ライン・ワール・マースの狭間から、草の如し徒然の観察八景。 政ごと/商いごと/言の葉ごと/遊びごと。

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Nostalgic Melody&Film 懐メロ&フィルム

歌い継がれるドイツ民謡「別れ」  [別れの二]

`Abschied=別れ`のロックンロール版がWooden Heart。徴兵義務を果たしたエルヴィス・プレスリーが1961年に歌った。Wooden Heartのメロディー知っている? と先ほど次女と雑談する。エルヴィスの持ち歌と付加説明すると、マイケル・ジャクソンに並ぶスーパースターを勿論知っていると言う。けれども聞きなれないタイトルからメロディーが浮かばなかったようだ。8時間差でくたくた寝むたい表情だから無理もない。ユーチューブで聞けるから…お休みと言い、スカイピ―を閉じたんです。

マイケルがエルヴィスと並ぶかどうかチンプンカンプン。左様な比較表現されても時代差を感じるだけ…。親子の断絶ではなく、音楽知らずと言う点と、単なる世代差だと自覚しなければならない。私の音楽はどこかで、かつて耳にした懐かしいメロディーだけに過ぎない。歌謡曲もあれば、童謡も、グレゴリウス宗教曲すら混ざる。すべて懐メロである。

アップシードは言わば`さよなら`民謡で、シュヴァ―ベンの`黒い森`に散らばる村々に歌詞の異なるヴァージョンがあったと考えられる。親方マイスターを廻る修業に出る若者の別れを詠う内容だ。同工異曲Der letzte Abend (最後の夕べ)(日本題名は故郷を離るる歌)と共に、最も標準的歌詞をジリッファーが採詩したのだろう、と前回で書いた。

土地により多くの変化形があるのが­口誦で伝わる民謡の常。行き来が馬や徒歩の時代は、隣村­すら語彙が違う方言が華やかだった。それは21世紀の名残から十分に察せられる。20~30㎞範囲の市町村がそれぞれ特異な語彙や発音を持っているのにびっくりする。我が村の語彙辞典があるのを書き留めたい。左様な次第で、フリードリッヒ・ジリッファーは長期間丹念に採譜・採詩して、多くのヴァリエーションに遭遇していると想像される。

`アップシード`歌詞内容は、徒弟修業遍歴に出る若者が恋人や友達、親らとしばしの別­れをする…。徒歩・馬で遠くに行く、車も新幹線もなく、簡単に帰っ­てこれないから、やはり胸に込み上がるものがありますね。

この歌が何時?音楽取調掛の誰によって日本に紹介された?ネットで探って見つけたのが下の日本語歌詞。ジリッファー採譜の詩も並列され、親切に良くできている。訳詩も内容の異なる作詞も、外国民謡は常に複数の日本語ヴァージョンを持つのが普通だ。これは岡本敏明版になる。

Elvis Presley  Japanese version

「明治34年…『やさしの山吹』で歌っていました」と言う挿絵右の説明を信用すると、1901年以前に歌われ親しまれていたことになる。プレスリーよりずっと遡るから驚いて良い。題名から推しはかると、山吹の橙色花をほめたたえるような歌詞であったような気もする。

明治政府は先見の明があったんですね!音楽取調掛を海外に送り出し、欧州ではドーヴァー海峡両側諸国の音楽を探索させた。持ち帰られた文献から、訳詩または意訳、全く異なる作詞を作った。殆どは格調高い文語調である。オリジナルの詩(ウタ)の中には素朴な田舎弁もある筈なのに…。時に美しすぎるこれら雅な日本語詩を「原詩に勝る出来」だと人は称える。ウン? と私は思ったりすることがある。

これらの美しいメロディーの歌々は明治15(1882)年から発行された全三編「小学校唱歌」に採用される。そのリストにあたると「やさしの山吹」も「別れ」も見つからない。取調掛の若き音楽家たちの派遣は何回か行われ、帰国年度も違ったのかもしれない。1901年は直ぐ20年後にきますから、「やさしの山吹」は全三編後に刊行された唱歌集に収録された一つに思えるのだが、どうだろう?
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Miscellaneous Human History 雑史/外伝

ダンツィヒ=グダニスク 二次大戦勃発と共産主義崩壊のメモリアル

何十年も王様でいる人たち。死ぬまでお山の大将でいたい人。その典型として、たまたま第三帝国の崩壊で12年に留まったアードルフ・ヒトラーを材にしてみよう。

ドイツテレビネットワーク(ローカル局を含め何十/何百あるか不明)にしばしば、彼と1933~1945年に渡る期間のドキュメンタリーが放映される。それらは膨大な文献資料と映像を基礎にしている。切り取り断面も事象に対する解釈も異なるフィルムの数々である。制作者はドイツ人を含め国際的であるから、方法と視点のヴァラエティーがあって興を引く。

AdorfHitler collaga 01
末期1945年3月頃。追い詰められたべルリンで若いSSを励ます。

ヒトラー12年よりも長い21世紀の現役は数多い。大統領2期を務め、法をごまかし3期目狙いのセネガル85才のオジン殿。2期目の途中5年任期に延長して、その後5年の代理を立て、いま晴れて3/4期目を狙うプーチン御大。民主的に大統領2期までと譲歩、しかし親父を世襲して既に務めた2期を勘定せず、通算20年しようと言うバッシャード・アサド跡継ぎ。

表現/報道の自由のある民主主義国家ならば、3期目を迎える首班は稀である。人心の変わり易さが政治に反映するのが民主主義である。欧州に独コール政権16年と伊ベルルスコーニの通算17年の例がある。後者は財力とメディア独占による長期居座り。前者の4期目は帝王ヘルムートに意見出来る雰囲気でなく、弊害がめだった。

自由な社会は、長くても2期8年で首班を変える…。それが普通と言えるのでは。それが望ましく健康なのである。もし3期以上になるなら、何らかの悪が背景にある。言い換えれば民主主義が機能しない欠点がみいだされる筈だ。諫言者がいなくなり、俺は正しいと…その無意識なおごりに気づかない。バルケネンドと言う蘭国宰相はこの近年例。3度倒閣し、4度目もすると言い張り見事に大敗。誰も真意を伝えられないキリスト教民主党に成り下がっていた。今は凋落デスネ。

アラブ/アフリカの王様達はムバラク/ガダフィーのように概ね独裁者である/だった。表現の自由はなく、戒厳令状態を維持し、政敵はすぐに牢屋へぶち込む。陰鬱な治安体制だ。同じ取締り方法がKGB後身である国家安全局によって、露西亜プーチン12年に於いて採られている。2期8年で人々はバランス感覚を採ると言う私的公式に従えば、プーチンと例えばモロッコ君主ムハメドも、民主主義者を装いながら、中身はアサドと変わらぬ独裁者になる。

AdorfHitler collaga 02

二次大戦はダンジグ(=ダンツィヒ)から始まった。
そこは東海(=バルチック海)に面する港湾都市。この街を核とする地域は一次大戦処理のヴェルサイユ条約でドイツから分離された。ドイツ人居住地方が実質ポーランド領かのような自由都市区になった。ドイツが甘んじて受けなければならない屈辱の一つ。ポーランド(波蘭)は海へ直接つながる回廊を得たわけ。5%ほどの波蘭人は町の名をグダニスク(=グダンスク)と呼び、ヴェルサイユ条約1920年以降、その波蘭名が公になった。

ドイツ人即ち東プロイセンの人々が95%を占める地方をドイツ本国から切り離すアイディアは1世紀前のナポレオンによる欧州再編成の轍を踏んだもの。小男ナポレオンに大柄なルイーズ・フォン・メックレンブルグ(参照:2011年11月18/19/22序中後編)が「ドイツにひどい仕打ちをしないように」嘆願した場所ティルジットはダンツィヒの言わば隣村の自由区でした。

ナチスの目的は一口に言って、独語圏をまとめた後さらに地続きを領土に組み込む帝国の建設だ。生存圏/レーベンス・ラウム(Lebensraum)を、ビオトープと似た生物学的概念のように受け止めても良い気がする。ヒトラーはこれをMein Kampf(我が闘い)の一つの争点にした。

マイン・カンプはミューヘン革命による投獄10ヶ月の間に助手ルドルフ・ヘスを得て執筆した「民族社会主義運動」と「嘘/無知/怠惰に対する4年の戦い」`と言う前後編の著作。彼が政権につく前後、複数の加筆者によりマインカンプとしてまとめられたそうな。今読み返すと、絶叫型の演説と同じで論旨不明な良く分からない箇所に満ちているように思われるが、大量に売れたんですね。毛沢東の`赤本`が数百万部発行の大ベストセラーの如し、指導者フューラーの本も印刷を重ね、同時に増加する党員の聖典になった。

レーヴェンス・ラウムと言う彼の標語は``大東亜共栄圏``に重なる思想と言うか理屈に思える。棲息範囲をテリトリーと言うのだろうか。何らかの手段を用い我が地であることを示す行為は動物の本能なのだろう。尿をかけて回る、縄を張る、石を積む、、動物によって様々である。

レーベンス・ラウム概念に惚れたヒトラーはドイツ語を用いる北端ダンジグ地方も東端ズデーデン地方もドイツに所属しなければならないと考えた。墺太利(オーストリア)併合を果たした1938年ミューヘン会議後、ほんの束の間、世界を安心させヒトラーは翌年このダンツィヒを攻撃。

国際自由区だから、ドイツの練習艦も停泊していた。日華事変を始める関東軍謀略と並行するかのように、砲撃正当化の策略を準備をした。9月1日練習艦の砲が港湾施設をたたいた。すぐさま西側ドイツから機甲師団が入り数日後にダンツィヒを占領/奪還。これに呼応して波蘭と同盟条約を結ぶ英仏が宣戦布告、二次大戦の火ぶたが切られた。あとはご存知の通り、電撃作戦によりあっという間に波蘭は蹂躙される。

ナチス(国家社会主義ドイツ労働者党)が大不況を背景に1932年選挙で第1党になり、それからの数年に起こってはならない非民主的独裁への議会手続きが実際に起こった。親衛隊(SS=Schutzstaffel)急成長と大統領ヒンデンブルグの死、、、急激な変化が党内の粛清=殺人と言う暴力装置と同時に進行した。例えばそれまで機能していた多数政党制が禁止になる。アードルフ・ヒトラーがむくっと牙をむき出す数年が何故起こり、人々が何故それを支持したのか? 戦後ずっと、現在なお、誰も信じることが出来ない。 

数多くのドキュメントや映画は、起こってはならぬことが起こったのは何故か、その解明への試みかもしれない。ドイツ人による初めてのドキュメントと言うのを、1978年頃ハンブルグで見た。小さな映画館は驚愕の静けさだった。白黒フィルムの題名を忘れたが、公私で異なるヒトラーの声音、演説の巧みと小道具大道具を用いる演出の効果を解説。人々を酔わせる状況を映像コラージュで納得させる。彼はプロパガンダの天才だった。それに乗せられた`我らドイツ人`の自責の念を表明する映画だった。話題になったが、ドイツで見る人は少なかったと思う。

21世紀に興味深かった映画作品はDer untergang(没落、ヒトラー最後の12日間)。秘書だった女性(トゥルディー・ユンゲ)回顧録をベースにしたドキュメントタッチの映画を見た方は多いでしょう。フューラーに忠誠を尽くす宣伝相グーベルツ夫婦による子供たち6名への毒薬投与場面は痛ましく悲しい。証言者による細部の信憑性が感じられる。

Hitler und Helga Gubbers    
ヒトラーが可愛がった宣伝相夫婦の長女ヘルガ、両親による殺害当時12才だった。両親は崇拝者のイニシャルHを子供たちにつけ、ヘルガはその一番目だった。思春期にかかる年齢だから、カプセル薬で良く寝られると言う母親の言葉を疑い、飲むのを抵抗する映画場面が脳裏に焼き付く。

トゥルディー・ユンゲは1945年4月30日ヒトラーとエヴァ・ブラウンの結婚式と自殺(銃撃音を聞く)に立ち会い、地下要塞/司令部からの脱出グループに加わった。地下鉄を伝い明るいベルリンの町にでた。その後どうして真南のバイエルンまで逃げ延びたのか、映画は語らない。バイエルンは米軍パットン将軍指揮下の第三軍駐留/占領地だ。尋問を受ける。若い女性と言うこともあり、間もなく釈放されたんですね。デル・ウンテルガングの末に彼女のインタヴューが付加されている。総統が`化け物‘であるのを彼女が知ったのは尋問を契機にして、バイエルンの強制収容所ダッハウの地獄が明らかになる日々だったと言う。

ダンツィヒは1945年後、波蘭に再編入された。西の本国に強制立ち退かされたドイツ人に代え、波蘭人が`植民`して、名実ともにグダニスクと言う波蘭の土地になる。波蘭はしかし、支配者を取り換えたに過ぎない。グダニスキと上述ティルジットと間に国境が敷かれ、かつての東プロイセンはバルト3国もろともソ連に呑み込まれる。第三ドイツ帝国が共産ソヴィエト悪魔に変わっただけですね。

現在の自由なポーランドに解放されるのはLech Wałęsaを指導者とする`団結`運動を待たねばならなかった。地元発音を知り合い波蘭人から聞くと、レフ・ワレゥンサのように響く。1980年頃だった、バスで通勤する長い時間に聞くラジオが盛んに波蘭グダニスク発の民主化ニュースを伝えていたのを思い出す。ソ連と直結するヤルゼルスキ―将軍下で収監され、釈放後も秘密警察につきまわされ、それでも運動を進めた。

十年一昔。1980始めから90年まで。グダニスクから芽生えた思潮が共産主義崩壊をもたらした。砲弾を伴うダンツィヒから始まったヒトラーの波蘭侵攻は1939年である。半世紀後にポーランドは(そして東ドイツも)独裁軍事共産政権から解き放たれたと言うこと。
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Nature 雑草 フローラ/ファウナ

クロッカスいろいろ 零下の続くロシアにまだ咲かない

120225 Clinton vs Putin

ヒラリー・クリントンとウラジミイール・プーチンをクロッカスに例える積りはない。けれども、いずれも裏に策謀あり。天候異変の花出しのトリックとか、シリア爆撃を後押しするのしないのとか、、、。

US外相による露支那二つへのストレートな非難が上左の画像。曰く: この二つはなんやかんやと仲裁する綺麗ごとを並べ、それによってアサド軍隊の反政府域への攻撃を支援している。つい先ほど、母親子供を含む数十名市民が砲撃で殺された。昨日はジャーナリスト2名が殺害された。露支は罪なきシリアの人々を殺す手伝いをしているのよ!

はっきりと明快。これだけ単刀直入に言える人は一寸いない。ジャーナリストが取材で死亡する例が出始めるほど、``坊ちゃん独裁者``が腰を据えて徹底弾圧をしていると言うこと。彼一味の生き残りはこれしかない。手綱をゆるめれば、ムバラク・ガダフィーの二の舞になる。レフェレンダムだの、改革するなど御為ごまかしで、露支那が頑張ってくれる間に反政府側を殲滅する戦略だ。ロシア支那がいる限り、アサド彼らの生き延びるチャンスは大きいと言わねばならない。

それが分かっているからクリントンがもはや我慢がならないと言う調子の声明を出すんですね。ロンドンの40か国会議の目的はソマリアの海賊問題だが、廊下で討議白熱するのはシリア政権による野蛮行為である。露支イランを除くサテライト局のすべてが、シリア犠牲者の悲鳴と訴えを現場からのライブ画像で伝えている。

独英のチャンネルでは、トルコとヨルダン国境にキャンプをはりゲリラ活動をする「自由シリア解放軍FSA」元政府軍の兵・将校たちの現況を伝えている。彼らにとって重要なことは、iPhoneやフェイスブック・トィッターを通じて実情を世界に知らしめること。すると電源がいる。政権側が反政府住宅街を破壊しているのは、水ガス電力のインフラを絶つ狙い。特に外とコミュニケーションする電源切断の意味が大きいと一人のファイターが説明している。政権側はSNSの効果を重々承知して対応しているのだ。

上右の`ツアー`プーチンは3月大統領選挙の(報酬を得て参加する人々だと西側ジャーナリストが言う)支持者デモでの演説に忙しい。50,5%の票を得るだろうと言われる。集票マシンが働き、統一ロシア党の押すプーチンが過半数を採ることになっているそうだ。西側(ジャーナリスト)に見えないありとあらゆる不法手段が堂々と行われるが、一番に効くのは金子=報酬支払い、と事情通ヴェテランが解説する。プーチン=ロシア政府のアサド政権支持は、シリアの軍港を使うこと、小国にして5百億㌦と言う武器商い事情によっている。支那のシリア支持理由も同じで、露支は死の商人である。

露西亜に民主主義を!と言うスローガンで活動する人々がロシア内部と``西側``にいる。その反プーチンキャンペーンはソーシャルネットワークをフルに用いて、ロシアの人々に訴えると言うもの。時間が不足しているように、私は思う。地方の大部分はSNWと無縁な赤ら顔のウォッカ好きの庶民である。良く分からない民主主義より十万・百万の現金の方を彼等は選ぶだろう。

Crocus Collage 06

日中8~10度。夜間2~3度。やや温かすぎるとベルギーのお天気担当者。白いクロッカスは5日前より、背丈を伸ばし、明日あたり開くような感じがする。青いのと基本的に同じ仲間と思っているのだが…あやしくなってきた。一夜にして5㌢高の茎を伸ばす青いクロッカスと異なり、一週間以上の時間をかけて背丈を伸ばしている。オシベメシベの長さや位置関係が違ったりすると別種や下位の変種になるだろう。

Crocus  Collage 04

青い色のこのクロッカス一本にすぎない。他の槍状の群れは全く開いていない。この個体は前回に記述したように太陽を一杯もらう位置に生えている。右の画像は左の一つ状に寄り添うのに比べ、雄蕊三つと柱頭三つとがはっきりと見える。内三枚と外三枚の花弁を合わせて、真上から見た花の構造がわかる。殆ど花の模式図になっている。

何故、白と青の出方がこうも違うのか分からない。寒波と絡んでいるかもしれない。そもそも園芸種だったものが庭から逃げ出し独り立ちする時、先祖帰り傾向をしめすように思う。庭から逃げない庭木においては、これがしばしば発生する。世話を受けずに勝手に生えるから、遺伝子情報のバラツキが大きいと考えられる。あるいは白の方が自然条件に従順で、気温の緩みと共に成長してきたのか? まだ開かない白い部分から憶測すると、白は青より大きな直径の花になるように見える。

恐らく一週間もすると、村中の庭先にさまざまな色味のクロッカスが咲き乱れるだろう。クロッカス・ヴァカンスが終了して、子供たちは再び学校に行く。ロシアにクロッカス休暇があるかどうか知らない。熊が遠吠えするロシアはまだ零下で凍てついているようだ。クロッカスはまだ出てこないにちがいない。
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Nostalgic Melody&Film 懐メロ&フィルム

`別れ`のメロディー ドイツ民謡とエルヴィス・プレスリー  [別れの一]

1978年、南ドイツ片田舎。どこからか聞き覚えのある曲が流れてくる。ドイツ歌謡番組は独特の雰囲気がする。英語ポピューラーソングを歌っていてもドイツの唄に私には聞こえる。その時の歌い手は女性で、アメリカヒット曲のドイツ版を歌っていると思った。日本でヒットするドイツ歌謡曲はまずない。私の記憶なので、オリジナルはアメリカの筈…。

そうだろう?と念を押すように私が言う。上さんベルナデッテと太っちょ旦那マンフレッド知人夫婦がレストランをやっている。L字型席の大テーブルに夫婦と給仕/調理場で働く若い女の子たちと私10名ほどが賑やかに輪になってワインをやりながら和気あいあい。L字型のベンチとテーブルとが織りなすゲミューリッヒカイトなのだ。

この言葉を日本語のひと言に移し替えるのは難しい。愉快・癒やし・和やか・睦まじさなどの集まった状態だろう。それ故に、他国でポピュラーと言えないコーナーL字型の食卓家具がドイツ定番になっているのではないか。ちなみに彼女たちがニッコリ「ナイーン・ナイーン」と声を揃えて私に言うのでびっくりする。両手の人差し指を下に向けて、上下に動かすんですね。ここよ、ここの歌…と。

Drenbach 001
[スケッチ奥に、ドイツ・カントリースタイルのL字型客席が見える。場合によって個別テーブルを2つや3つに繋ぐ。見えないスケッチ手前は明るい窓側で、幅広の長いテーブル一つを囲む文中にあるL字型の場所。スタッフや馴染がくつろげ、かつ‘読書‘机的な場所。百席/名ほどのGaststätte(ガストュステーテ)料理屋。シェフと女将の親戚子供たち、ザビーネとマニュエラにせがまれて描く。薄紙なのでボールペンの緑インクがたまってにじんでいる。なんで緑なのと詰問された…]

そこはライン川傍の小高い丘陵地で、黒い森(Schwarzwald)のはずれにある。メロディーはシュヴァルツワルト昔からある民謡だった。地元の歌をヤンキーのブルースのように言われ、そりゃー誇りをむっくり立てて外国人の無知を正してくれたわけです。

そして幾つかテーブルの馴染客を加えて、友人も女の子たちもみんなで大合唱始めるんです。郷土愛…デショ!あの村の忘れられない場面…嗚呼、コーラスが蘇る。若い彼女たちの表情が浮かぶ。

Muß i' denn, muß i' denn Zum Städtele hinaus,
Städtele hinaus Und du mein Schatz bleibst hier 
……
ムシデン・ムシデンと始まる恋唄。上の一行が本来の題名。Friedrich Silcher(フリードリッヒ・ジリッファー)が1827(徳川家斉の文政10)年に編んだ民謡楽譜本で`正式化`した。歌詞は1番だけが知られ、2&3番は採譜中のジリッファーが1824年に先輩友人のHeinrich Wagner(ハインリッヒ・ワグナー)に依頼した。詩才豊かなワグナーは即効詩人として、今日の形に完成させたもの。

独蘭で専門高等職業学校(≒ギムナジウム)最終年度に実習が義務付けられます(少なくとも30年年前)。これは基本学業を終え、実際の腕を磨くために各地の親方(マイスター)を回り徒弟修業する昔の名残…。Muß i'denn Zum Städtele hinaus、修業のためにここから旅立たねばならない…腕磨きの旅へ出る惜別の情を詠ったものだ。無論ガールフレンドと別れなければならない。恋と別れがムシデンのテーマです。

もとの題名は長いのでAbscheid=別れと呼ばれるようになった。民謡として地方で歌われるうち、徐々に知られ広がる過程の自然現象…。そしてこれを世界のヒットナンバーにしたのはエルビス・プレスリーの縁がある。

23才ロックンロール歌手は1958年3月、徴兵令状を入手。USの徴兵廃止はいつか知らないが、冷戦がはじまる当時は男子たる祖国義務。テキサス州で初期訓練を受け、10月にドイツ・ブレーメルハ―ヴェンに上陸した後、フランクフルト北50㎞の街バット・ノイハイムに住む。

Elvis Presley Collage 02

彼はただのGI(ジーアイ)上等兵にすぎない。しかしUSエンタメ産業の旗手だから、ペンタゴン上層部はひそかに気配りをしたと思われる。米軍基地に押し寄せる西ドイツファンをつっけんどんに扱えば、米独関係に罅(ヒビ)が入ろう。一方、個人として資産家だから、兵舎住まいに代えて始めホテル`緑の森`、直ぐに一軒家を借り、父・祖母・秘書・ファン郎党を集め、早朝6時半にタンク部隊勤務先へ通った。ジープ運転手を真面目に務め、月給78ドルだったそうな。借家は月800ドル(1㌦=360円の固定時代だから、28万8千円)。

プレスリーはドイツ人誰もが知るシュバーヴェン地方(黒い森の広がりとほぼ重なるバーデン・ヴュルテムブルク州)民謡をしばしば聞いたに違いない。レコード化は17ヵ月の義務を終えた後、RCAヴィクター社のドイツ人バンドリーダーを含む音楽スタッフによって行われる。ロックンロール風アレンジのプレスリーソングである。だがこのレコードは売れなかったそうだ。

Got to go, got to go, Got to leave this town, Leave this town

と始まる英語の歌詞はジリッファーがシュバーヴェン語(ドイツ語方言)から採取した原詩にほぼ従うように思う。民謡の原詩と言っても、語句違いの様々なヴァリエーションが存在するのがつねである。また替え歌も作られる。だから、原詩と言うよりも最も当時歌われていた(標準的)歌詞と考えるべきだろう。英語タイトルは作詞=訳詩過程でCan't you see I love you であったらしいが、レコードのラベルれに短い“Wooden Heart”と印刷された。これが分からない。ウッドをSchwarzwaldに解釈すると当たらずも遠からずか。

ウッドュン・ハートは世を風靡した1961年映画GIブルースで歌われた主題歌の一つになる。映画を見たことはないが、ただ当時のジーアイブルースと言う騒々しい現象を覚えている。メロディーはあちこちに流れ、どなたも記憶されているでしょう。

一等兵のような兵卒を何故GIと言うのか、昔その言葉を不思議に思ったものだ。ググると直ぐに分かる筈、それはともかくGIエルヴィス君はジープを運転手する部隊の上司の娘に惚れた。16才の少女プリセラ何とかと言う少女。成人の少女趣味は法違反になる感じを受けますが…、彼は礼を正し、上司の家と自宅との間の少女送り迎えをしたそうだ。

言うまでもなく、7才違いの恋が世間の話題になった。任務完了してフランクフルト基地から帰国離陸する際の彼らの`別れ`が既に芸能ネタとして演出された。エルヴィス自身のこのエピソードにヒントを得て素早く仕立てたのが映画ジーアイ・ブルースだと推理される。

映画では、ロックンロールをこなすGI若者が腰を落として脚をまげて、ムシデン・ムシデンと歌うのだろうか?10代や20代がキャーキャー騒ぐだけの映画に理屈をこねるのもおかしい…、けれども、歌と連携するUS映画ジャンルの一つを開拓した意味があるのではないだろうか。その後、日本でも歌半分スター半分の同工異曲のイージーフィルムが量産されたような気がする。

Elvis Presley Collage 01

続くように発売されたJoe Dowell(ジョー・ドウェル)によるカバー版が大ヒット。ムシデン・ムシデン…シュバーヴェン方言が英語歌詞に挟まって繰り返される。ご愛嬌且つユーモラスに響く。1961年以降、日本語歌詞もいくつかのヴァリエーションが作られ、広く親しまれているようだ。それら日本語詩で歌われると、軽快で楽しい恋唄に私には聞こえる。それを私は、アメリカ由来のヤンキー流行歌メロディーと思い込んでいたのである。

バット・ノイハイムに`緑の森`ホテルと借家ゲーテ・シュトラーセ14番は今も存在して(他プレスリーと関わる土地と同じように)毎年プレスリー祭を開催するそうな。基地のあった近くの町フリードベルクに、エルヴィス・プレスリー広場があるそうだ。

こうした情報をあのレストラン女の子たちが詳しく説明してくれたのを今思い出す。プレスリーの麻薬や薬多用による不幸な死が先年の1977年で、ホットな話題である。没後に世界中ファンがテネシー州メンフィスの屋敷を訪れた。事情はプレスリー・ドイツ滞在の足跡が残る土地も同じであったと思われる。

2012年、ロックンロールとバット・ノイハイムを結びつけるドイツの人は殆どいまい。そこは小さくて静かな、そして無名の町にすぎない。今は昔、シュバーベン人情に溢れるレストラン、、そこで活き活き働いていたロックンロール世代の彼女たちも恋をして家庭を作り、還暦の世代になっている。
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待雪草とクロッカス 早春賦/春の唄[Update with the song16-03-2017]



Sneeuwklokje Collage 01


たいていの日曜、自然番組8~10時‘早起き鳥‘を聴く。コーヒー付きのベッドで聞く。19日、Sneeuwklokje(シュネークロッキュェ)開花の話題があった。訳すと‘雪-釣鐘花‘だが、和名を今調べると‘待雪草‘と言うらしい。待宵草と同じ命名方だから、マチヨイグサ=ヨイマチグサのように雪待草もありだろう。標準和名に喧しい学者/マニア世界と無関係だから。

Snowdrop英語彙が和名よりも日本で通り良いかもしれない。学名Galanthus(ガランツス)では覚えられないがスノードロップは分かり易い。同じ綴りの幾つか他草花があり、これが一番知られるスノードロップだろう。

雪のある時期に顔を出す草だ。カーニバル2日目の月曜日は休日で、仮装姿で大仮設ホールやカフェーに繰り出す人々が多い。昨夜のドンチャン騒ぎで、午後まで眠っている人たちもいる。通りに人の気配はなく、ただ日陰に残っている雪の白さが寒波二月の名残を見せている。一寸けだるいような感じがする。

早起き鳥専門家のラジオ問答を思い出しながら、隣の森に入ってみる。かなり寒いが、午前10時半ばから陽射しに恵まれた。住宅地と林縁の間の広場に雪待草がやはり出ていた。本来その一群は野生でなく、住宅から逸出したのが居ついているのだ。誰も面倒見ずに何十年も毎年でて、他に広がり、野生と言うか「ガーデン・エスケープ適応帰化種」と言えるだろう。ゲノム情報も変化していると言われる。

19の属が知られ、ベネルックスにだいたい五つ自生種があると言っていた。葉の色味と形、長さなどで大きな違いが分かるだけで、私は四つほどしか知らない。花弁が外に3枚、内に3枚、ご覧のように中心に柱頭と6個の雄蕊が基本のようだ。50㎝を超える茎の持つのは分かるが、15㎝高が多く、それら細部の違いを詳しく見たことは一度もない。掘り返すと1~2㎝球根で、いつか花後に球根分けしてみよう。

Crocus  Collage 01


森に入るところはやや小高く盛り上がり、その斜面にはクロッカスがきっと立ち並んでいた。まだ出たばかりで閉じた状態。せいぜい5~6センチ高の槍が並んでいる。穂先外側の紫色が目立つ。冷え込むのでそうそうに引き返し、前庭の隅に花を開いたクロッカスを見つけた。

クロッカスと言う片仮名は英語からと思われるかもしれない。ブリテン熟年世代はダッチ・クロッカスと断り書きで言う人もいる。蘭語彙からの導入とみて良いだろう。クロッカス・ヴァカンスと言う成句があり、同義句はカーニバル休暇週である。アングリカン新教のブリテンやカルヴァイン派の土地で使われる言葉だろうか。カーニバルと無縁な欧州域は多いから、日本人と同じようにカーニバルに実感を持てない人々もたくさんいる。さような人々がカトリック村に越して、初めての祭で仮装するのに恥ずかしくためらう気分を感じるだろう。

左右2つのクロッカスは、70%ほどの確率で、同じ類のクロッカスに思える。真南に12度傾く前庭は太陽が出る午前は、必ずその全照射を受ける。通りの向いに散策道があり、その向こうは圃場。陽射しを遮るものはない。左のクロッカスが出ていた森の端っこの気温より数度高いように感じる。その御蔭で花びらを広げたのだ。球根を植えたりすることはないので、どこからか蟻が運んできた種子から出た個体だと思われる。夕方に静かな街に外出した時、ところどころにムラサキを認めたが、花びらを広げたのは坪庭個体が一番…。

画像から読めるだろうか? 半時間以内に花びらを動かしたのだ。3つのオレンジ物体は雄蕊と思うのだが、、、 明日あたりもっと開き、もしもその中に花柱や柱頭が見えるならば、全体の作りと各部位の正体が分かるだろう。おてんとうさん次第だ。雪が降ったりすると、クロッカスは槍陣形のままで何日も動かない。一度開いたものもムッツリ塞ぎ込む。

Crocus  Collage 03


左の群は百姓さんのクロッカスと言われるコーカサス域のタイプ。勝手に来たか移入されたか…分からない。農家にいっぱい生えてくるらしく、堆肥との関係かも知れない。6枚花片の内側が白っぽい。花びらを全方向に水平近くまでひろげ、遠くから見ると白ムラサキ絨毯の広がりのようだ。この槍状の時は根から出る筈の葉っぱが見えない。右図のクロッカスは何処にも生える言わば欧州標準種(の変種だが)は花茎よりやや長い葉っぱを同時に出す。地中海から全欧に広がったそうな

雹(ヒョウ)が時々地面をたたくのが今年の二月だ。大気温が例年より冷たいためだろう。日陰に雪と共にその粒粒が残っている。日本列島も寒波だから、東北だと同じように厳しいのだろう。南だと既に、たくさんのクロッカスが花びらを開いていると想像される。4センチもある球根をもち、大柄で様々な花色のクロッカスが作出されているので、春気分が全開になる。春の小川、そして早春賦、素晴らしい数々のメロディーが流れてくる。

   春は名のみの風の寒さや 
      谷の鴬歌は思えど
         時にあらずと声も立てず
            時にあらずと声も立てず
                     作曲:中田 章 / 作詞:吉丸一昌

【Note】;
記述:2012年2月20日。



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ken minatoya

Author:ken minatoya
Victor Westhoff(1916-2001)碑文Hij observeertからのHNを本名と苗字に先立つ屋号に変更。ウエストホフは生物フローラの相互生息環境を丹念に観察したBiotop概念の先駆者。ザザーッとフィールドを歩きつつ、こぼれ見える外史/雑人/雑草の風景

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