ライン・ワール・マースの狭間から、草の如し徒然の観察八景。 政ごと/商いごと/言の葉ごと/遊びごと。

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Loreley & Bobsleigh  [ローレライのメルヘン収支決算]

先週カンボジア首都プノンペンでユネスコ世界遺産会議があったそうだ。各国持ち込み遺産候補で溢れると言う。一方で、過去に選定された場所が維持管理の不備、偽デッチアゲ情報、約束違反などの理由で取り消されたりするらしい。経済=観光がかかっているために、ユネスコは思わぬ権威を集めることになった。

何処の国の誰が偉いさん風を吹かしている? とライナー・クネヒト氏がぼやいている。85年前オットー・クネヒトが立ち上げたコンクリ―壁面材会社を経営する人で、数年前レジャー産業に進出。と言っても単純な`コンクリート`基礎の上にステンレス半円鋼管を乗せたボブスレー・バーンを斜面に作ったに過ぎない。サマー・レジャーである。芝生のスキージャンプと同じで夏に行えるウィンタースポーツ、その遊戯施設である。

バーンと言うかトラックは、かのローレライの岩壁にあると言う。ローレライ神話の場所ゆえに、世界遺産の品格に関わる。従って撤去するようにとユネスコ委員会が勧告したのである。ラインランド・プファルツ州政府の審査承認を得た事業であるから、州政府の方針と関わる。ライン川中部渓谷の北(上)半分は州が世界に誇る観光地である(補註1)。つまりブドウ栽培と並ぶ州の重要財源なのである。

美貌のローレライが船びとを魅了して水底に引きずりこんだ岩壁
Lorelei 04
ボブスレーバーンはこの範囲に見えない。


↓;Loreley/ローレライの日本語詩付き楽譜。これを見ながら習ったのは中学だった。オタマジャクシを読める筈はなかったが、聴きよう聞き真似で半世紀後にメロディーを覚えている。教育用の唱歌と言うのは`大した`力持ちである。
Loreley liedje
20世紀後半、ドイツ国内ですら日本`ローレライ`知名度に及ばなかったと思われる。教科書になく、歌う機会はない。ギムナジウムのある一行とサウンドオブミュージックやローレライの歌について話した時、みんなキョトンとしていた。エルビス・プレスリーのロックンロールが遙かに巷に溢れ、ビートルズ常識の時代…。復興経済とライン川の観光、さらに世紀末のクラシック歌謡の見直しと共に、ハインリッヒ・ハイネ(Christian Johann Heinrich Heine )による歌詞がフリードリッヒ・ジルッヒャー(Friedrich Silcher)の曲にのって見直されるようになった。これをひと助けしたのが蘭リンブルフ州マーストリヒトのヴァイオリン弾き・アンドレ―・リウ(André Rieu)。クラシック音楽を言わば大衆化した人で、EU圏特に独仏で大成功を収めている。ヨハン・シュトラウスを中心にしつつ、例えば'Die Loreley'を彼自身の交響楽団で演奏する。楽団の女性たちは常に優雅クラシックドレス着用。スタジアムや都市の広場を埋める大観衆を前にローレライのメロディーが流れる。かのUS売れっ子ブリットニー・スピーアズ(Britney Jean Spears)を凌ぐ売上を誇る。世界ミュージッシャンNo.5に入るビジネスだから、TV放映などを通じるローレライの普及ぶりが想像されよう。

左下;ラインラント・プファルツ(Pheinland Pfalz)州の`上側中流部ライン渓谷`図。上部コブレンツKoblenzから下部ルーデンスハイム(Rüdesheim am Rhein)までのほぼ65㎞。川面から見上げる高みに、過去1000年間に築かれた砦(城)/僧院/教会が並ぶ。約40を数えるからほぼ1.5㎞ごとにある勘定になる。2002年にそれらの建造物と渓谷とが一括に二ユネスコ世界遺産として認定されている。その40余の対象が個々に遺産として登録されているとは考えにくい。ユネスコ警告と州政府政策の争い…しばらくの猶予期間があろうが、どう落ち着くだろう。

Lorelei 03

手前にブドウ園。連邦16州の内、ワイン産業省を持つのはこの州だけである。ワイン大臣がいるのだから、ブドウ栽培面積は他を圧して大きいそうだ。温暖化でブドウ栽培の最適緯度が北にシフトしている。イタリア/フランスの伝統葡萄農家が憂えている。その最適緯度は中部ライン渓谷からコブレンツでラインに入るモーゼルMosell、さらにラーンLahnやナーエNaheなど河川を含むドイツ南部になるだろう。既に名産ワイン産地であり、いっそう勢いがつく。


同族会社クネヒトの遊戯施設がそのまま留まる場合、世界遺産資格を失う可能性はある。資格を失うと、ライン中流渓谷の観光客が減るだろうか? 国連`賢者`寄り集まりの`正義`に屈するべきだろうか。岸壁からのボブスレー・トラックまでの距離と、互いに干渉しない調査結果をユネスコに提出、ネゴ(≒政治工作)する余地があろう[補註2]。 

ライン本流が左側から手前に流れている。モーゼル川が右奥からラインに合流する。中州の先端部分に大きな皇帝ウィリヘルム1世像(Wilhelm Friedrich Ludwig:22-03-1797~09-03-1888)が立つ。諸侯領寄り集まりをドイツ帝国として統一した初代皇帝。宰相ビスマルク(Otto von Bismarck)を筆頭にするプロイセン家臣の有能さ故である。コブレンツ名だたる観光地。
Lorelei 01
ラインラント・プファルツ州のわずかな部分だが、ラインに流れこむ支流ネットワークが見て取れる。ブドウ栽培に欠かせぬ背景である。

かつてコブレンツ市は国際ガーデン博覧会を持った。相応な見本市なら、会場を俯瞰したり、入場の便宜のためにケーブル/ゴンドラを設置するのがこの頃の常識である。ガーデン博の際も、市街からライン川を越えて対岸高みの会場までケーブルカーが設営された。催しが終われば、ライン景観保持のために撤去する方針だった。しかし観光アトラクションとして人気を集め撤去方針を中止したようだ。コブレンツは世界遺産40余アイテム域の北端にひっかかっている。当局はユネスコ恐るるに足らずと見たのだろうか。

2009年ドレスデン市の世界遺産`18㎞エルベ川渓谷`が資格を失っている。ドレスデンはエルベの谷に栄えたザクセンSachsen州の核古都だ。東独時代の古色を一新すべき、21世紀になり様々なインフラ基幹プロジェクトが展開された。知られるザクセン候宮殿再建を別にして、その一つとしてエルベをまたぐ橋梁計画も構想された。ユネスコは大反対だった。東独からの復興/経済活性が第一だから、連邦も州も市も計画に前向き。順調に実施された。警告を発し`面子を失った`格好のユネスコは`遺産資格`を抹消した。[補註3]

コブレンツのケーブル存続は`クネヒト家`によるボブスレー施設と共にプノンペン会議の議題に上がった筈だ。州政府の担当部門によると、コブレンツ・ケーブルは2026年まで暫定的に承認されたと言う。13年後であるから、寿命に遠いとしても実質的な`更新/見直し`即ち事業アップデイト時期と言える。手短に言えば、ユネスコはケーブル存続をOKしたと見なして良い。
>Lorelei 02
↑切り立った崖とボブスレー・トラックの組み合わせを見るならば、ユネスコの面々でなくとも、チョット興ざめする。もしもこの二つ写真のように、崖上部分からステンレス鋼鈑が蛇行しているならば、世界遺産の名に値しないと納得できるのだが…

なじかは知らねど 心わびて
  昔の伝えは そぞろ身にしむ
  さびしく暮れゆく ラインの流れ
  入日に山々 あかく映ゆる

万人に知られる歌詞は近藤 朔風(コンドウ サクフウ)による。本名・逸五郎、酒好きな訳詩家で肝臓を患った。35才(明治13-大正4年)早逝したのが惜しまれる。1番歌詞初め2行はハイネ原詩を忠実に移している。後半は全詩からの語彙/抒情を取り入れたもの。文語体らしからぬ平易な作詞で、誰にも分りやすい。美しい訳詞でハイネと伍する格調/雰囲気を持っている。文部省唱歌に採用された理由の三分の一くらいはこの歌詞ゆえかも知れない。[補註4]

朔風の言葉と憂いを秘めるメロディーのお蔭で、日本人がライン中部渓谷を訪ねる。森鴎外はこの崖を初めて訪れた同胞の一人に違いない。文豪に続く日本人観光客は東洋からくる最大グループであるそうな。さもあらむ。我が村の近くにラインに沿う`ローマ街道`があり、砦の連なりとカエサル時代ローマ人生活を見聞できる。だが同胞と出会ったことはまだない。そうした観光街道ルートは連邦いたる所に設定されているが、ローレライ/ライン下りに並ぶ日本人の関心はバイエルン・ロマン街道(Romantische Straße)に集まるっているようだ。

先の復活祭休暇にローレライのボブスレーバーンを滑り降りたのは3万人だと言う。寒い日和だった。もし普通の年の夏日和ならば、10倍の利用者になったかもしれない。楽しむ利用者の巾は距離や斜度による条件に左右されるだろうが、曇天3万なら、悪くない商売ではないか。参照;上空からの俯瞰→ http://goo.gl/maps/YSZiV

壁面パネルの建材製造企業クネヒトは確固たる多角化経営方針を持っているかもしれない。ファイバー・グラスなど素材開発とコンクリートあるいはステンレスの組み合わせ…、軽量にしてかつ強靭な土木建材サプライヤーとしての展開。そしてライナー・クネヒト氏は孫や子供たちへの楽しい贈り物を考えたのかもしれない。`滑り台`はレジャアー施設の定番の一つ。大小を問わず連邦中のゲマイン(基本行政単位=市町村)に必ずオープンやトンネル状のくるくる回りの滑り台がある。加えてスポーツ・ボブスレー/リージェはドイツの得意種目。五輪のメダルはたいていドイツがかっさらう。他国に比べると、人気の高いスポーツ。かくして半ば必然的に、滑り台事業部が生れ、最適立地としてローレライ山頂部が選ばれたのではないか。

このアイディアは州政府に歓迎されたようだ。ウインタースポーツのサマー化はトレンドでもある。`国お越し`と言うか地元活性が葡萄とライン遊覧の伝統だけに居座っていてはならない。こうしてローレライのレジャーイヴェントは誕生した。もし施設撤去の場合、投資額と今後の年間売り上げ(≒利益)を、州政府はクネヒトに賠償しなければならないだろう。あるいは他への引っ越しも考えられる。するとローレライと相乗効果が消えることになる。

カンボジア世界遺産会議の撤去勧告は、お伽話にまつわる小さなドタバタ。ひるがえって、それが現代のメルヘンと言うことかも知れない。ハインリッヒ・ハイネは1番の3行目にEin Märchen aus alten Zeitenと詠んでいる。古い時代から続くメルヘン。水面から130m高に突き出る崖は昔から危険な曲がり角で、船事故が絶えなかったらしい。古代から近代まで様々なメルヘンが作られたようだ。

遺産資格抹消は65㎞内のすべてに及ぶから、州政府は頭が痛い。天下のライン渓谷がたかがユネスコなんぞに頼るとは情けない、と言う声もある。かたやクネヒト[補註5]への補償額だ。さほどで無いと思われるが、このユーロー危機にあって又もや州民からお小言をもらうのも避けたいだろう。前回選挙で保守キリスト教民主(CDU)を辛うじて上回り、社会民主党(SPD)+緑環境党(Grünen)連立政権がこの収支決算をどうまとめるか、見どころである。

【補注】;
1.中部渓谷の南半分は隣り合うバイエルンやヘッセンとの州境を流れる。さらに南のフランスとドイツ(バイエルン)国境になる部分を含むのか?不明。コブレンツから北流しケルン/デュッセルドルフ/ディスブルク等を通過する部分は、すると`下部渓谷`になる。しかし山地より平野部の感じ故に、渓谷を使わないのかもしれない。
USでは川が流れる平野部を渓谷(Valley)と呼称する。水が大地を流れると、水際が削られる。数十センチから数メートルまで。それは日本山岳地/ロッキー山脈/ライン中部などの渓谷のひな形、と言うか相似形である。左様な塩梅で、大河川を悠々と流れさしめる広大な平野部を`谷=valley`と表現する。ミシシッピー・ヴァレーと聞く日本人は首をひねるのだが…。

2.国連に幾つの下位専門部があるか知らない。人権や難民を扱う部門の事。委員会と言うのか局と言うのか知らない。とまれそれらのボスは国連総長が指名するように思われる。自薦他薦のポスト取り合戦が繰り広げられる。12年蘭首相を務めたルッベルスはNATO委員長にまず立候補、それならずして、`盟友`である国連総長コッヒー・アナンと話をして難民担当ボスに収まった。彼の補佐女性職員2名からSexual harassment訴訟を受けスッタモンダ。アナンの援護を受けたが任期半ばで辞任。いろいろ回顧談で、委員会勧告や決定の手続きが個人裁量でなされる場合が多いと語っている。渓谷の資格抹消は委員会ボスまたは古参委員たちの差配に影響されると言うこと。ドイツ人がその一人なら、かなり融通が利く筈。

3.世界遺産会議は定期的に開催される。委員資格の詳細を知らない。印象を書くと、国連を核にする国際機関と言うのは不思議な存在である。国際公務員と言われる連中が高給を食んでいる。各国が国の面子にかけて、最高公務員職に自国官僚を送り込む場合が多い。一般職員は公募され、採用されるとあたかも永久雇用であるかのように組織内あるいは関連国際機関を渡り歩く例が多い。一般より遙かに様々な特典があり、元職員リタイア―した某が`ちょっと止められない`待遇と公言している。EU公務員も同様で、ユーロー危機/不況に合って、改革が話題になる。裏返しに言えば、国際公務員は甘やかされ過ぎなのだ。世間知らずの別世界人…。

4 ローレライの詩/歌、その背景について詳しい音楽MP3サイト下記を参照されたい。
http://duarbo.air-nifty.com/songs/2007/01/die_loreley_61d7.html
二木(フタツギ)紘三(コウゾウ)さんが主宰される天下逸品の歌謡/民謡メロディーサイトである。氏の人となりが余すところなく発揮されている。品があり、ほのぼのと温かい。熟年の憩いの場所としてお薦めする。
(上記URLをコピーし、貼り付けると、氏の演奏するメロディー・ローレライが流れる)

5.Knecht:召使。めしつかいの概念は広い。英王室の女王の身の回りの世話をする召使は lady-in-waiting と呼ばれる。高位の女性である。給料無しの研修生/学生を言う例もあり、半ば知識人である。一般に、家事手伝い/奉公人・下働きを指す。クネヒト姓は多い。この姓を持つ人がイヤと感じているかどうか? まだ聞いたことが無い。もっとひどい苗字が沢山ある。法的変更手続きに至らず、甘んじてOKと言う相対的バランス感覚…。
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マリは 仏蘭西のアフガニスタン になる?

何故、暗黒大陸と言われたのか詳しく知らない。黒い肌の人々と闇のような知られざる世界。イメージとして昔はそうだったのだろう。昔とは、ここで大航海時代から欧州による植民地争奪戦を指す。地中海と象牙海岸の間の砂漠地帯にフランスの植民地が多かったようだ。北からアルジェリアとマリ、その東隣のブルキナファッソー。人々はフランス語(方言)を使う。モーリタニアやニジェールその他については知らない。

アルジェリアの真南がマリ北部、その東隣がリビア、、と言った地勢と国境線が分る。フランス介入後に発生した人質事件のガス採掘地 Amenasが矢印で示される。
Mali 01 Terrur site
赤い部分がイスラム過激派の支配区。南の従来の`民主政権`は首都バマコを含む薄青の部分。説明にオランデのオペレーションと記される。社会党二人目の大統領オランデのこの戦いは、フランス大多数の国民から支持されている。ジーハー信奉軍を一掃するまで戦うと、大統領は腹を括る。


マリの北半分がイスラム過激派に支配され、南への進出が激しい。北から南への難民が激増。先週、突然かつての宗主国フランスが軍隊派遣を宣言。大統領オランデの声明と同時に進駐開始だから、準備は少なくとも数ヵ月前に始まっていた。と言うより軍事態勢と外交根回しが完了したので、声明に及んだのである。

直ぐにベルギー[補註1]とノルウェイが呼応、本日の時点で大方のEU諸国がバックアップしている。過激派イスラム・ジーハーを唱える反政府軍はフランス介入を`植民地主義`と決めつける。幾つかの国が膨大な軍事物資の輸送に協力、戦争の手配が着々と進む。前線は北と南がずれて接する辺りで、その数カ所をまず空軍が3日間の予備爆撃を実施。昨日から陸軍装甲部隊が投入された。本日の夕方に一つの要地を奪回した。さすがインドシナで刺惨をなめ経験を散々積んだ大軍事国家のフランスである。

一つの疑問は;マリが、アメリカのアフガニスタンのように、仏蘭西の`アフガニスタン`になる可能性だ。2001年アルカイーダによるナインイレブン(多発テロ)を契機にして、US+UKが秋にアフガニスタン・タリバーン政権に自衛権を盾に宣戦布告。直ぐに過激イスラム政権崩壊を見たが、自爆テロなど内政不安に悩まされ12年を経過。US在住だったカルザイ大統領が先月曰く;「米軍撤退により状況好転する」。

衛星からのガス採掘サイト画像 。グーグルマップで見られる。四角いコンテナー群が置かれた住居域が見えるかどうか? 砂漠のど真中の不思議と言うか、奇怪な光景に見える。
Mali 02 Terrur site
彼が人質作戦を考えたアルジェリア人首謀者。あざなをマールボロと言い、タバコの密売でテロ資金を稼いだのが理由。アルファベットに置き換えた本名はMokhtar Belmokhtar。片目を失明したのはアフガニスタンでのアルカイダ活動中、または新米戦士の時の事故らしい。ビン・ラーデンと面識があり、直接アルジェリア地区リーダーに任命され帰国。タバコの他、テロリストの常道として麻薬商いをしている。先週のフランスのマリ介入後、充分な装備をしてガス施設を襲ったのだ。


この地下資源サイトはアルジェリア資源公社+ノルウェイStatoil+イギリスBPの共同事業。ほかアメリカ・日本・ベルギー・アイルランド・オーストラリアの企業が受注参加。これら技術者の他に、アルジェリア労働者を含め、650名が人質にされた。第一次のアルジェリア軍作戦によって、殆どが逃げ伸びた。ニジェールやモーリタニアからの報道、さらにアルジェリア政府報道など、情報が錯綜している。

第一次作戦の時、20名近いとされる日本企業員の一人はアイルランドの誰かと共に逃げ延びた…。650名の内アルジェリア人573名が無事に解放され、人質1名とテログループ18名が死亡。人質12名死亡と言うのもある。不明または死亡の推定出来ない人数は70名から30名までに渡り、手探り状態だ。

UKキャメロンは日本の阿部首相と同じで、オランダ訪問を中止。直ぐにウエストミンスターの緑長椅子から立ち上がり、テロ対応について議会答弁を行っている。MI6[補註2]の情報は期待できず、彼もアルジャゼラ以上の信頼できる状況を説明できない。人の住めないだだっ広い砂漠の米粒のようなところだから、安否を確認しようにも方法が無い。無事に救出された人々に聞く以外、現時点で情報源は無い…

アルジェリアは1993年以後、過激イスラムのテロに手を焼いている。根本は「テロに対し断固妥協しない」方針だ。英日の国民を守る責任を負う政権二人の宰相にとって、これは困る。一方マールボロの人質引換条件の一つは1991年(または1993年か)ニューヨーク・ワールドセンター爆破容疑者2名の開放である。すると彼はアメリカ国籍、さらに欧米系の人々を厳重に交換人質の対象にするだろう。候補銃殺順位として日本人[補註3]が下位に来ることはあり得ると、喋り屋`専門家`が言う。

容疑者開放を要求されたUSクリントン外相は犠牲者を最小にとどめるように望むと声明する傍ら、飛行機を近くの砂漠に着陸させ、同胞を収容している。アルジェリア・テロ殲滅部隊は再びヘリコプターを用いる第2次作戦に入るそうだ。広大なガス田に散らばる施設群にマールボロ・ジーハー部隊が巧妙に展開している、と仏蘭西サテライト局解説者が言う。もしそうならば、人質の居る建物にいかに接近する/出来る? 下手をすると、多くの犠牲者が…。

先ほどアルジェリア政府発表があった。人質テロは終了/解決と言う大ニュース。BBCもAlgeriaいずれも、ノーコメント。疑わしいニュースソースである。

[補註];
1.レオポルド2世による私設`自由コンゴ共和国`だったか、陰惨な植民地史を引きずる。黒い肌の原住民を人間と見なさない時代。少なくともドイツ小領邦家の失業貴族の末裔・レオポルドはそう扱った。
2、Military intelligence の6課。MI5が知られ第一・二次大戦のエピソーデが多い。007シリーズに必ず登場する英国情報局。
3.イラク戦争の時、政府警告にも拘らず確かボランティアとしてイラク領内に入った人がいた。この先例と違い、今回の欧米日の人々は偶然に不幸なテロ人質になった。家族の心配が痛いほど分る。無事な帰還を祈るのみである。
 

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クルディスタン外史  プーティン帝政外交のお粗末にふれて

イラク大統領ジャラル・タラバニがドイツ連邦の病院に入院した、とZDF(南ドイツテレビ局)が報道している。北部イラクで1933年生まれだから80才に近い。重なる仕事の疲労だと言うテキストをアナウンサーが読み上げている。
自国に優れた病院が無く、治安も心配、そこで高齢国家首班は勝れた欧州の病院に落ち着いた。一息入れられる何かあったのかもしれない。

サダム・フセイン政権崩壊後の初選挙2005年、タラバニは`新しいイラク`大統領に選ばれる。イラク連邦はイラク民族シーハ多数派と少数スンニ派、それに北部クルド民族から構成される。前者は現マリキ政権の中枢を担う。スンニ派はサダム・フセイン政権の基盤だった。新大統領は最後のグループに属する。軍歴の後、クルド独立組織に属しフセインに対立、マリキと同じようにシリア亡命生活をしたとされる。フセイン後のいわば大目付として、シーハでもスンニでもないクルド長老が選ばれたのは議会の妥当な選択か…

      Koerdistan issue 2
マリキ(62才)はタラバニ大統領に指名された政権担当者。フセイン政権スンニ派に属する役人殆どを追っ払った。公の声明と別に心情的復讐と解され、事実上のイラク内戦一因になっている。7年、宰相職に留まる。US共和党との相性が良いと言われるが、US/UK初め大方の治安維持軍が撤収した内政舵取りは困難を極める。彼は任期後に続投しないと表明している。
 

タラバニ氏はクルド人。聞いた時、私はちょっと格別な気分になった。穴倉で発見された独裁者フセインを言うまでもなく、その前任者も主なバース党政敵たちもイラク人であった、と言うこともある。だけれども、紀元前以前に根っこを持つ長いクルディスタンと言う土地/民族について、チラッと生かじりしたことがあるからだ。
彼の初仕事は、サダム・フセインに牛耳られたバース党の半世紀続いた教義を切り捨て、民主主義を標榜する憲法を作ったこと。旧憲法はアラブ民族主義を基本にする社会主義的な性格に近かったようだ。

薄青い輪郭線が三日月を連想させます。紀元前その時代にこんな地図は無いので、地図が現れた航海時代以後の命名でしょう。アッシリア帝国の最大版図はこれより一回り大きく、現在のエジプト/シナイからシリア/トルコ東部をへてメソポタニア南部のイランまでを含んだ。それは台頭するバビロニアに滅ぼされる(BC609年)直前だった。
      Koerdistan issue 1
下の21世紀地図でイラク/シリア/レバノン/ヨルダン/イスラエルを一つにするアウトラインが上のアッシリア版図にややずれ落ちた形に似ている。これにイスラエルの南にあるTeima域を加えたのがバビロニア帝国になり、やはり肥沃な三日月地帯に見えます。別に言うと、ティグリスとユーフラテス両河川域メソポタニアを核にして地中海と紅海に連なる商港海岸線をもつ豊かな土地。首都は現バクダードのやや南、ユーフラテス東側バビロン。
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恰幅良いタラバニ氏が独逸入りした日、3時間に及ぶ露西亜プーティン大統領の`所感表明`会がモスクワで開かれる。大統領選挙前の激しい民主化デモ、それに続く歌手3名の逮捕/裁判、「外国と協力または応援を受ける反国家的行動をする者への」刑事治安法の成立、それゆえに沈黙せざるを得ない反プーティ/民主化陣営。厳格な罰則を伴い、反陣営は殆ど首根っこを抑えられ、冬の時代に突入したと然る女性活動家が語っている。プーティンの安定化策の実施。気を楽にした大統領は就任後初めての所信と言うか、彼の忌憚ない意見を詰めかけた内外ジャーナリストに披露したわけだ。

内外の政治課題にかなり気楽に早口でしゃべりまくると言う感じだった。そこから`西側`ジャーナリストが最も取り上げ伝えたイシューはシリア紛争に関する部分。片腕を机につき、同じ肩側を下に傾けつつ曰く;
「アサド親子は40年も続いている。そろそろ変わっても不思議でない。反政府軍が強くなっているから。
それでも「話し合いによって政権交代すべきと言う我が国方針は変わっていない」とちょびっと付け加えるのをわすれなかった。

「アサドの負け戦、それだけのこと」と言う仕草とさりげない表情をつくっている。露西亜は既に一月前から外務省筋から、悲鳴に近い`シリア支持`を発信していた。11月初旬カタール首都ドーハにて、反アサドグループが結集、(The Syrian National Coalition)言わばシリア7民族同盟を立ち上げる。この時もロシアのアサドバックアップは変わらずと声明。

12月半ば近くモロッコのマラケッシュに`シリアの友`の会諸国が集まり、組織名をSyrian National Council=SNCとした`ごちゃごちゃ集まり`をアサド政権の移譲または崩壊後の受け皿として承認した。SNC受け入れ皿に反対したのは露西亜/支那/イランなど。露西亜はまだまだバックアップを続けると繰り返した。土俵際で喘ぎながら逆らっている…。

やがてまず仏蘭西、次に独逸/英国他EU圏が認め、これに米国も続いた。露西亜外交官はSNC外交ラッシュに本音を言わず頑張り続ける。本国のプーティン裁可が無ければ、口が裂けても「シリアはアカン」と言えない。彼の帝政なのである。ダマスカス市内で攻防戦と言ういくさ情勢を読むと、武器を密かに供給し続けたロシアと言えどもこれ以上の深入りとダメージを避けなければならない。

リビアの場合も大失敗。年間$数千万の(旧型)兵器商いとアフリカでの同盟国堅持にこだわり、崩壊寸前までガダフィー支持に拘泥した。様々な戦況推移があり、まさか倒れまいと言うプーティ取り巻き読みが結果的に無様な外交結果をもたらしている。殿が首を振らねば、専門外交官の専門が発揮されない国になっている。共産時代もポスト・コミュニズムも帝政気質がロシアに濃い影を落としている。一口に言えば、子供のような意地を張り、漫画チックなお粗末に誰にも見える。

ウラディミール・プーティン早口舞台の前座を敷いた人がいる。セルゲイ・ラザロヴ外相でなく、その副外相だ。一週間ほど前「膠着状態だが、FSAが優勢のようだ。政府軍は負けないが、勝ても出来ない」と漏らした。彼がアドヴァイスを親分にしたのだろうか? プーティン承諾をえた所定のリークである。露西亜要人がFSAの実力を認めたのだからシリアニュースのトップになった。

こうしてプーティンの何気ない「政権交代の時期でしょうな!」になり、彼は気をもんでいた外交官たちにクリスマスプレゼントを贈ったわけだ。殿のお触れが出たので、クリスマスを気兼ねなく楽しみ、明けから徐々に具体的なロシア側談話が出ると思われる。

本日あるシリア・トイッターによると、12月初旬からタストゥール軍港に停泊する戦艦(2隻らしい)がシリア在住5千名ロシア人収容態勢に入っているらしい。それら殆どの人々は首都域住まいと思われ、祖国避難の準備にかからねばならない。1月末に全員帰国と言う日程ならば、何とか実現できるのではないだろうか。人々は帰国落ち着き先など、テンヤワンヤになっているだろう。1975年4月のサイゴン陥落時のカオスに比べれば、豪勢な撤退に思える。

露西亜政府の外交べたと言うのは、中身がない張りぼてミサイル時代からの吠えるばかりの見えから来ているとサテライト解説の誰かが言っていた。そうかもしれない。二人ほど知っている人がいて、根が正直なせいでは、と私は想像する。普通の露西亜人は屈託なく実に親切なのだ。だが、役人や政治家になると途端にコチコチになり、えばり散らすのは何故だろう?、とロシア通もこぼすほど。賄賂を採らねばならないから緊張するからだと笑い話がある。

そう言えば肩をゆすって歩く小さな大統領の心から笑うような場面を見たことがない。おべっか使いに囲まれ、本当の友人を傍に持たないのでは…とよけいな心配をする。英雄は孤独…とも言う。だが本当の英雄かどうか、歴史の裁断は時間を待てねばならない。





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わらびのあく抜き

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ベルリンBundestag/ブンデスターク=ドイツ連邦議会。正面にシンボルの大鷲。独語彙はAdler=アドラー。鋭い目と獲物を捕らえて離さぬ爪…ドイツ民族の象徴。大鷲の羽はドイツ語圏を覆っているように思われる[補足1]。

       独逸 議会・政府のシンボルのコピー

1960年代後半は冷戦の真っただ中。日本は高度経済成長を驀進中。今から振り返ると嘘のように思える。`経済`の池田勇人から`待ち`の佐藤榮作へ政権は変わったが、成長は陰り無く続く。冷戦時代の経済奇跡はユーラシア大陸の両端、二つの敗戦国家で起こった。欧州の雄は西独逸。打ちのめされ占領された独日二つがUS庇護を受け、軍事支出と言う大口出費せずにまっしぐらに頑張った構図である。

佐藤首相はデュッセルドルフを日本の旗艦都市にすべく、料亭を考えた…。当たらずも遠からずと思われる。ヘンポンと翻る日本経済をネゴをする場所。ドイツ接待の日本の出先。新喜楽の女将がいるような品格のある料亭があるべきだと…。

日航ホテルが出来、三越が進出、本屋も顔を出し、ドッと日本人企業の家族が住み付いた。本格的な日本人社会が形成されだし、デュッセルドルフは極東と極西の経済両雄の極西側のシンボル都市になる[補足2]。そのルール商工都市における同胞人口は当時フランクフルト・ハンブルグを遙かに凌いでいたらしい。ドイツ要人を持て成す高級料亭のお蔭かも知れない。春になると山菜料理がそそと出されたのだろうか…? 

           Adler Adelaar

シダのドイツ語彙はfarn。Adlerfarn=アドラーのシダ、即ち「鷲のシダ」がワラビを指す。上図はワラビの部分構造と複葉細部を並べたもの。増殖は地下茎と胞子との拡散で行われることが説明されている。そして「鷲+シダ」の一つの命名理由が右端の切断面にある。斜めに切られた部分に維管束が並んでいる。

秋深まる10月半、季節外れの話題…。ワラビの話をしよう。
   北緯52度、7月頃のワラビ林。一つ上の右画像も独蘭森林部に自生するワラビである。
     Ptreridium aquilium Corrag 01
     1個体の先っぽから、ワラビらしいことが分る。

     4月半ば、日本列島中央部の山地直送``旬``。
     Warabi 02
     山菜狩りした農家があく抜きして、街のお得意店に納めた本日分。青みがかっているのは撮影の不手際...か、それとも、、、


Pteridium aquilinum このローマ人語彙綴り二名方が日本列島自生ワラビにも、独逸の植森林に自生するアドラーフェルンにも適用される。標準和名として前者をワラビ属、後者の種名をワラビとしている。欧州諸語の多くは属名も種名もアドラーフェルン即ち「ワシ+シダ」のようだ。なぜなら本種が最も多く見られ、シダと言えばこのシダをまず思い浮かべる。春になると、例えば高木針葉樹林帯にウニョウニョ出てくるシダの殆どはこれだ[補足3]。

日本でも欧州でも2回あるいは3回の羽状複葉葉(ウジョウフクヨウバと読むのだろうか…重箱読みで間違いかも知れない)。土中を水平に這う地下茎網によって、山林の樹木下層を覆い尽くす。そうなると一寸する庭園すら根絶は容易でない。コスモポリタンで、北半球全域に自生するそうだ。

4月初旬に顔を出し、6~7月に人の背丈に並ぶかそれを軽く超える例も多い。2m以上になる欧州シダの唯一の例だろう。見あげると左右一杯、時に3mを超える複葉葉を広げる様子があたかも鷲が左右の羽を堂々と広げたように見える。肉食鳥ワシは食物連鎖の頂上に立つ。これが、最も大きなシダを「ワシのシダ」と呼ぶ一つの理由だろう。

11月になると高木下層を占めていたアドラーフェルンが緑から茶色になり、年を越すと地上部分を落とし最早それと認めることは出来ない。冬季は4月に出す芽と言うか茎の準備期間。その期間が明けると、デュッセルドルフ市の日本人村の人々が森歩きの途中、あちこちに所狭しと出ている30㎝ほどのワラビらしきを見つける…。

半世紀前に近い。熱心な方がワラビに違いないことを確認した筈。ここにも故郷の山菜が育っていると言う喜びそして感激を想像することが出来る。今と違い、本人も家族もビジネス戦士としてのパイオニア的雰囲気があった頃である。ワラビのニュースは日本人社会だけでなく、「フェルンを食べる日本人」はデュッセルドルフ市民に少なからぬ驚きを与えた…。

採取したワラビのあくぬきをするため、日本家族の主婦は日航や本屋のある日本街にある食品店で重曹を求めたのではないだろうか。重曹は炭酸水素ナトリウム又は重炭酸ナトリウムのことだ。独綴りでSodium Bicarbonateだ。その白い粉をアポテーク=薬局で求められるのだが、それを示して求める日本同胞は少なかったに違いない。(なお重炭酸ソーダことNatriumhydrogencarbonatも重曹と言うそうだ)。重曹を代潜するのは樹木を燃やした焚火後の灰である。ふるさとの祖先が世紀を通じて行った灰汁抜き方。本物灰を作る家族がいたならば拍手を贈る。
 
     灰と重曹を除く灰汁(アク)抜き方。
    akunuki 01-1 名称未設定 1
     ↑ヤブツバキの葉っぱ方 左;2日目、中;1日目。 銅板や銅パイプの方法;右
     ↓上と同じような状態をやや拡大。右は乾燥保存のため並べた様子
    090507 gedroogde Akunuki Adelaarvaren 05
     ヤブツバキは万とある椿品種の親であるから、どんな椿の葉であれ同じアクヌキ効果がある筈
 

椿葉による灰汁抜きが私には簡単で自然に思われる。灰は準備も根気も入り、しかも水洗いを繰り返すので、風味が損なわれるような気分になった。重曹は簡単だが、何となく科学薬品処理のようで落ち着かない。銅を用いるとワラビの仕上がりが椿葉の処理に近い。椿が近くに植わっていない場合、私は銅を用いたい。

こうして灰汁抜きしたワラビを束ねた感覚を思い出すと、今年4月に日本店頭で求めた洗練されたワラビとかなり印象が異なることに気付いた。何故か? 理由の1は灰汁抜き方が違う。2は学名を同じにするワラビがやはり遺伝子レヴェルで、日本と欧州とで微妙に異なる。2は勝手な想像である。しかし何年もの毒見体験から、祖母やお袋のワラビ料理を食べた昔の記憶と一致しないのだ。同胞の方に確認したいが、あいにく`日本街`に遠くワラビを食する同胞も聞かないので今後の課題になっている[補足4]。

    A image of Warabi 01 Cor_edited-1
     右切断面の模様は明らかだが、常にこんな明瞭なパターンでない

連想やイメージは民族によって異なる。欧州は限られた小さな文化圏だった。大航海時代まで、彼らはアフリカやインドや中国さらに日本列島の存在を知らなかった。ブリテン諸島やその向かいの大陸はカルル大帝の頃、ローマカトリックが普及して、双頭ライオンや双頭鷲の紋章を持っていた。非常に単純な、子供が描くような紋章であることを上のコラージュにご覧になるだろう。

双頭と言うのは恐らく古代エジプトからの概念と言うか思考に思えるが、どうだろう。プロシャ(プロイセン)の(双頭)鷲の起源が分らない。エジプトからパレスティナへ、その騎士団が後に東プロイセンへ引越・移動した。そんな道筋を想像してみたが…。しばらく寝かせて見ると、いつか分るだろう。とまれ、人々はワラビの茎元を切断した時、そこに双頭鷲を見たのである。このイメージは広くキリスト教社会に受け入れられた。それはプロイセンがまだ小さな勢力圏に過ぎなかった時のように思われるのだ。

時を経て宰相ビスマルクが墺太利に対峙し優勢を誇る時代、プロイセン紋章の鷲は欧州列強中の列強国家を余すことなく象徴することになる。そのイメージをもつシダを食材にしようと考えるのは畏れ多いと言うべきだろうか。こうして欧州の`ワラビ`は食べられず、温存され、森林をわが世の春として覆い尽くすのである。


[補足];
1.オーストリアやチェコ・ヅデーデンまたはかつての東西プロイセン域では大鷲が生きている。言いかえると、紋章として尊敬を得ている。西プロイセンとは一般にポンメレン地方と知られ、東海沿いに現在ポーランドのグダンスクまでが属していた。東プロイセンは1次大戦終了までケーニッヒベルクからレットランド当たりまで。つまりドイツ語圏だった。

2.極東側のドイツ出先はご存知の通り東京。東京全ての知恵無し国土政策が21世紀まである陰りを与えている。東北大震災による関東圏の被害または風評による、主に外国企業(社員)の関西圏への逃避。取るに足りぬ小事例だ。しかしこうした事態を想定してドイツ/オランダは戦後早くから国家や経済機能の分散政策を持ち、全てでないが実現している。一カ所が損なわれると全てが駄目になる…、チョットどころか相当に困るのでは。

3.ウィキ日本語版に森林にあまり出ないとある。日本の状況だろうか?ドイツでは森林の下層を占領する。ウィキの書き手は何処かの不確か記事を鵜呑み翻訳しているように思われる。

4.故郷の山菜ワラビを出向先で涙を流して喜ぶ時代は去った…。様々な日本食品が溢れ、また簡単に里帰りできる。欧州のワシシダを集めアクヌキする努力は過去の郷愁になったんです。と言うよりデュッセルドルフ郊外で発見された日本`ワラビ`はやはり厳密な`日本ワラビ`でなかったのかもしれない。それ故にドイツワラビ情報が全欧州日本街に広がることはなかったと考えられる。そう言えば、欧州人と結婚した同胞女性に欧州ワラビを話した時、「ほんとワラビがあるの!」とびっくり顔された。日本のアキグミ果実が成ることを説明して驚かれるのと同じ現象なのだろう。

Here&there lands 雑なるアレコレ大地

極東と極西の二人の英傑 *シュハンスと言う保塁によせて 

キリストの暦1574年は天正2年、信長が40才。オランニェのウィレムは41才。時の極東と極西の政武に於ける二大英傑。尾張から出た信長は既に美濃・伊勢・近江を制し、京都に足利義昭を立て、同盟の家康と合わせ二男信雄に数万の大軍を預ける実力者になっていた。同じように政略と殺戮が茶飯事の`低い土地`では、ウィレムが自治的な地域・都市をまとめつつあった。数ある敵の内で最大の敵は日の沈むことの無い帝国全盛期にあるスペインである。

ペイ・バー(Pays-Bas)は「土地/国が低い」オランダ国を指すフランス語ながら、もともとは現在の蘭/白耳義から北仏蘭西までの海沿い平野部を指したと思われる。北は新教、南は旧教。その細長い低地の北部分の実力者がオランニェ家ウィレムだった。彼はスペインに対し独立戦をしながら、同時にぺイバー内部の政敵と、海向うのエリザベス1世チューダー朝とオーストリア+スペインのハプスベルグ朝、さらにその背後フランス・ブルボン朝、東側に群雄割拠するドイツ領邦諸侯と、同盟と対立の目まぐるしい日常を過ごしていた。

     ウィレム・ファン・オランニェ・ナッソーと織田信長。いずれも知られた肖像画。
     [昨年11月19日項を参照;肖像画ジャンルは日本画史になかった[ルイーズ中編]
    Willem en Nobunaga
     天正10年6月2日(ユリウス暦/1582年6月21日、グレゴリオ暦/1582年7月1日)に本能寺の変。用意周到なクーデターに思われない。光秀の謀反を知り、多勢の敵を目の前に、槍を取りつつ火をつけたとされる。が、遺体が見つからなかった。多くの研究(者)があり、近年の本能寺調査の報告も上がっているようだ。
極東の英雄が没した2年後、ウィレムはデルフトの宮廷に客を迎える。ユニークな市民法を施行するフリースランド・レーワルデン市長アイエンブルフとその妻娘との楽しい昼食だった。会食後、彼は居室部の階上への階段をあがっていった。突然3発の弾丸が発射された。2011年に現場科学調査が行われ、今年初めレポートが発表された。壁の弾痕や文献の遺体状況などの鑑識分析から、有名な`最後の言葉`を発する間もなく即死とされる。暗殺者はフランス人ジュラ―・ベルテサー。ウィレム宿敵のフェリーペ2世側の旧教信奉者。ユリウス暦7月10日の早い午後だった。こうして極西のたぐい希な英雄は華麗なる天上にて、英傑信長の知遇を得る…。

    
  Slag van Mokerheide 05
   Mokersheideの秋。薄く霞んだ赤紫はラテン綴り(ローマ字)でErica属の小木。色味は咲いているやや細長い壺状の花びらによる。この地域のもっとも一般的なエリカ種。壺状を指してドップハイデと言い、この種と一般エリカを指す二つ義を兼ねている。下;合戦図。現代の風景とそっくり重なる

天正2年の4月、ウィレム弟二人が5500歩兵、2600砲兵を整え、独逸領邦からマース川東岸に進出。現在のドイツ連邦と海沿い海岸部との間はスペイン支配または大司教たる糞坊主支配区。これを奪取すべく商いの金持ち連合体オランニェ(=橙≒ミカン)はドイツ傭兵を組織準備していた。新教ドイツ領邦からモーク村まで行軍二日間もかからない。河岸東の高みに1.5㎞広がりで布陣した。スペイン軍は精兵5000と800砲兵で河岸西に展開した筈。戦火を開くまで双方、数日を要したのでは。モーク背後の斜面はハイデ(ツツジ科エリカ属カンボク)地で、後にこの合戦をモーカー(ス)ハイデの戦と呼んでいる。

ユリウス歴1574年(補足1)4月14日、ド・アヴィラとメンドーザ両指揮官によるスペイン軍がマース川西岸から、ローデヴァイクとヘンドリックのオランニェ・ナッソー兄弟指揮による反乱軍横並び陣地に砲火を開いた(補足2)。スペインに対する反乱と言う意味で、言い換えるとオランダ独立軍になる。河岸からハイデ斜面まで距離にして数百メートルだから、当時の砲で届く距離である。マスケット銃(補足3)とサーベルのスペイン歩兵が渡河して、高み``シュハンス``とその一帯に展開する傭兵部隊に迫った。

戦闘詳細は不明。多勢で高みに位置していた筈のオラニェ・ナッソー反乱軍が敗れた。傭兵軍ゆえ戦意不足か? ウィレム公にとって不幸にも、弟2人が討死したから、戦略的惨敗である。

しかし翌五月、海戦でスペイン艦隊を撃破。信長は毛利水軍に劣勢で、例えば紀州抑えに手間取っている。鉄甲板張りの軍船でようやく優位に立ったそうだ。陸と海の連携が天下取りに欠かせなかったわけだ。ウィレムは続いてライデンを奪還。この場面を描いた大作がある。ナポレオン凱旋などの宣伝ぽいイラスト画と違う本物タブローである。

こうして着々と重要な都市を陥落させてゆく。抵抗反乱の兆しは6年前に始まった。数々の戦役を経てきたが、実はほんとの独立までのまだ序盤に過ぎない。1576年にフェントの同盟締結。`低い土地`を結集して広範な対スペイン戦線の構築に成功する。その翌年最大の商都アントヴェルペンを制する。信長の一進一退の政略と長い道のりと比べることが出来る。ウィレム・ファン・オランニェの政治的手腕の輝く時期だったと思われる。1579年アルトレヒトとユトレヒトに於いて北部地域同盟を形成、ほぼ現在のオランダ圏を勢力範囲にする。[確立したのでなく、以降の勢力塗り替えも起こる]

   Vesting en 5 ster Schans
上;草とカンボクに覆われた直径5mほどの窪み。下;ナールデンの五稜郭。

シュハンス(Schans)は保塁で防御的構造物である。砦や要塞よりずっと小規模で、窪みに近い。塹壕的であるが、細く長い堀割状でない。マース川東側に残されている幾つかの遺跡は星形。50m枠に収まる星形凹地である。歩兵百人が陣取ると一杯になる。

シュハンスは砦の小さな変種だろうか。小さな保塁から砦に発展したと考えるのが順序だろう。シュハンスの目的は、敵を中に入れず等しく八方に攻め寄せる敵を撃退すると言うもの。防御施設だから、鋭く入り組んだ五角形態が有効と考えられる…。規模が大きくなり内部に武器弾薬・兵糧を持つと要塞になる。

     120929 B-1
     上図;ジグザグは塹壕の基本形。下;秋の山歩き。1次大戦の防御の塹壕が走る。


火力の破壊力が増す時代になると、身を隠す必用から、これが深さを増し塹壕に発展したと思われる。初め孤立した穴だったが、それらが連結され、歩行連絡/移動通路に昇格する。第一次世界大戦は世にも恐ろしい大規模塹壕戦である。19世紀半ば、血みどろのアメリカ内戦に於いて睨み合い戦で塹壕が本格化。そしてその有用性が証明された。20世紀初頭、日本が関わる日露戦争に於いて戦場の常備部隊として塹壕工作班を欠かせなかった。旅順203高地あたりは攻撃用塹壕で一杯になった。高地を制するため塹壕から打って出た日本兵屍が山積みになったのだが…。

モーカースハイデ五角保塁は塹壕の原初的形態を残すと言って良いかも知れない。この古戦場は戦後1950年代、自然保護地に指定されている。元々カンボク=ハイデが多かったのだろう。画像で見るように現在はエリカばかりの専用自然地として管理されている。3カ所がやや離れて並び、主戦場になった南の面積は4世紀余前と同じ60㌶。自然めぐりの人々によって30㎝の堅め道が出来て、星5つの鋭角先端がやや高いから、シュハンス五角形を認めることが出来る。

Mokersheide corr 01

草とエリカの合い間あちこちに、直径10センチほどの開口部が見られる。長い耳をピンと立てる茶色のハース=野兎(兎仲間の別属)の出入口である(補足4)。内部は複雑な迷路で、ハースは自由に出没できる。敵になる狩人とその猟犬から身を守る塹壕に当たろう。


[補足]:
1.ローマ教皇庁による暦法転換、ユリウス→グレゴリオはモーカースハイデの戦いの8年後。実際にカレンダーが変わった年度は国によって異なる。しかし人類誕生以来、天体運行と実際とを整合させるため多くの歴法が考えられ組み合わされ、歴史上たいへん複雑になっている。ユダヤ歴もイスラム歴もどこぞの地方歴もあるそうだ…。天正2年当時の日本の4月14日が欧州ユリウス暦のそれと同じ日であったかどうか、私には不明。欧州に限れば、現在のグレゴリオ暦から11~12日を差し引いた日がユリウス暦の`同日`になるのでは…。エジプト歴であれ天照大御神歴であれ、ユリウス暦a年b月c日とグレゴリオ暦x年y月z日とは、事象同士の関わりが無ければそのままそっと21世紀の同日に受け取っていいのでは…。新選組の事件や輩の誕生日についてユリウスとグレゴリオ云々しても始まらない…。

2.Bernardino de Mendoza フェリーペ2世軍指揮官。オランダ独立戦争は別に80年戦争と言われる長丁場。宗主国スペインから総督・外交官・軍人が入れ替わり立ち代わり低い土地に派遣される。メンドーザは1572年ナールデン反乱時の指揮官。保塁要塞に避難し降伏した市民が彼のマスケット銃隊400名によって皆殺しされた。その後、街の略奪をおこなった。メンドーザは攻撃を受けたので反撃したと国王に報告。その星形要塞は2重堀と2重壁からなり、現存する欧州五陵郭の代表で最も美しい。19世紀半ば建造の函館五稜郭の間接的なモデルであろう。

3.マスケット銃の原型は火縄銃で、火薬入り銃弾を先詰めにして火縄点火でぶっ放した。現代からすると、装填に時間がかかり、雨天だと使い物にならず、命中するかどうか分らない代物だった。しかし火薬による個人携帯飛び道具の出現はそれを持たない敵に圧倒的有利をもたらした。天正3年、織田と武田の決戦・長篠の戦に於ける織田側大勝は火縄銃千丁の威力だとされる。2世紀余たった19世紀初めのマスケット銃は改良された近代筒だったが、行進太鼓に合わせて歩兵は胸を張って敵に前進した。嘘っぽい逸話であるが、敵の放つ銃弾が殆ど当たらず、恐れる必要がなかったとか…。その頃は既に銃剣が運用され、剣の部分が実質の殺傷手段になっている。

4.haas/hase/hareと似たものどうし蘭独英ではエリカに住む野兎の肉は極上品。穴から穴へ敏捷に走る野獣だから値打ちがあるそうだ。スーパーマーケットに暮れに出るハーゼは眉唾物…そんなに数が揃うわけがない。ハイデに近い地元肉屋なら信頼できる。 

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ken minatoya

Author:ken minatoya
Victor Westhoff(1916-2001)碑文Hij observeertからのHNを本名と苗字に先立つ屋号に変更。ウエストホフは生物フローラの相互生息環境を丹念に観察したBiotop概念の先駆者。ザザーッとフィールドを歩きつつ、こぼれ見える外史/雑人/雑草の風景

日本語→英語自動翻訳【星条旗】
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