展した!女王自身の飾りと帝政権威を示す諸宮廷を満たす宝飾作品は一見価値あり。現代女性曰く:ナーニ、ヤナデザイン!

3.ザクセン・コーブルク・ゴータ家は18世紀なかばUKヴィクトリア女王の旦那Albert(独読みアルベルト)を出した。これ以降、UK王室名はザクセン・コーブルク・ゴータ家となる。ベルギー王室も同家系。オランニェ・ナッソーやロマノフ帝政など多くにコーブルク・ゴータ血が入っている。ハイドパークの丸い劇場はアルバート・ホールと彼の名を冠している。バイエルン北の小さな領邦二つで、ドイツ名と直ぐに分かるので第1次大戦後、ウィンザー名に改称。見ようによっては蘭も英も白耳義も、露/スエーデン/丁抹ら王室は、軒並みこのドイツ/プロイセン二つ小領邦合体家系とも言える。

4.ブリテン王様連合=UKのウィンザー家について;参照2011年9月21日「英霊記念日曜日 人形の家が行う儀式のかたち」 

5.Water Management≒水利工学。灌漑/堤防/運河/ダムと言った水利用や水害対策の総合学は蘭国伝統の分野。明治期に薩長政府は蘭技術者を招聘して、治水事業を行う。蘭国に国際的大手としてサルベージと水利工学とに於いて複数企業が知られる。アレクサンダーは法律を学び、技術でも水利でも学士を得ていないと思われる。資格を持たないが、マネージャーとして国際事業に貢献しようと言うこと。文字通りの水商売になる。皇太子付きキャビネット(≒内閣≒顧問グループ)が大学卒業後に練り上げたアイディアだろう。実作業は取巻きグループと事業ごとに専門家を招き、あたかも彼自身の力量であるかのようにプレゼンテーションする。多くの催しに行う挨拶を文書課が用意するのと同じ経緯。日本の宮内庁に天皇/皇后/皇太子などの専門キャビネットがあるかどうか不明だが、相当する部課が存在するように思われる。

6.昨年ソーシャルメディア・フェイスブックを通じて発生した事件。一人の少女/小年の誕生日に数万が集まり、暴動に発展する。参照;2012年9月26日「Facebookfeest =フェイスブック祭:Project X Haren」

Miscellaneous Human History 雑史/外伝

クルディスタン外史 [本編]  `バビロンの捕囚`に絡み

クルド人だと言う若者に合ったことがある。はて、そんな民族が何処にいる? 30年ほど前、私は知らなかった。クルドだけでなくゲオルグもアルメニアもたくさん知らない土地・民族ばかり。冷戦で旧ソ連の今日知られる○○スタンっぽい共和国などは一般に殆ど報道されなかった時代だから、異世界の私などが知る筈もなかった。日に焼けた様な精悍な表情の若者はトルコの移民申請者と思っていたのだが、少し打ち解けて片言英語で話してくれた。トルコパスポートだけれども実はクルド人なんだと。

1980年前後、中央欧州はガストアルバイター永住に続く難民/移民の大波にさらされていた。トルコ共和国からの[補註2]マイノリティーとしてトルコ国籍クルド人がいた。彼の短い話は私を驚かした。何故逃げて来た? 「貧しく経済移民のトルコ人と俺は違う」彼は続ける「故郷`クルドの土地`はクルド独立組織とトルコ政府軍との内戦が続き、2次大戦後だけでもクルド数十万が亡くなっている…だから俺は逃げてきた」


バベルの塔。ユダヤの物語、創世記[補註1]に登場する建築物。17世紀フラーンデレン画家達に好まれた画材で、ブリューゲル親子3代による幾つかの作品が知られる。親父Pieter Bruegelde Oudeが筆頭で、その長男Janと次男de Jonge、さらにJanの息子(もde Jonge)など画家の家系。老ブリューフェルの弟子たちも師匠の主題に挑み、バベルの塔はあちこち欧米美術館にそびえている。

Kurdistan X-0


数ある`バベルの塔`作品中で本作が最も遠近に富み、測り知れない塔の巨大さを表現している。この画像は Kröller-Müller (クレルレァー・ミューラー)美術館所蔵/展示から。イェルーン・ファン・アーケンの影響を受けた``親父ペーテル・ブリューフェル``版の構図を発展させたような作品。大石を細工する人に白い雲など老ブリューフェルと同じ素材があり、直弟子の作かも…。意外に小さく、寸法は50㎝四方だったか。計測せずカタログを入手せず、画家名も忘れている(分り次第追加予定]。


クルドはクルディスタンからの欧米省略簡易語と思われる(英発声だとカード/カーズに聞こえる)。彼らのオリジンはバビロニアあるいはその前のアッシリアをこえて遙かにさかのぼると言われる。アッシリアシリアは、現シリア共和国の語彙と関わりがあるようだ。ヘブライ(=イスラエル)語源とも言われる。前項に挙げた``肥沃なる三日月地帯``の主であるアッシリアそしてバビロニアは現クルド人居住域(↓地図)を南に延長拡大した国土である。両王朝はモーゼとイエスとの中間時代に興り、新旧いずれの聖書にも数々の物語やエピソードが再編集されて採り入れられている。

その一つが`バベルの塔`伝説。`ノアの箱舟`の次に語られる[補註3]。ジャックと豆の木のような天国への架橋的構造物である。構想の雄大さがいい。古文漢文に淀みない友人の本によると、支那と日本(古事記/日本書記ほか)文献にウリ科植物の天への成長、その成分が星座や天の川になったと言う物語があるそうだ。

ノアについて;大洪水の滅亡から逃れるために、ノアは家族と動物たちを乗せる巨大な箱舟を作る。児童絵本にしばしば描かれ、子供たちの想像力を掻きたてる物語だ。洪水が引くと、船はトルコ東端にある海抜数千mのアララト山に漂着していた。これを信じる人々だけでなく多くの国と機関が証拠を探すべき学術的調査研究を繰り返している。発見された甲板材化石の炭素測定までされ、あれこれ楽しい議論が繰り広げられている。洪水伝説は世界各地にあり、上の友人は例えば瓢箪に乗って難を逃れる老荘的な支那の物語を紹介している。


日本の平安時代に当たる地図。コーカサス山脈以南からアナトリア(トルコ半島とも呼ばれる)を含みカスピ海沿岸までを所収する。中世わずかの期間に興ったクルディスタンの王朝。クルド語の綴りで正確な読みを知らない。クラ川とアラス川との間が主な領土だった。両河川は西から東に流れ``肥沃地``を形成しつつ、カスピ海に注ぐ直前に手を合わせるかのように合流する。北から南に流れるティグリス/ユーフラテスと対比的で、クルディスタン史に於ける唯一の独立国家と関わる。
Kurdistan X-1

上記の中世領土地図を北に重ねつつ、現在のシリア/ヨルダン/イラク/イランを示す。明るい部分にクルド人の様々な部族が散開している。即ちこれら4国に加え、トルコ東部、首都バクーのアセルバジャン、アルメニア、グルジア(独読みでゲオルグ、英読みでジョージ)などに紀元前から様々なクルド部族が歴史の悪戯と言うか、めくるめく民族抗争史に浮き沈みしつつ生存してきたと考えられる。


北イラクにクルド自治区として3県が存在する。湾岸戦争1991年1月以降、フセイン政権の手の届かぬ地域になったからだ。2003年の第2次戦争までに、この地域でイラク共和国軍作戦があるたびにNATO旗下に於けるUS戦闘機が爆撃を実施。クルドはオスマントルコ時代もそれと直接かかわらぬトルコ共和国時代も独立武装闘争を継続してきた。古代から続く独立国家になる悲願…。長い苦難の末に、北イラクに初めて自治区を得た。2005年から彼らの地方議会が機能しているのである。

上図の明るい部分の内、北イラクの東隣にイラン居住区、北側に圧倒的範囲のトルコ区、さらに西側に飛び地二つの小さなシリア区がある。小さなシリア区はトルコとイラクと連結し、住民300万を擁す。シリア・アラブ共和国の1/7強を占める少数民族である。

彼らの戦闘グループはシリア内戦半ばからFSA(自由シリア軍)と肩を並べて反政府ゲリラ活動を展開。ポスト・アサドに北イラクと同じ自治区を得るのが当面の目標だ。だが寄せ集めゴチャマゼFSAと先月合意を得てアサダ後の受け皿組織SNC(シリア民族委員会)がこれを認める保証は何もない。クルド戦闘グループは、烏合の衆に近いFSAより遙かに結束力が強く、認められぬならば今度は受け皿に戦いを挑むだろう。彼らは気の遠くなる世紀時間に耐えてきたのだから。

トルコ政府はクルド域を認めず、南東アナトリア地方としている。1978年クルド労働者党(PKK)と言う武装独立組織が創立された。黒い鼻ひげをトレードマークにするリーダーAbdullah Öcalan(アブドゥッラー・オジャラン64才)は地下にもぐり転々と各国を移動した。彼は阿蘭陀に若いPKK戦闘員の非合法・欧州中枢と、ゼーランド訓練地を立ち上げた。

私が出会った控えめな若者は`逃げてきた`のではなかった。ケニアでCIA+トルコエージェントに99年逮捕されたオジャランの弁護士ブリタ・ビューラー筋の情報によると、訓練後に故郷に帰った多くの戦闘員が戦死していった。かの若者は戦死したか、EUインターポールに逮捕されたか、それとも熟年ヴェテラン活動家として頑張っているか…。

EU加盟を目指すトルコ政府は死刑を廃止、オジャランはマルマラ海の小島で終身刑役を送っている。一方クルド居住区と元PKK(現在別名らしい)山岳地は理由をつけて定期的にトルコ空軍によって爆撃されている。トルコ宰相エルドアンはシリア反政府軍FSAを支援、アサド批判の先頭に立つ。トルコ即ちアナトリアは本来イスラム圏だがEU加盟を望み[補註4]、アラブ民主化に於いてUS/EUと協調する。シリアのクルドは先述したように、ポスト・アサドの未来を模索している。彼らは殆どトルコのクルドと重なる。数か月後、どう推移しているだろう。


茶色:紀元前627年、アッシリアのアゾーレバニパル朝最大版図。青紫;アッシリアの発祥区域。斜線;紀元前750年サルゴン朝。 右:左の部分拡大図。下方にユーフラテス川に沿う首都バビロン、上方にティグリス川に沿うアッシリア首都だったNineve。
Babilon C

首都バビロンから三日月状に回り地中海に至ると現在のレバノン海岸線に商港が並ぶ。さらに南に目を転ずると死海、近くにイェルサレムがある。


左;紀元前800~500年。長細い海岸地帯をフェネキアと言う。帆付き手漕ぎ木造船で地中海全域とジブラルタル海峡を抜け北と通商した。しかしこの期間フェネキアはアッシリアや新バビロニアの支配下にあった。またシオンの丘を含むイェルサレムはかつて預言者モーゼに導かれ帰還したユダヤ民族末裔の王国があった。
Babylonia Fenechia

右;Frans Francken 2(Antwerpen1581-1642)オランダ当時の南の画家家系。17世紀初め神聖ローマ皇帝載冠式のカルル5世に作品献上をしている。肉付き豊かな女性像と風景、当時の売れっ子画家だろう。フランス・フランケンはバベルの塔建設を視察する王を描いている。実は王の左側部分に群像が描かれている。工事遅滞のために設計家または現場頭領を叱責しているような場面。
ノアの洪水を紀元前4000~3000年とするのが主説のようだ。だとすると塔建設はその後の紀元前3000~1500の間になろう。その後、エジプトに平和に暮らすユダヤ人が徐々に迫害され、やがて契約の土地・故郷に同胞を導くモーゼ神話になる。


旧約聖書に含まれるダニエル記ほかに新バビロニア国王Nebukadnezar(ネブカドネザル)2世の業績が書かれている。彼はバビロンを70km城壁で囲い、華麗な庭園/建築構造物によって首都にふさわしい輝きを与えた。同時にエジプトと抗争、現レバノンにあるフェネキア港湾都市を抑えると同時にユダヤ王国(イェルサレム)に軍を進めた。殺戮を行い、さらに数千の専門職人/働き盛り若者をバビロンに移住させる。紀元前597年のバビロン幽囚と言われる事件。ユダヤ人は首都の人口増加と、造作事業の労働力に貢献したと本は記す。バベルの塔か、それに近い巨大建造物に従事した…?

58年後、東に勢力を張るペルシャ(=現イラン)Achaemenide朝の王Cyrus(キュルス)がバビロン侵攻、ユダヤ囚人は解放されることになる。バビロニアから世界帝国ペルシャ支配に移る転換点だった。ユダヤ人の多くは故郷より肥沃なメソポタニアに定住した。優れたユダヤの頭脳がペルシャ官僚機構に生かされたと思われる。

ペルシャはこれから7世紀半ばまで繁栄を謳歌する。この10世紀を超える期間に、クルディスタンと関わる部族・民族の形跡が目立たない。彼らはアッシリア/バビロニア即ちかつての肥沃なる三日月地帯に民族アイデンティティーをひっそりと抱きつつ、いつか自らの国を作るべき夢を育てていたのだろうか。



[補註];
1.旧約聖書は旧い約束を表したユダヤ社会の聖典。紀元前13世紀頃の預言者モーゼの著した律法を主にする。創世記(と言う巻?)から始まる。ユダヤ教を信じるユダヤ人自身にとって、``旧い``約束はおかしい。現在も生きている約束事らしい。これを基にして開発された新しい約束(すなわち新約)に対する呼び名として使われたのだろう。やはりユダヤ教から派生したイスラム教を新約と言わないのは6世紀時間差と砂漠で生まれた厳しい教義をそなえているためと思われる。

2.1961年K.アデナウェル西独政権はトルコ政府と協定締結。事実上の`労働者導入`の合意をした。1980年代初期、外国一般労働者を必用としなくなったが、`協定`により彼らは既に社会保障付きの在独権をえていた。気が付くと家族/親戚を呼び寄せたトルコのゲストアルバイター社会は800万人に膨れ上がっていたのだ。ドイツ連邦の1割だ。欧州の一般社会問題だが、経済成長の底辺を担ったトルコ労働移民は独社会の常なる政治課題であり続けよう。

3.新旧の聖書に記述されるバベルの塔の時代・紀元前3000~1500年は日本列島の縄文時代晩期に当たるだろうか。研究者によると、弥生前期以前に既に河川に沿う湿地帯で米作が芽生えていたらしい。メソポタニア古代人と同時代の日本列島人を語る文献は日本書記ほかだろう…。伝承と言うか創作に属する物語だが、史実を背景にするのだから、バベルの塔のような日本版があれば面白い。

4.EU各国の極右政党は反イスラムである。自国民を優先するのが民族主義の第1義。1960年代以降のイスラム圏からの大量移民を、欧州のイスラム化と右政党は言う。数十年続いた移民馴化努力を、例えばアンゲラ・メルケルは大失敗だと告白せざるを得なかった。受け入れ先の偏見差別があること。同時にイスラム戒律のせいか、彼ら移民が移民先文化を拒否する…。50年住んで、独(または蘭)語を理解できない移民がいる事実が世間を驚かした。
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ken minatoya

Author:ken minatoya
Victor Westhoff(1916-2001)碑文Hij observeertからのHNを本名と苗字に先立つ屋号に変更。ウエストホフは生物フローラの相互生息環境を丹念に観察したBiotop概念の先駆者。ザザーッとフィールドを歩きつつ、こぼれ見える外史/雑人/雑草の風景

日本語→英語自動翻訳【星条旗】
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