ライン・ワール・マースの狭間から、草の如し徒然の観察八景。 政ごと/商いごと/言の葉ごと/遊びごと。

Miscellaneous Human History 雑史/外伝

花山院御代の時代

花山院の御代(ミヨ)に、鷹匠に晴頼(セイライ)と言う人がいた。天皇・貴族の野趣に侍し、名の知られた人だった。鷹扱いのわざだけでなく、落馬や骨折の際の傷治療にも長じていた。彼が用いた薬は兄を当主とする医家御用役の秘薬だった。

京の北に鷹が嶺と言う北山山系にかかる土地がある。江戸期に光悦や宗達と言う文人がここで活躍した。鷹狩りは仁徳天皇4世紀頃から行われ、京へ遷都してからも盛んに行われ、各地に地名を残している。北大路今出川からまっすぐ北にいくと、狭くなって旧街道に通じる。今なお秀吉時代の遺跡や旧家の軒並みが並び、かつての’鷹ヶ峰’面影を残している。

弟であるから、家系存続の鍵である医薬調法や薬草情報の重要性を知っていなければならない。ある貴人が、帝(ミカド)臨席の晴れの行事の際に、鷹の爪で傷を受けた。貴人はたまたま帝の傍で、彼の治療を受けた。鷹術と医術に話がおよび、秘薬の出所を恐らくウッカリ口にしたのだろう。これを知った医家当主・兄は家系と家業を疎かにする弟を切り殺したと言う。

たがが薬のために殺すとはむごい。が、話としては綺麗である。ナルシス神話の殺神のようで印象に残る。弟を殺してでも守るべく価値とは薬草の持つ効能だろう。つまり効能と薬草を価値あらしめるために作られた物語。それゆえに、薬草はオトギリソウ=弟切草と呼ばれる。

Hypericum Cor 019
聖人ヨハネス草(蘭;シント・ヤン)、何処にでも生えてくる。様々な逸話があり、薬用として古代から用いられている。ホメオパシーっぽい薄赤い液体がある。この草の実をつぶすと出てくる液だ。英語で言うと`聖人ジョンの血`に見たてている。咳き込んで落ち着かない幼児の胴部に軽く刷り込んだりする。我が子どもたちも幼い時に…、一種の信仰、おまじないかもしれないが、子供は心安らかになる。

逸話を持つ薬草は数あって、人と薬の不可分の縁を知る。殺生絡みの日本に生えるオトギリソウは、小さな私の庭に勝手に生えてくるHypericum perforatumと言うのと細部で異なる。ややこしい横文字で申し訳ない。片仮名でヒペリカム・ペルフォラータムのように読める。前者がオトギリソウ属を、後者は種名をそれぞれ示す。この種名は陽にかざした葉に油含みのブツブツが見えることを意味する。

兄と弟の上述のドラマに習って言えば、日欧二つのオトギリソウは兄弟にあたる。だから、ここで同じ植物と見なして許されるだろう。青い小さな昆虫は花弁の何かを探っているようだ。彼にとっても、何ぞ有用成分があるのだろう。欧州のこのオトギリソウはHypericum officinalisと綴る別名を持っている。この綴りがしばしば薬草と言われる植物に与えられている。文字通り、オフィシャル=公認された薬と言う仮名語彙である。

有史以来人々が用い、軽い切り傷から見えない体内の病まで、治療効果があると考えられた草花たち。分類の祖リンナエウスが故事や文献から命名した。言い伝えである。検証確認が行われ、何の効果もないものから、何かあるらしい、確かに効くなど、さまざまである。

薬草をどうとらえるか?、思想・立場によって、評価が異なる場合が多い。ホメオパシーと称する医術・薬方に於いて、効能ありとする信者と、詐欺のたぐいとする科学信奉者とが並立している。それと関わりなく。オフィシナーリス/オフィシナーレと綴る植物を見つけたら、まず「花山御代に…」当たるドラマが隠されていると考えていい。


南欧/小アジア出身で< Hypericum androsaemum>と綴る。個人/公共問わず広く植栽されている。オトギリ草仲間でもっとも大きな葉をもつ。開花すると雄蕊が四方に延び、白い子房が大きく目立つのが普通。写真の子房ヶ所はオレンジで、風変わりか何か分らない。丸い子房を小坊主の頭に見立て、和名で「小坊主弟切草」と言うらしい。
Hypericum androsaemum 001 Mansbloed オトギリソウ科


花山院の御代とは、何時の時代だろうか。
花山さんと言う同級生がいた。はなやまさんと彼女を呼んでいた。姓の由来は花山天皇だろう。そう言えば、目のクリッとした色白の気品ある印象を思い出す。どこかに元気にいらっしゃるだろう。

花山を天皇姓だと「かざん」と読むらしい。藤原道長の全盛、摂関政治の時代。藤原主流は娘たちを天皇に嫁がせる。たいてい天皇は幼少または若く、とりわけ健康に勝れない宮人であるため、しばしば病で亡くなる。そして時々の政治事情によっても直ぐに新天皇が立った。花の山なるカザンと言う名前のオリジナルや命名理由を私は知らない。

カザンが帝位についた時、大陸側・西フランク王国はカロリンゲン朝最後の2年にあたった。カロリンゲン名はカルルの領地と言った土地名由来に思われる、花山院の場所を呼ぶような塩梅だろう。現在のフランス北部とドイツ南当たりの地域である。西フランクの海向かいはブリテン本島で、ウェセックス王家と言う支配者がいた。私によく分からぬ時代だ。

カザン天皇は藤原家の母親を持つ。お飾り職の職位だから、どんな男子が成ろうと変わり無い。こうした立ち位置は21世紀における欧州の民主主義国家且つ立憲君主体制のお飾りの人びとと同じである。65代と言う数字が日本天皇史の一端をも示す。16才で皇位に付き2年弱で退位。旧暦を西暦に直して書くと、984年11月5日から986年7月31日までの在位。短い例になろう。わずかのこの期間に鷹師の弟物語をはめ込んでいる。なぜだろう。

在位期間について分かり易い例、30代敏達(ビダツ)天皇は聖徳太子誕生の西暦574年に帝位にあった。984年から574年を引くと410年。65代から30代を引くと35代。410を35で割ると、11.7いくばく。この4世紀間の平均在位年数は12年弱になる。飾り職にも拘らず量産されたと見るか、激しい政治情勢にあって12年もよく持ったと見るか…。

花山の諱(イミナ)を師貞(モロサダ)と言ったらしい。忌み名である故、しもじもは使えない。平安中期の庶民は呼んではならない名前持ちの御仁に場所名や屋敷名のアザナを冠した。これはどこでも同じ、「ウインザーのオバチャン」と、ブリテン若いのがQE2(クイーンエリザベス2)を呼んでいた。ウインザーズ・キャベッジと言うのもあった。

ウィンザーは旦那が使う愛称`キャベッジ・オバチャン`の住まいである。ロンドン郊外のもともと土地名。それが城名にもなった。1次大戦後ドイツ名即ち小豪族地名ザクセン・コーブルグ・ゴータを嫌って、代わりの王朝名に採用した。いささか詐欺っぽいイメージチェンジ…。

Hypericum noDore 002
庭から逃げ出し自活している弟切草仲間の一つ。一本たちの茎だから、対生の対葉が順に90度づつずれていくのが分る。

`オバチャン`ブリテンとカザン日本はユーラシア大陸の東西両端に向かい合って位置する。これらの文明度と言うか、政治・文化の質を考えると、遠くデンマーク・ヴァイキング由来のウェセックス家支配と藤原家/天皇体制との落差は大きい、、と私は勝手に思う。前者は村の素朴と山賊の野蛮、後者はひ弱かつ都の雅である。天皇は武力を持たぬ記号だったから。[その記号性の力は武力を遥かに上回るのだが]

ブリテン島の支配者は、歴史の常で、武力に勝る強いものが立った。大陸ともつれるのは大陸からの刺激を受けた11世紀半ばから。ノルマン公ウィリアムに征服され言語を採りいれ、プランタジネット朝(House of Plantagenet)を開いて`ちゃんこ鍋`欧州の雄になる。初めは小さな海路挟み故に。簡単に嫁をとりあった仏英関係に過ぎなかった…。

西フランク王国は第五共和政フランスの原型である。花山天皇が退位した時、カロリンゲンの王・ロタールに代わり、その孫ユーグ・カペーがパリ近郊地域のみを辛うじて支配していた。カペー朝は名ばかりの西フランク王国のあるじ。生涯40年近い花山天皇は退いてから法皇として花山院を営んだ。20年余の期間だから、けっこう政治ごとに絡んだ営みをしたと言う意味だ。鴨川の流れる京都は安定した`都会的`で、セーヌの流れるパリは`田舎風情`で、人口は前者が後者より多かったと思われる。

鴨川の下流から大阪湾まで、もちろん朝廷/藤原の権力が行き届き、荘園が経営されていた。セーヌ川がパリを出ると、そこから大西洋までノルマン人の支配地[補註1]。彼らは北欧から進出したヴァイキング末裔で、いわば野武士のように強く、ノルマンディー公と言うのが大将だった。この孫の孫の孫か…とまれ子孫にアンジョウ伯ゴッドフリードと言うのがいる。黄色の花エニシダ(Planta genesta)小枝を兜にさしてノルマンディー全域を駆け巡った[補註 2]。その息子が海峡向うをも領地に治め、海路を挟んで広大な国土をもつHouse of Plantagenet朝を立ち上げるのだった。

花山院(または崋山院)は現在の京都御苑にあり、東京遷都までその屋敷があったらしい。正確なGPS(global positioning system)の数字を御苑内にある宮内庁事務所営繕方に問い合わせると、あるいは分かるかもしれない。さちの宮こと後の明治天皇の誕生地・旧中山邸の南東あたりかと推測されるのだが…。

Hypericum perforatum Corrage 02

黄色い無数の雄蕊が綺麗な多年生草植物。上掲載写真例は弟切草でない。日本のオトギリソウと兄弟にあたる欧州自生種である。属名Hypericumは同じだが、種名が異なる。分布域も、厳密に言うと抽出成分構成も異なる。

こうした前菜的な雑事を探ってみると、花山院の御代と始まる物語が分って乙に味わえる。シェリーやポルトを軽く一口いただくアペタイザーの快さと言うべき雑史…。ここまでを、前奏と言うか食事前のオードブルにしていただければ幸。メインコースは次の「洗礼者ヨハネス」にて。

【補注】;
1.西フランクの力およばぬ地域。この構図は16世末・エリザベス1世治世まで続く。小舟ですっと互いの対岸に上陸できるので、いつの時代にもドラマが生れる。最後のビッグ・イヴェントは連合軍の1944年6月6日、ノルマディー上陸作戦Dデイ。

2. ゴッドフリードの妻は向かいイングランドのノルマン朝ヘンリーⅠの娘。数多くのマティルダの中で、多分、最も有名なマティルダ。先夫に先立たれた彼女をノルマンディ-実力者と再婚させたのはヘンリーⅠ。彼らの唯一息子が父方の姓を王朝名にするのは世の習い。母親マティルダはノルマン朝に属するが、息子は父ゴードフリード名を踏襲する。王朝名が変わったのは、内戦の結果でない例。新家名はゴッドフリードが愛用した植物名エニシダ(フランス名Le Genêt à balais)から採られた。植物+エニシダ、Plante+Genêtと言う字名である。なお少木の学名はCytisus scoparius。
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ナポレオン百日天下 [ ベルギー連邦のスペクタル]

ナポレオン。 ワーテルロー戦場に向かう仏軍それとも蘭軍? 3色旗の並び具合で分かる…
Waterloo Cor 03

2015年の6月18日の200年前にこの実際が起こった。今から3年すれば、昨日よりもっと本格的なスぺクタルが繰り広げられだろう。きっちり2世紀を遡るから明快だ。

下写真は先の週末16/17日にあった歴史再現劇。1万を超える観衆が楽しんだ。ブリュッセル南15㎞にあるワーテルロと言う自治体の草原で行われた。そこはフランス語圏ワロニア5州の一つワール・ブラバント州に属する。ベルギー連邦東に小粒のドイツ語圏があり、大きな残りの北半分がオランダ語圏、南がフランス語圏。二つ域のほぼ中央に位置するのがワール・ブラバント州。行政区ワーテルローはその中央、北にありフラーンデレンのオランダ語圏に接する。

Waterloo 01
赤い衣装がフランス軍で、白い繋ぎズボンが連合軍か、良く分からない。フランス軍正装色はブルーと思われるので…? ブリテンの一旅団にカモフラージュ濃緑軍服の精兵部隊があった。他は国王陛下に習い真っ赤な軍服だった。フランス側のナポレオンの信頼するヴェテラン師団予備は長い熊皮帽子をかぶり、下広がりの揉み上げと口髭をはやし、房付き両肩覆いで統一されていた、青い軍服に白皮をたすきにかけ銃剣をささげ、美しくも勇猛であったと言う。

地中海に浮かぶエルバ島からボナパルト・ナポレオンが脱出したのは1815年2月15日。現在だと真冬になるけれども、当時の地中海はどうだったのだろう?王政復古して王位についていたルイ18世は自らの不人気とボナパルトを迎える軍人勢力を知り、ナポレオン3月1日上陸を聞くや否や、取るものも取らずに北のブリュッセルに亡命する。

ウィーンでナポレオン後の欧州秩序を賑やかに協議していたオーストリア/プロイセン/ロシア/ブリテン/スエーデン/オランダ他もろもろ諸国は狼狽して、あわてて案をまとめ上げなければならなかった。この案でそれぞれが巧みに利を得る。しかし例えばポーランド大部とフィンランドは露西亜支配下。悲劇は弱者に属する…。

その間にパリに入ったナポレオンはウイーン会議署名国と交渉するも、ラチがあかない。平和を模索したが、諸国は2度目の野望を恐れた。干されるのを良しとしない英雄は再び戦火を開かざるを得ず、6月15日、12万3千の大軍を率いベルギー国境を越えシャルロワに進出。総合戦力戦になった20世紀の概念`動員から開進`までが、実に短期間になされている。

六個師団にあたるから、召集・装備・編成に加え兵站(ロジスティクス)をどうしたのか? 又もや戦費の徴収(税金)に国民はうんざりとして、いくさ疲れであるのに…。素人には謎である。パリからマース川拠点シャルロワまで真っ直ぐ測り230㎞、大砲を引き大人数だから一週間近くかかろう。列車で一気に国境を越える時代はまだ待たねばならない。

いっときナポレオンを見限り国王ルイに仕えていたミシェレ・ネイ将軍が再び先陣に返り咲いていた。だが亡くなった軍事の鬼才ベルティー元帥に代わるスー総司令官は凡庸である。ナポレオン自身はエルバ生活でやや精彩を欠き、体調が十分でなかったようだ。戦いのイメージを描くデッサン力を失っていた。将軍/将官たちも再びのいくさに、実は気合が入らない。しかしシャルロワからワーテルローは鼻の先、30㎞だ。

Waterloo Cor 02
当時スコットランドからワーテルローにはせ参じた一大隊

ウェリントンは万を侍していたのだろうか。アーサー・ウェヅリーArthur Wellesleyが本名だが、輝かしい軍歴・政歴を重ね、ハノーファー朝ジョージ4世からもらった一代侯爵名の方が知られる。彼はウィーン会議のUK全権であり、その前はナポレオン支配のイベリア半島をいわば開放した将軍。大英帝国軍人史上、十傑に入るかも。

スペインで彼に仕えた将官たちは世界中に散り、蘇ったナポレオンに対する大陸派遣軍は新編成でおぼつかない。経験不足の歩兵7万弱、それに騎兵1万4千5百を率いるウックスブリッジ伯。ウェリントンと冷たい折り合いの彼だったが、冷徹な参謀ゆえに礼をもって副司令に請われた人物。これにオランニェ・ナッソウ家ウィレム王子旗下軍とドイツのヘッセンとナッソウ領邦の傭兵軍をくわえた9万2千余の軍勢である。頼みは果敢な豪傑ゲブハルド・フォン・ブルッフェル率いる13万プロイセン軍であった。

ウェリントンは本陣をワーテルロー村に置いた。後にこの合戦の正式呼称としてこの地名を当てたのである。ベルギーやフランスでは別地名で呼び、実際の戦闘地は(フラームスとワロンのチャンポン読みで)ラ・アルテ・サント、ホウゴウモンテ、モンテ・サン・ジャンと言う村々を含む6月のぬかるみが広がるほぼ平らな地域である。

現在ライオンが頂に座る記念碑はオランダ国王に成ったウィレムの寄進。脚に名誉の負傷した彼は思い出の合戦地にピラミッドを築いた。ライオン像までフーフーして上がると、両軍の戦い経緯とそれぞれの場所を俯瞰できる。近くに360度パノラマ合戦図館があり、資料を展示している。

翌16日、ナポレオン7万4千とブルッフェル8万4千それぞれ主軍が激突。いずれも拙攻と間違いを犯し、ナポレオンは1万4千を、ブルッフェルは1万9千の兵を消耗した。ネイ将軍は度忘れ症がたたって、肝心要の拠点を保持できず、この損失に力を貸した。しかし大まかに言って、フランス側の優勢であった。ブルッフェル数個師団はやや西方に後退し、そのままドイツに帰還するかに思われた。

シリアのアサド政権は過去15か月に1万の同胞(市民)を天国/地獄に送り、今ハーグ国際裁判所で進むスレブレニッチャ法廷の3日間殺戮数は約8千。2世紀前の歩兵と騎兵(+砲兵部隊)のクラシックな戦いの半日での戦死数は3万3千である。一世紀後の第一世界大戦に於ける数日の戦死者と比べて、なんら遜色のない数字で驚く。[この数字は本によってかなり異なり、一応手持ちの戦史本の数字をあげる]

ワーテルロー勝利を記念してロンドン中央ウエストミンタ―地区の鉄道駅名がWaterloo(ウォータールー)と名付けられている。1914~1916年、一次大戦・塹壕西部戦線で傷ついた帰還兵によってウォータールー駅は足の踏み場もなかったのである。1800年に英軍運用開始のベーカー銃等から1900年以降の機関銃に至り、大火力技術革新によって戦死数は天をつくようになる。ワーテルロー3日間はその前兆と言うべきマイル・ストーンなのかもしれない。

Waterloo 02

互いに損害を被った両陣営は態勢立て直しのため、17日は休息日にします。エンジンを持つ自動車や石炭でピストンを動かす汽車の無い時代だから、補給が迅速に出来ない。このために休息日を必要とした…。兵たちが眠り休まねばならないのは言うまでもない。

いくさに休みも糞もあるものかと思いがちですが、現実にしばしば起こる。時に遺体の収容も行ったと言う。もっと昔はいくさをしながら畑を耕した…つまり1日でなく半年や1年くらい休息にする。糧食を作って再び始める。そう言う感じ…。それ故に12年、30年、80年戦争と言う名称が存在するのだ。

腹が減っては戦が出来ぬ、と言うのは経験則だ。初日それでも5千の差で優勢勝のフランスは退却するプロイセン軍を追い討ちして更なる打撃を与える機会があった。しかしネイと幕僚は腹が減り、前線でまず夕食を採ったのだ。ワイン入りサパー中に顔を出したのは、追撃が無いので不審に思った皇帝閣下。彼は小さなデッパリ腹を余分に膨らませ、まず呆れはてた。次に腹に力を入れ、雷を落としたそうな。このチョンボをネイは恥じたのだろうか、名誉回復すべく、後述のごとく18日凄まじい奮戦をするのである。

休息日には翌日の主戦にそなえ、各司令官たちの役割とその師団配置を整える。連合軍はラ・アルテ・サント、モンテ・サン・ジャン、ワーテルローと言う南地域に布陣。例えば、左翼にザクセン・ワイマール王子の師団、その背後からウックスブリッジの騎兵師団が後押し。反対の右翼にオランニェのウィレム師団、背後にクリントン/クックス/アルテンの3師団が控える。その間にクリントンと並ぶ連合側一の精強部隊と言われる司令官ピクトンが位置して、ウェリントン自身の予備師団が続く。

仏軍は連合軍を北から抑えるように、シャルロワ/ブリュッセル間に展開。最左翼にピレ騎兵団、第3騎兵団ケレマン。右にナポレオン自身の身内ジェローム・ボナパルテ歩兵師団、中央にエロン伯率いる歩兵第1師団、その後押しにミルハウ騎兵隊と言う布陣。[ジェロームは15才違いのナポレオンの末弟。皇帝の弟ゆえに、その全盛期に要職を務め、現ドイツ・ウェストファーレン公国王職を務め、そのビュルテンブルグ家のカタリーナと結婚している。兄の威光で人生が決まると言う例で、長生きをしている]

ナポレオンは中央突破して相手主軍を撃破し、左右に回り連合軍を挟み撃ちと言う単純な強襲作戦だったらしい。その前に連合軍より4ポンデル(口径単位)勝る大砲で、したたか相手を叩く…。彼は司令官に珍しい砲兵科出身なのだ。砲術作戦に長けていたので、伝統的作戦に望みをかけたのだろうか。中央突破と言うのは常に将軍や参謀を魅了するのだ。

夜半に大雨がふった。軟弱な草原に大筒が難儀する。ナポレオンは10時半総攻撃を13時に延期しなければならなかった。この2時間半が重大な結末をもたらしたのではないか。西に退いていたブルッフェルのプロイセン師団軍が二手に分かれ、主戦場に向かっていた。もしこれがウェリントンと合流すると、仏軍に致命的になる。

展開地図を見ながらこんな風に勝手に書いていると、125年前のボイン戦役や90年後の鴨緑江会戦を連想する。前者はウィリアム3世と義父ジェームス・ステューワートのダブリン近郊の最終戦、後者はご存知の通り日露戦争陸戦の節目。中央突破とあまり関係ないが、砲術が重大な役割を果たすと言う意味だ。技術も時代も違うのだけれど…

Waterloo Cor 01

最後の3日目、6月18日。ろくに知らない軍人名をあげつらっても無意味…。それで省略しつつ書いてみる。ジェロームは歩兵を繰り出し、良く防御されたホウゴウモンテ奪取を試みて失敗。午後一時から大筒が正面敵陣地に準備射撃を開始した。西側面からのビュロー3万部隊が接近。この報を受けたナポレオンは進出を食い止めるためにグランシェ部隊を差し向ける。1時間を見ていたが、実際は4時間かかった。その間にプロイセンもう一つの流れが既に連合軍と合流して、ナポレオンの正面作戦はすっかり弱体化した。

砲弾は雨のためか、予定の2㎞を飛ばず、敵主力の前に落ちた。エロン伯師団の歩兵大隊が大波の連続のように繰り出した。青い軍服の歩兵たちはやや高みに位置するウェリントン側の8ポンデル砲弾に蹴散らされるが、果敢に敵陣に入っていった。接近肉弾戦だ。現代のコンピューター兵士はこのような戦闘を最早出来ない。見えない敵をレーダーで捕捉して、ドローンや誘導ミサイルを飛ばす。21世紀に於いて、肉体と肉体とをぶつけ血しぶきをあげる殺し合いは去ったと思われるが…。

仏軍切り込みを受けたのはピクトン卿の三つの大隊。6745名と言うから、劣勢である。背後からポンスリー卿の歩兵大隊とウックスブリッジの騎兵が割って入り、持ちこたえただけでなく、じりじり攻勢に転じる。フランス側の大波が止まり、やがて彼らは後退せざるを得なかった。しかし、馬がらみの激しい肉弾戦で、ピクトンとポンスリーは戦死。副総司令官ウックスブリッジは砲弾で片足を吹っ飛ばされた。15時、一次攻撃/撃退が終わり、連合軍は仏兵3千を捕虜にした。

ぬかるみの中に馬体と死体の山がかさなり、勝敗はどちらに行くか定かでない。15時半ナポレオンは次の砲撃波を再開。ネイとケレマン将軍たちはそれぞれの騎兵団を再編成して、再び三度出陣した。ウェリントン側の砲と先込め式のマスケット銃の弾幕に、様々な鎧装備の馬軍が突入み、戦況は一進一退した。馬を射撃で失うたびにネイは次の馬に乗り替えた。4頭目を失い、彼が自陣に帰った時は18時だった。

部下の狂気じみた奮戦にナポレオンは驚きあきれ返ったと言う。同時にそれはバスタード(庶子:軽蔑的)混成軍にここまで粘られる驚きであったかも知れない。大将にも元帥にも戦況がどうなのか、良く分からなかったのではないか。なぜならラ・アルテ・サントを保持していたハノーファー国王軍の第2大隊とバロン指揮官は失われ、村を放棄して退却していた。ウェリントンにしてみれば、危機的状況に思える推移である。

19時、既に主戦場に到着して戦闘真っ最中のプロイセンのビュロー師団を助けるために同僚フォン・ザイテン部隊が駆け付る。両軍の消耗は激しく、ナポレオン自身の予備師団は4千に激減していたと言う。彼は中央正面を叩くために、最も訓練されこれまで敗れたことのないヴェテラン部隊を投入する。揉み上げと髭を持つ強力な兵達である。

だがウェリントンも強かだった。中央高みの背後にブリテン予備を秘蔵していた。無傷の濃い緑の軍服をきた精兵は総射撃で青いたすき掛けヴェテラン部隊を迎える。フランス軍はなぎ倒され、戦力をおとし、ついに気力を失うのである。つまり戦うモラルが消える時。雪崩を打って逃げるのである。「戦え、戦線に戻れ!」と絶叫するネイ将軍に耳をかすものはいない。

Waterloo 03
勝利後のウェリントンとブルッフェル両将軍。左下に座り移送される人物は名誉の負傷をしたオラニェナッソウ公ウィレム

20時半、ナポレオンは馬車を駆ってシャルロワに後退。同じ時間、ウェリントンは初めてブルッフェルと会見している。総大将はブルッフェルに感謝を尽くした筈だ。勝利はプロイセンの救助無しで実現できなかったから。19日、シャルロワからパリに逃げ延びるボナパルト・ナポレオンは捕らわれ、三日後にフランス皇帝から退く。百日に一寸満たない天下であった。
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聞き取り委員会の力 例えばロバート・ジェイ

ロバート・ジェイ(52才)はリヴァーソン氏が選んだバリスター6名の一人。聞き取り調査が始まって以来、殆ど彼が招待された陳述者に質問を発した。静かな表情で淡々と、これまでの半年以上の務めを果たしている。聞き取りは順調に推移してきたのだから、バリスター陣のトップがそのまま続けると言うことだろう。

余談になる。Robert Jayの苗字ジェイはフランダースのカケスを意味する。薄い茶に青い部分を配する印象的な美しい配色の30cmほどの大型鳥だ。しかし強くあつかましい森の住人で、ブナの果実などをあちこちに蓄える知恵をもつ。バリスター職に似合いの苗字に思われ面白い。日本にもカケス氏(ウジ)存在しそうな気がするがどうだろう…。

バリスターはUK法律に関する特別資格である。議会政治をフランスとオランダの共和制と前後して発見・開発した王様連合国家が持つ独特な制度に思われる。どの時代の何年に制定された? 意外に近い時代、ヴィクトリア朝の頃か。それ以前の最も権威ある裁きの場所は選抜された貴族からなるいわゆる‘枢密院‘だったようだ。貴族は絶対君主に仕える臣下であるから、バリスターと言う民主主義的な制度に合わない。

バリスターはこうした聞き取り調査の際に、第3者的または公平な立場で役割を果たす法律家の資格と云えようか。普段は法律事務所などに務める弁護士で、十分なキャリヤーを積めばこの資格に応募できる。ブリテン定員は4~5百人を数えるそうだ。かつての大英帝国圏諸国に採用されているのは自然の成り行き。いっとき古臭い制度に廃止案が出たらしい。ゆえに何度も衣替を行い、なお生きているのである。

Leverson Inquiry 06

2009年マードックはブラウンと電話会談をしたと言う。彼は労働党から保守党にスイッチすることを伝える。するとブラウンは「あなたは労働党に宣戦布告をしている」と憤然と答えたと言う。ブラウン自身はこの会談内容は全くなかったとジェイに応えている。ただアフガニスタン情勢について話しただけだと。

招待された人は証言する前に聖書に手を置き宣誓をする。真実を述べることを神に誓うのである。ところが両名の説明は正反対である。矛と盾の事実を述べているのだ。当日の電話やメイル記録、さらにその後に起こった事象を擦り合わせると、どちらが記憶違い、またはしらばっくれているか今後に判断しうるだろう。

リヴァーソン委員会は膨大なレポートを作成するだろうが、有罪無罪を決める裁判所でない。委員会は現役の首相・財務大臣を言うまでもなく、必要ならば誰であろうと`招待`する権限を持っている。調査をする予備的な組織あるいは制度に過ぎない。だが、実質的な力を発揮することに私は驚く。先月だったか、日本の小沢裁判の不可思議な成り行きを並べて見るのはどうだろうか。

Leverson Inquiry 04
オックスフォードシェアーの仲良し。
Rマードックが支持政党を変える前後、呼応して彼らの接触が頻繁になる。例えば下記のメイル記録。

Leverson Inquiry 03

極めて個人的なやり取りが毎日のように交された事情がキャメロン及びブルックス当人たちの証言で明らかになる。委員会作業スタッフはメイル記録そのほか証拠事実を収集している。それら私的雰囲気に満ちたメイルやり取りが、やがて政権につく党首にメディア方針と施策を強いることになるだろう。それは実況中継を見る人に十二分に理解できることだった。

Lots of loveの言葉でこ締めくくられる彼らのメイル交換はデーヴィッドが官邸入りしてからも続行した。ブルックスの当面の目的はBSkyB買収の土壌作り。そのために新政権環境をいい状態にすること。ニュース・インターナショナル傘下であるサンやニュース・オブ・ザ・ワールド等タブロイド紙は保守党の新鮮な雰囲気を伝える。大衆ゴシップ紙の何気ない記事と言うのは、理屈をこねる高級紙よりもはるかに機能する。

キャメロン聞き取りをお開きにする時、委員長は首相に向かい「証言に感謝を申し上げる。ご苦労に存じます」旨をのべ、閉会宣言をした。その表情から、「公人としての立場によくもプライヴェイトな親密さを持ち込んで…」と言う呆れ、あるいは当惑が読み取れた。

Leverson Inquiry 02
キャメロン聞き取りセッションの閉会

【続くと言う気持ちで次回まで】
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蘭国は失墜/悲劇にありて いかにせむ?

国家が打ちのめされ、落胆して失望のどん底に陥ることがある。この悲しみをどう乗り越えるか?

例えば1945年8月15日の陛下の玉音放送をつとに思い浮かべる。
「……朕ハ時運ノ趨ク所堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ萬世ノ爲ニ太平ヲ開カムト欲ス……」

昨年3月11日東北大震災の発生直後から全てのサテライト局はこの報道に集中した。常時衛星局または初期の海底ケーブル24時間ニュース局の核プログラムはニュース報道だ。数か月の進行過程で幾つか印象に残った山がある。

3月17日の天皇ご夫妻の声明はその一つと思われる。中継とその後の録画が終日サテライト局から流された。それは上記の8月15日放送を連想させた。1945年国民への呼びかけは二つに分けて極秘に録音されたレコードであったと言う。

平成天皇声明はそのまま同時に世界に伝わるライブである。66年を隔てる全く異なる時代の二つなのだ。しかし人々を労わり、励まし、力を合わせ復興に向かおうと言う内容において等しく重なる。父君裕仁・ご子息明仁の二代にわたる君主がきしくも同じ文脈の言葉を述べられた。

なぜなら国家の未曾有の危機に直面しているのだから…。民主時代における3月17日君主の表情が画面一杯に大きく私に感じられた。真摯な誠実に満ちた言葉を伝えるこの稀なる放送は(欧州に限るとして)大いなる共鳴を持って、恐らく受け止められただろう。21世紀の玉音放送と言って良いかも知れない。

それから被災者自身と日本人の互助精神を伝える報道が続いた。殆どの欧州人は驚きの目を見張った。わたしの知る人々ですら「あなたの同胞を尊敬する」って言うんですね。その意味するところは「私たち民族にまず取れない協調と優しさに満ちた行いをあなたの同胞は実行できるのね」という驚きを含む新発見なのだ。

この日本人再発見と管政権及びテプコ(TEPCO=東京電力)のスッタモンダとは論理上なんら無関係である。福島第1小爆発が引き起こした恐怖と、その後の立ち退きと避難に世界は注目するからこそ、当の日本の人びとの列を乱さず待つ忍耐強さに目を見開いたのである。
曰く: 極東に四つの国あれど、三つは蛮族国家で、一つは欧州のモラルを遙かに凌駕する。

Euro2012

蘭国の失墜は彼らにとって深刻な事態である。1980年以来起こったことのない恥である。対デンマーク戦を大人と子供の対戦とみていた殆どの蘭国人は、`下手に蹴られた`ボールがキーパー両脚の間を抜けて自陣ゴールに入るのを目撃して信じられなかったのだ。そしてインターナショナルスター選手で溢れるダッチ・イレブンは得点することが出来なかった。

第1戦の取りこぼしの後、オランダは隣国ドイツと戦った。ドイツ選手は簡単に2点を先取して驚いた。ドイツ連邦の11人マンシュハフトは万全の準備をして強敵オランダに向かったのだが、こんなに手ごたえがないとは想像だにしなかった、と彼らの後日談。

思っても見なかった一回戦敗退は目の前だ。もしも蘭国が第3試合日の対ポルトガル戦に2点差で勝ち、もしも既に2勝するドイツがさらにデンマークに勝つならば、オランダは得点数でポルトガルとデンマークを上回り、2回戦に進出できる。他人任せの希望であって、現実に起こるかどうか…だ。

2敗したのだから、オランダの火は消えたと無関心な第3者は思うのだが…。フットボール欧州選手権に特別売り出しキャンペーンを展開したスーパーマーケットの多くは声を失いつつ、わずかな望み、つまり奇跡的立ち直りを祈る。さもなければ、飾りつけやプレゼントの山を処分しなければならない。

続けて敗れた。国家の汚名だ。打ちのめされた後にいかに勇気を取り戻すか? テレビ解説とフットボール週刊誌の`権威`達は業界言葉で原因あれこれを呟き、彼ら自身の予想が狂ったことの言い訳をしているように聞こえる。あるいは選手の想定外の不調をあげつらい、あたかも事前に承知していたように言う。英語で言うところの「サッカー」ジャーナリズムのいい加減さ…。

このグループでもしも奇跡的逆転が起これば、`権威`達は元気百倍になる。それに加え、こうした大試合の場合に限って現れる1600万余(蘭日の人口比ほぼ1:8)のナショナルチームのトレイナー且つ解説者が狂気する。彼らは悲し涙に代えて嬉し涙を流し幸せに浸るだろう。同時に目算商い気分が再浮上、店と言う店がもっとオレンジ色になる。

成績が悪ければ監督/コーチは直ぐに解雇される。あるいは自ら身を引く。このスポーツに限らないが、数か月や一年で去らねばならない。基本契約期間があるのだが、お構い無しなのがこの業界のやくざな部分か…。

昨日ロシア連邦チームのコーチ・アドフォカートが辞任表明した。ロシアチームは意外にも0:1でギリシャに敗れたのである。国民の期待に添えられず、責任を取ると言うこと。彼は蘭人であるが、この世界の常識に従った。ところが同じく一回戦で去らねばならなかった主催国ポーランドのコーチは契約に従い、今年度末まで職を全うするそうだ。号泣した同胞ホリガン的なファンがどう反応するだろう…。

フスボル即ち球を蹴る世界を日本漢字で`蹴球産業`と私は呼ぶ。英語だと語彙違いのため一目瞭然を欠く。独語:Fußball-Industrie綴りは概念として明快。球を蹴って稼ぐ産業分野と言うこと。

欧州各国にプロリーグがあり、並行して国内カップ戦がある。リーグ優勝/準優勝チームが争うチャンピオン大会と、それと似た(私に分からないチャンピオンでないチームによる)欧州大会とがある。加えて2年毎だと言うこの国単位の欧州選手権がある。おまけに陸上やラグビーなど他スポーツ分野に軒並み生まれた2年だか4年だかに一度の世界選手権もある。

この産業規模はスポーツに於いて最大だけでなく、油や自動車と言う主要産業に及ばずとも、例えば映画産業に並ぶのではないだろうか。欧米日にくわえ、伝統の南米、人気沸騰するアフリカ、これらの日常に溢れる産業である。元サッカー選手が村の青年チーム監督業で糊口の途を凌ぐ、なんてことは普通なのである。

別に言うと、昨日今日のごとく、欧州半分の人口が関心を払うような狂気に近いフェノメーンでもある。ホリガンと呼ばれる丸坊主連中はUK生まれの`サッカー気違いファン`であり、自国・他国の試合場に進出して、狼藉を働く。治安警察費用を主催組織と折半する国が多いそうだが、この額もターンオーバー(総売上高)に釣り合って例えば開催行政地の財政困難を引き起こす。欧州一般慣例として、警察は行政区の市町村長の管轄下にある。

2年前の南アフリカの世界選手権だったか、華麗なる技で世界を魅了したダッチ・イレブンは見る影もなくガタガタになっている。2戦してポイント零。共に肩を組んで将来の復興を目指すなんてことを彼らに期待出来ない。欧州リーグのスター選手が多く、とりわけ世界選手権後、、個人プレーに走りすぎる傾向が強い。、

トラウとエヌセアールと言う二つの高級紙は敗北の記事を一切書かず、ただひたすらにフットボールの試合がなかったかのような新聞紙面を作った。誠実に書けば書くほど、心の傷が深まる…。一刻も早くこの惨めさから逃れ、事件を忘れることが一番だと言わんばかりに。もしも大逆転が起これば、大騒ぎして幸せな1600万のコーチたちの様子が紙面を飾るのは言うまでもない。しかし大逆転の確立はきわめて少ない。残念だが…
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Sport スポーツ/ホビー

Euro 2012

Euro 2012が白熱。日本でユーロ2012年と聞いてピンとこないかも。
フスボル・イォーロパ・マイステルシュハフトと隣町で言う。フスボルを蹴球と訳した明治人は偉大だったと思う。サッカーでは当時まったくぴんと来なかっただろうから。と書けば、お分かりのように、2012年サッカー欧州選手権が今開催中。主催国はポーランドと東隣ウクライナ。22年前まで共産圏だった2国が国威をかけて準備して、今週から始まった。

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フスボル・イォーロパ・マイステルシュハフト、舌をかみそうな片仮名を書いたのは半時間後に、ドイツが登場するからだ。窓ベランダに茶色のお椀が置かれ、衛星中継受信完了。左に見にくいけれど、黒赤黄のドイツ連邦三色旗が置かれている。日本出の夏蔦が見事に家屋を飾っている。庭の中空をシダレカバノキが占有して、愛国心高まる大試合サッカー観戦に相応しい雰囲気である。

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ドイツに対する相手は西隣のオランダのイレブン。De wedstrijd (ド ヴェッドストライド)と蘭語で言う。この一戦と言う分け。だいだい色の旗とTシャツと、どこもかしこもオレンジの嬌声。家族そろって庭の飾りで忙しい。サテライトテレビ2局を含め、独蘭2国の主要チャンネルは言うまでもなく、ほぼ全ての欧州各国が実況中継を行う。既に同じグループのデンマーク対ポルトガル戦が進行中だ。

第1戦に於いて、ドイツは1:0でポルトガルに勝ち、デンマークも1:0でオランダを退けている。もしドイツがオランダに勝てば世界選手権の準優勝国オランダは一回戦で敗退する。ポルトガルも負ければ同じ運命。この2国に生き残りがかかっている。オランダの子どもたちは2;1で勝つと言い、ドイツでは2回戦進出は堅い、、とそれぞれ胸算用している。

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昼間のカフェ。旗を二階から下げているだけで、フスボールの大試合雰囲気はない。時々両サイドに独蘭2つの旗を翻した車が通る程度。だが1時間前くらい前から、近所の蹴球好きが集まっている。小瓶ビールを飲みながら、開始を見守っている。全ての都市の、例えばハンブルグやベルリン、アムステルダムにユトレヒト、カフェと言うカフェに人々が鈴なりになって大画面テレビ実況に釘付けになるのだ。自分の家で見るより遙かに興が乗って素晴らしい。

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向かいのオランダのカフェ。赤白青と上から水平に並ぶ三色旗と、オレンジ透明プラスティックを丁寧に張りつめた車とがフットボーファンを待っている。テレビはカフェ内部に2つあるようだ。小さな空間だから、百人ほどでいっぱいになろう。左奥に二軒のカフェが続いてあるから、今から始まる試合90分の間は人々であふれる界隈になる。

90+15分後に結果が分るのだが、独蘭合わせて四千万と言うテレビ観戦者があるそうだ。恐ろしいイヴェントと言うべきだ。さあ始まったので私はこれをアップする。
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ken minatoya

Author:ken minatoya
Victor Westhoff(1916-2001)碑文Hij observeertからのHNを本名と苗字に先立つ屋号に変更。ウエストホフは生物フローラの相互生息環境を丹念に観察したBiotop概念の先駆者。ザザーッとフィールドを歩きつつ、こぼれ見える外史/雑人/雑草の風景

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