ライン・ワール・マースの狭間から、草の如し徒然の観察八景。 政ごと/商いごと/言の葉ごと/遊びごと。

Art 絵画/ 建築

オランダリンデ&ルイーゼ Holländische Linde & Louise Henriëtte

本稿かくれたる主題は下記である。
菩提樹という木は欧州に自生しない。フランツ・シューベルト作曲「菩提樹」、いくつかのドイツ/アメリカ映画題名に付く「菩提樹」は存在しない樹木を扱っている。嘘っぱちがほぼ150年でかい顔して歩いてきた。生物専門家や心ある多くの人々が繰り返し主張している。欧州クラシックなナツとフユがちらほら導入されだし、それらにも盲目的にボダイジュを付ける由々しき状況にある。
潮時にしてほしい。


寺社仏閣の入口にしばしば双樹が植え込まれ、年月を経た壮観さを感じる。下は1850年の植栽、163才になる。神社のような双樹の意図なく、人が間を通る偶然の二本並びだろう。坂の登り口にある。樹種を問わずわずかの間隔の場合、二つであたかも一本のような姿を作る。本樹種はオランダからドイツに移入されたリンデンバウムである故、人々はオランダ(の)リンデと呼んでいる。
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本物、本家と言うべき偽りない菩提樹=ボダイジュについて、「ボダイジュ≠シナノキ Bodhi ≠ Linde」に記述予定。Louise Henriëtから始めよう。ルイーゼは1627年に生まれる。日本の寛永4年、幕府3代将軍家光23才の時である。家光は1651年47才で、ルイーゼは1667年40才でそれぞれ没している。17世紀半ば、東西世界の寿命と解される。家光の治世期間28年に何が起ったか、彼の成したる業績はおおかた日本人が知っていよう。

ドイツ北部ブランデンブルク領邦あるじの妻だったルイーゼの業績を知る人は少ない。領主や王の妻は毎年のように懐妊し、子息子女縁組に精魂を尽くす時代。彼女はカルヴァイン派の信仰心の篤い人だったようだ。強制的に結婚させられた相手の旦那フリッツに愛され尽くされた。ベルリン南の領地を分け与えられ、オランダ風城を築き、造詣深い庭園を造っている。以来その村/地区はオランニェブルクと呼ばれ、ハーグ風な城と雰囲気を持つので知られる。彼女は二つ孤児院を設立し、慈善活動に生涯をささげたようだ。

中;画家;フェーラルト・ホントホルスト。工房に弟子による幾つものヴァリエーションがあったと思われる。時めく売れっ子画家でこうした王家注文は儲かる堅い商い。男前と美女に描くのがコツだろう。肖像画としては極めて凡作。表情に精彩なく個性も何も無し。言わばかしこまった記念の見合い写真に等しい。左;シュプレー中州の南端ボーデ美術館を入った正面階段踊り場の上に在る3人プロイセン王銅像の一つ。十中八九、彼だろう。
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左;猟犬は当時の希少種。二匹を従えた狩りの女神ディアナ(Diana)に見立てたルイーゼ肖像画。画家はフェーラルトの2才若い弟ウィレム。兄弟は父を継ぎ画家家系として名を成した。こうした画家達のほんとに描きたい、または得意な主題(宗教/静物/風景/生活etct..)作品は肖像画注文主である王侯貴族/資産家/実業家に購入され収集され、殆どが今に残っている。画家/芸術家たる冥利だろう。貧困で病死のようなヴィンセント・ファン・ゴッホはその特異で顕著な例である


母親アマリアは政略上の大物、例えば海向うステューアート家長男(後のチャールズ2世)に当たるが、どれもこれもタイミング悪く、とどのつまり言わば身内で良く知る将来大いに期待できるホーヘンツォレルン家長男でブランデンブルク公国(=プロイセン)皇太子フリッツに決定。ルイーゼに確か旧教フランス人だかの好きな若者がいたが、泣く泣く1646年12月ハーグで挙式。二人は17と10才から見知りだから、手続き両家トントンと運んだと思われる。

初めの一年、新婚カップルはフランク王国より辺境伯領であったクレーヴェに住んだ。プロイセンが力を増し17世紀初めに得たベルリンとケーニッヒベルク(東プロイセンの港湾都市、現在ロシア領カリーニングラード)と並ぶ三つの言わば直轄領の南東の飛び地である。領主ナッソー家モーリッツの趣味が良く、美しく広大な庭園が造営されていた。二人は強い印象をうけ、帰郷後にベルリン街づくりに生かしている。ブルボン家の小男ルイ14世も感銘を受け、パリ宮庭に`クレーヴェ`スタイルを取り入れている。

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11世紀に築かれた要塞があり、白鳥の騎士(Lohengrin)舞台で知られる。大戦の空襲で破壊されたが修復されバロック風なイカツイ印象を与えている。Kleveは語彙Cliff由来。町は6千~1万年前の最終氷河期の氷河南下により生成された小文字w/m形の収縮大地に乗っている。生じた崖があるので、上り下りする日本山間の街と似ているかも知れない。ほぼ平野のドイツ東部では珍しい。

崖の下側に10㎞向うのライン川の河床が広がっている。この条件が崖斜面に育つリンデに相応しかったのであろう。ルイーゼとフリッツは選帝侯夫婦修行とベルリン再興のアイディアを、モーリッツによって手塩にかけて育てられた庭園樹木・オランダリンデを見ながら、じっくり暖め熟成させていった…。

Holländische Lindeは独語綴り。オランダのリンデを指す。リンデは日本のシナノキ属の樹木を言う。すなわオランダシナノキと仮名書き出来る。ドイツ/オーストリア/スイスなどドイツ語圏の呼び名である。人々はオランダを付けず只のリンデと呼ぶ。リンデの木だから、Linden-Bäume(Lindenbaum=リンデンバウム)と綴られる。ドイツを含む欧州にほか幾つかシナノキ(科の木)が植わっているが、普段お目にかかるリンデはオランダリンデなのだ。シナノキ仲間をリンデと呼び、もっとも多いオランダリンデが`リンデ`を代表していると言うこと。

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街路並びが殆どなので、`双樹`も一本立ちも見かけるのは少ない。緑文字の説明とおり、オランダリンデに幾通りかの学名記述がある。Tilia vurgarisが通り良い。ボコボコして背高になる樹形は両親二つのやや横広がり円錐っぽい形と異なる。2枚の葉裏細部はふつう見られる2例。上は薄い白+茶の毛が掌状脈元及び脈分岐点に生えている。下は無毛でスッキリ/ノッペリ例。いずれの葉柄も綺麗な無毛。二つはオランダリンデ葉裏ヴァリエーションである。


オランダリンデはハイブリッド。別言葉で、間(アイ)の子/ハーフ/交雑種などがある[補注1]。両親はナツとフユと呼ばれる欧州代表の二つのシナノキ仲間。いぜれが父方または母方を演じたか?と考える人がいる。古来から二つの間で奔放自由に交わりがあり、沢山の交雑が生じてきた。そのハーフが再び両親のいずれかと結ばれるので、ナツとフユとの間の連続線上に複雑多岐なハイブリッド即ち``オランダリンデ軍団``が並んでいることになる。交雑またはハイブリッド現象はホモサピエンス=人間を含む生物界、と言うか自然界のメインストリームではあるまいか。これなくして、あるいはこれと共に突然変異や進化が生ずるのある。

ナツとフユは時に父方、また母方でもあり、植木業者が逞しい丈夫なハーフを庭に移植したのだ。丈夫で育てやすく、病気に強い、且つ見栄えのする優良系を育て上げる。古い専門職で、彼らの始まりは王の住む館に属する宮廷庭師であっただろう。恐らく十世紀以降にオランダシナノキは庭木として存在し始めたと想像する。王の威厳を示す城や領内の別荘/館を飾る庭木として…。

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シナノキ黄色い花に多くの雄蕊と一本雌しべがある。蜜蜂が6月に開花する花を訪れ、雌しべ下部の丸い部分の周囲にある腺から出る蜜(ネクター)を吸う。蜂の動きにあわせ、雄蕊先端にある葯(花粉)がミツバチの体に付着するのである。これは肉眼で簡単に観察できる。葯をボディーいっぱいにまぶされた蜂は次の花に向かって飛翔する。同じ樹木の、たとえば隣の枝に咲く花に移動する。すると中心にそそり立つ雌しべ先端の柱頭にも蜂ボディーの付着花粉を移すだろう。ところが同じ樹木の花柱頭はまだ未成熟か、あるいは葯を受けても実際に内部に取り入れないのである。手短に言うと、性交渉を拒否する。

蜂はブンブンと近くの同じシナノキ仲間に飛んでいく。そこの花柱頭は蜂から花粉を擦り付けられると、受容するのである。なぜ受け入れるのか?花に聞いてほしい。なぜシナノキ類はそうなのか?神に聞いてほしい。左様な仕組みは他家受粉と呼ばれる。自分の花粉を、自分(同じ草木)のほかの花雌しべ先っぽに乗せるタイプをしたがって自家受粉という。一般に2方法に仕分けされているが、ルール違反と言うか、公式に当てはまらない草木本はたくさんある。

1688年のベルリン俯瞰絵図で、実際と異なる要塞完成予想図と思われる。左上部に蛇行するシュプレー川。要塞と言うべき都心は`五稜郭`で、幾重にも鋭角をめぐらしている。当時あちこちに建設された要塞の典型。シュプレーの水を取り入れ掘割にしている。ルイ14世に仕える軍人Vauban(ヴォーバン)がこれら要塞のデザイナー。この要塞をモデルにした一重の函館の五稜郭は原案と異なるそうで、予算不足だったらしい。緑⇒地点は下写真の場所。黄色い↑は同じ方向を示す。
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選帝侯J.Georgが1573年ここに厨房(宮廷台所)用の薬草園を作ったのが始まり。1645年末にオランダリパブリック頭領フレーデリックの長女ルイーゼがハーグにてプロイセン公フリードリッヒと結婚。彼女がこの場所と要塞中心から左側へ走る大通り設計に大きな力になった。基本設計はオランダ人設計家。実施は公指名の知名ドイツ人。噴水と樹木を組み合わせる当時のモダンなデザインである。実際に上図1688年になったのは15年遡る1673年で、初めて都心から左にまっすぐ走るUnter den Linden大通りがお目見えしている。リンデ街路樹の下を歩く大通り計画はベルリン再興の目玉である。庭師と設計家それにリンデの種類など、コーディネターとして采配を振るったのはルイーゼである。リンデは言うまでもなく、ナツとフユの間から成育されたオランダリンデである。現在オランダリンデと言うのはこの経緯による。


ベルリン建築と庭園史にルイーゼが正式に出てくることはない。記録されているのは当時の知名な庭園と建築の設計家たちである。だが彼らを指名して、時々の会議を主催したのは彼女だった筈。旦那フリッツは彼女に全面的な信頼を置いていた。

日本人が注目していい事実は、彼女が果たしたプロイセン首都ベルリン復興の役割だろう。戦争の傷跡を修復して新しい息吹を与える仕事。それは王の妻である故に、王の愛しい人である故に為し得たのではない。彼女はブランデンブルク領邦を遙かに凌ぐ7つの海を支配するリパブリック・オランダ総統の皇女として威厳を発揮したのである。しかめっ面の空威張り`威厳`でなく、デザイン構想のモティーフを持ち、実施設計家たちをまとめあげたコーディネイトの才を言う。後のシューベルト作曲`リンデンバウム`も、ドイツいたる所にあるUnter den Linden(リンデの木の下の)レストランやカフェも、彼女のモティーフによる街路樹から滔々と流れ続け稔った果実と言って良い。

現在の噴水と芝生の Lustgarten。聖堂屋根からの俯瞰写真。現在の聖堂は1894-1905建造。ドーム高115m、巾114m、奥行74m。ヒトラー地下`大本営`攻略時に空襲破壊を受け、修復後やや小さくなっている。右上にチラッと旧博物館が見え、そこから左右に道路が伸びている。ベルリン都心を飾るUnter den Linden通りだ。その街路樹は連合軍空襲でやはり損傷を被り、現在のオランダリンデは戦後あらたに植樹され、ルイーゼ以来おそらく第4世代と思われる。
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↑は1652年のモダンなオランダ風スタイルを設計に取り入れたれた全体構想。シュプレー川沿いのこの部分は初めの台所の野菜園から何回もの模様替えをしている。市街ど真中のため、プロイセン勃興期の軍隊と関わり深い。ルイーゼtと旦那フリードリッヒ・ウィリヘルム[補註2]の子/孫たちは練兵場に用い、ナポレオン支配を受けた時、フランス進駐軍の駐屯地に衣替えする。


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ルイーゼが5才の時、父親はスペイン・ハプスブルク支配下のライン川南部諸都市の攻略キャンペーンに忙しかった。下は先月新装オープンしたアムステルダム国立美術館所蔵、1632年の[マーストリヒトの陥落] 画家;Pieter Wouweman(1623-1682)。左下の白馬の人物がルイーゼの父親。旧教圧政から人々を解放する目的で、ブレダ・デンボス・フェンロ―・マーストリヒトと言った都市群を抑える戦争である。同時にスペインを追い出し、リパブリックの覇権を確立すること。都市内部からの蜂起を画策したが、蜂起は起こらず、遅々として進まず、一進一退が続いていた。1632年のこの勝利は従って、有名なブレダの開城(ヴェラスケス画がある)の正反対の出来事。

Frederik_Hendrik_at_the_surrender_of_Maastricht,_22_August_1632,_in_the_manner_of_Pieter_Wouwerman

マーストリヒトはマース川の拠点都市。川流域は深くも浅くも`渓谷`を作る。その緩やかな斜面はリンデ自生に適している。夏リンデがすくすく育っていただろう。それより多くのフユリンデが森の重要樹種であった。しかしおおかたは、その間の交雑種であるオランダリンデが茂っていたと想像される。本来の自生種二つナツとフユの役割は既にブナにとって代わられつつあった。リンデ種の生存性は交雑種へシフトしていく時と考えられている。マーストリフトから南アルデンネ山地は従って、現在少ないとはいえ、潜在的なリンデ生息地と思われる[補註3]。

マーストリヒトはリンブルフ州々都。州内にLimbrichtやLinneと綴る村が存在する。これらはLindeから導かれている。リンデが古代-中世に余す所なく育っていたのである。そして LindemanやLinnaeus姓が派生する。van Linden / van der Linde / Lindenbergなどリンデと関わる苗字をしばしば耳にす。街路でLindeと叫ぶと、相当数の女の子/女性が振り返るだろう。樹木リンデは女性形なのだ。男性形の樹木としてのナラ(アイク/アイッヒ)と相対している。女性形樹木リンデ、即ち丈夫ですくすく育つオランダリンデを広めた元祖はルイーゼと言う女性である。


【補注】;
1、トヨタのハイブリッドはガソリンで走り、その間ダイナモで生じた電気を併用すると解釈される。ガソリンとエレクトリシティーとの組み合わせであるから``間の子``ネーミングを採用。上手なネーミングで、ネガティブ好みが偏見語に入れた語彙「あいのこ」を本来のポジティブに引き戻した。トヨタの功を私は評価したい。

2.Friedrich Wilhelm/フリードリッヒ・ウィリヘルム(英綴;Frederick William/フレーデリック/ウィリアム)は独逸民族史上もっとも頻出する男子組み合わせ名だろう。南シュヴァーベンから出て北に移ったホーヘンツォレルン家系男子の踏襲名であるかのように、どれもこれも同じこの名。血続き/遠縁/一般も用いるので、数十万(もっと?)の人物になる。機転がきかないと言うか、何とも不便なことか。先日ウインザー家ケイトとウィリアムの長男はジョージ(Georg)名をもらったが、これも典型ドイツ男子名(ゲオルグ)。聖人由来で、いやはや…。 

3.シナノキ3種について、かつての自生地と見なされるドイツ国境沿い数ヶ所の具体的調査が行われていない為。冷戦時代の西ドイツ首都ボン近辺のライン渓谷に野生状態`ナツリンデ`集中地があると言われる。接頭辞の夏/冬が付くもう一つの樹種ナラに於いて、希少な方のフユナラもそこに群生しているらしい。
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Miscellaneous Human History 雑史/外伝

エリザベス・ステュアート 家族と生涯 <ボヘミア編の下-後> [画像追加update版]

フェーラルド・ファン・ホントホルストはユトレヒト派と言われる。ルネサンス・イタリア画家ミケルアンジェロム・メリージ・ダ・カラヴァッジィオに留学中に魅せられる。ユトレヒト派とは言わば蘭リパブリック時代のカラヴァッジィオ影響派と言えるだろうか。
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左;ファン・ホントホルスト作``夕食のひと時…`部分。柔らかな光と影が大胆な構図と共に見事に落とされている。多作画家の数少ないしっとりとした佳作と思う。右は``師匠``ダ・カラヴァッジィオ作。単純に高窓からの光が差し込む人々の集まる場面。こんな扱いによって`光と影`の画家と言われるわけでないのだが…。二つとも色調を抑制し、典型的な華麗なる作品群と異なる。

冬の女王をチェコ綴りで”zimní královna in Czech”と綴るそうだ。今頃のチェコ若人が聞けばキョトンとするだろうか。うまやどの王は聖徳太子か?と言う学術論争に比べれば、10世紀後の山ほど一等資料のある"自分の国”の出来事だから、小中あたりの教科書にのっている筈。一党独裁が消えて早20年、iPhoneやフェイスブック中毒にかかるティーンエージャーはチェコも同じだから、`冬の女王`知名度はサァーどうだろう。

21世紀から見るなら、つまり後知恵の結論は、若夫婦のボヘミア行きは無謀だった。九世紀の前任者カルル大王や14世紀カルル四世の栄光の足元、その爪の先にも及ばなかった。

デン・ハーフ(ザ・ハーグは英語発声)中央駅から徒歩10分、トラムで5分の場所。ここに来るのはビンネンホフと言えば良い。現在の議会と首相執務(小さな塔)建築は左側になる。その向うがBinnenhof(=内庭)、政界ニュースのインタヴュー場所で観光スポット。右側の栃の樹通りは広場/公園で、手前と同じ当時の政庁街であった。
ハーグの池

フェルディナンド2世皇帝が旧教勢力を結集し、プファルツ若殿はボヘミヤ貴族を中心にする軍勢を集めた。しかしドイツ領内の新教同盟軍の支援はなかった。11月8日両勢がプラハ近郊の山地でぶつかった。あたかも72年後にダブリン近郊で起こったジェームス・ステュアート二世旧教軍とオレンジ公ウイリアム三世新教軍との先例であるかのように[補註1]。

戦闘はハプスブルグ軍が常に上位(高い方)にとって戦法勝ちと記述する本もある…。何となく一次大戦でエーゲからイスタンブールを抜け黒海に出ようとした英軍に対するトルコ軍のガリポリ勝ち戦に似ている…。だが、海岸山地のそれもボイン川合戦も壮絶な戦いだった。かたやプラハの実際はあっけない小一時間だったらしい。奇妙で全く信じがたい(ネタ不足で深謝)。時の運に、何もかもに、若殿は見離された。とりあえず、そうしておこう。

彼らは王座とプラハから追われた。エリザベス侍従が赤子である次男ルートヴィヒ(の乳母)を見つけられず、置き去りにして逃げなければならなかった[補註2]。命からがら真っ直ぐ北に逃げ延びる。そこベルリンにブランデンブルグ選帝侯ウィリヘルムがいる。旦那フリードリッヒ妹の嫁ぎ先。相当な借金をオラニェ・ナッソウにしている。頼りないプロイセン領主だが、しばらく頼れる新教の盟友。
左;ファン・ホントホルストの駄作中の駄作と思う。フリッツ本人はこれを見ていない筈。1618年冬の載冠姿の想像図で、安物雑誌のイラスト風な出来である。あるいは弟子の仕事にマアイイヤと言う塩梅かも知れぬ。右;画家はエリザベス次女ルイーゼを描いた。ホルストは子供たち全員に絵を教え、唯一ルイーゼだけがプロ並みの修業を果たした。肖像画家として力量が認められると言う。売り絵を描かず、親戚王族コレクション間に見いだされるそうだ。
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本来帰るべきプファルツ領地は、南隣バイエルン領主にとってよだれの出る土地。ハプスブルグ皇帝軍として傭兵をうごかした旧教バイエルン公マクシミリンが駄賃として実質支配領にする。プファルツが再びフリードリッヒの次男に返るのは30年後のウェストファーレン条約を待たねばならなかった。

1621年の春、ベルリンに腰を温める暇も無く、夫妻は生き延びた家臣250名に伴われ母の里オラニェ・ナッソウ家ハーグに亡命する。領地を失ったが、新教側建前によると、彼はPfalz領主である。リパブリック・オランダは宗主国スペインと独立戦(80年戦争)さなかだから、ハプスブルグ側の領土地図を認めない。

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現在の姿;右が議会、中央のほぼ円錐屋根が首相執務棟。左はモーリッツ美術館。意気消沈のエリザベスとフリッツを迎えたリパブリック総統の名を冠している。こじんまりとした堅牢な建築で、時々話題になる展覧会をもよおす。
>De Vijverhof 02

エリザベスにとって、250人扶持は法外なコスト高である。父親ジェームス(死後は弟チャールズ)からの援助は微々たる額のため、雇員大幅カットし て、オラニェ家助力で何とかやりくりする。最終的住まいは時の国家弁護人と言われたヨハン・オルデンバルネフェルトの邸宅だった。彼は東印度会社を軌道に乗せ、頭領モーリッツを育て上げたオラニェ家の大家老と言うべき人物だ。歴史の常、政争に敗れ断首された。その屋敷が空いていた。

こうして腰を落ち着けると、エリザベスは懐妊し続け、しめて早折込み13人の子宝に恵まれる。亭主フリッツは実質的復位の為に妻の親元や新教諸侯と交渉を続けるうちに、生涯を閉じる。将来を嘱望された元プファルツ領主は当時ありふれた36才で没した。父親と同じ年数で遺伝子に忠実…。健康な上さんをもらったお蔭で賑やかな13人の子供。36にして13人なら、今なら一つの事業である。しかし17世紀に我ありと言う軌跡を残すには運に恵まれなかった。王と付く数限りない歴史に顔出す連中の大半は凡庸な人物である。

優しい旦那が亡くなるとエリザベスは幼子の母親役と同時に、家族と親戚の良き相談・世話役だった。弟ジェームス1世にお気に入りの画家を紹介したり[補註3]、フリッツ妹の14才息子(後のブランデンブルク・プロイセン大選帝侯フリードリッヒ・ウィリヘルムがベルリンから遊学中)の面倒を見たり、未亡人と言うより"ボヘミアの冬女王”たるハーグ生活をしたように思われる。ベルリン/ハーグ/ロンドンの美術館に彼女と子供達、あるいは弟の肖像画を見ることができる。ファン・ホントホルスト二つのアトリエ`本人+弟子`制作が殆どと思われ、ほか欧米の美術館にもまんべんなく掛かっている。

ファン・ホントホルストはエリザベス紹介で1628年にロンドン滞在。チャールズ宮廷に収める仕事をこなす。右はまだ若い風貌の国王肖像画。これなら彼の満足を得られる。故に相応な厚遇を得ている。こうした豊かさゆえに台所が苦しいエリザベスに3500ギルダーと言う大枚を融資。冬の女王と画家は王族と臣民であるが、友のように互いに助け合っていた。彼女自身、絵画に優れた感覚を持ち、その才能は次女ルイーゼ・マリアに受け継がれた。
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長男はアムステルダム近くハーレムセ・メーア湖で溺れ死ぬ。父親フリッツの不手際だったらしい。次男カーレル(=カルル・ルートヴィヒ)三男ループレヒトはリパブリック将官としてスペイン戦に従軍。やがて二人は叔父チャールズ1世に加勢、王党側として各地の戦いで奮戦するも、内戦最後の戦に於いて議会派クロムウェルの組織だった攻勢に敗れる。フランスに逃れ、一つ置きの叔父ルイ14世に仕えるなど軍歴を積み一家を成す。カーレルは後述ミュンスター講和による領地返却を受け、選帝侯として生まれ故郷に帰り15人だかの子供をなす。

ループレヒト(英:Rupertルパート)は従弟チャールズ2世が王に返り咲いた以後[補註4]、母の国に帰化。海軍提督として蘭共和国ラウテル提督軍に対し海戦を重ねた。便利な溝付エッチング具や新型の釣り針を発案したり、趣味をよくする未婚の"発明者”。庶子二人を持つ今風"独身貴族”の先駆をなす。貧乏と縁の無い大貴族、同時に北米との貿易会社`社長`業をこなし、父親フリッツの倍以上の長寿を全うした。運のなかった"冬王”が草葉の影から「息子らはワシの血を引いておる」とニットしているだろう。

独名ループレヒト。生涯独身を通したが、愛するフランシス・バルドとの間に1666年男子1名、1671年にマーガレット・ヒュースとの間に女子を作る。後者はブリテン演劇史の初女役者=舞台女優と言われる。
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1648年、ミュンスターを含むWestfalen地域で80年と30年戦争に関する11の講和条約が交わされた。前者はスペイン・ハプスブルグ対リパブリック組織の長丁場。後者はエリザベス関るボヘミアの戦いから全欧を巻き込み諸段階を経る30年。ドイツの場合2000万人口が1400万 に減少。国土は荒れ廃れ、どん底に落ち込んだ[補註5]。新しい欧州分割が取り決められ、続く1世紀と半分の欧州枠組みをつくることになる。

ブリテンに国を憂える士があちこちに出た。複雑な相互作用、合従連合、新旧キリスト教者入り乱れ内戦に立ち至る。国敗れて山河あり...。身内の戦いと言うのは残虐に満ち、愚かである。ソーシャルネットワークがあれば無駄せずモソットを上手に行ったであろうに…。

ブラディー・マリー(Bloody Mary)を美味いと飲むカクテル好きでも、マリー1世による300名近い聖職者の一挙生き火あぶりを見られまい。「こんな残虐は怒れる新教革命を呼ぶ」とスペイン観察武官がマリーの亭主スペイン王に報告したほどだった。それから百年たっても国教会とローマカトリックの謀略と騒乱事情は続いていた。三国連合の島国は、各国集まるウェストファーレン話に関りながら、つまり大陸で平和への試みが数年以上続いている時、チャンチャンバラバラとドンパチに忙しかった。英語仮名表記で言うウェストファリア条約の翌年、エリザベス四つ違いの弟チャールズは欧州史で偶におこる君主の国逆罪にてロンドンタワー下で断首される(清教徒革命)。

王位に束の間ついだ チャールズ長男が1651年9月内戦の最終ラウンドで敗れた。スコットランドで連合君主国の王として迎えられた彼は南に向かい進軍する。ウォースター郊外セヴァーン河床戦でオリバー・クロムウエル軍に叩きのめされた。フランス海岸にたどり着くまでの彼と重臣との一月余の波乱万丈エスケープは映画ネタになるほど知られる。グレイト・ブリテン(イングランド+スコットランド+アイルランド)は厳格なピューリタン主義者による共和制に移行する。10年近い期間の後半、軍事独裁政権に傾き、人心を失っていく。

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内戦に敗れ捕らわれたチャールズ1世は高等裁判に直面。裁判中、かつての理髪師を望み拒否されたため、髭と髪を伸び放題に任せた。何人にも剃刀を当てさせなかったと言うから立派。黒い帽子は長髪を隠せるわけで無い...何故?といぶかった。思うに彼は既に完全な禿だったと思われる。ファン・ダイク画の三面肖像画から伺える。カツラを被り、その不自然ぶりを隠すために高い帽子をかぶっているのだ。高位の男女が(ブロンドetc)カツラを着用するのはごく普通の習慣/遊びだった。
右の大審問図はクロムウェルの芝居かかった演出を良く伝えている。王を裁くのだから、`正義`を国民に見せなければならない…。帽子をかぶったチャールズの後姿が認められる。彼の前に2名の議長がこちら向きに座り、その背後に大変な数の審判団がやはり被告人に向かい合うように陣取っている。

十年近い内紛が続く。この間に東南アジア貿易とその制海権争いで、エリザベス故郷の島国と亡命先リパブリックとが海戦を繰り広げた。七つの海のリパブリック覇権に対するクロムウェル共和国家の挑戦とも言えよう。新造大型軍船もち英艦隊の優勢でひとまず決着がつきかけた頃、権勢をふるったオリヴァー卿が亡くなる。

弟を天国に送った軍人死亡の好ニュースにつられるように、末娘ゾフィーの嫁ぎ先が決まった。あれこれ迷いようやくブラウン・シュヴァイク選帝侯家の4男坊に決まる。末娘と4男コンビだから苦労少なく仕合せになるだろう。この時、彼女の息子が島国の王に成ろうとは、もちろん誰にも分らない。40年ほど後、ブリテン議会が新教ゾフィーを王位継承者に定める法律を作り、その十数年後にゾフィー息子が島国へ渡りハノーファー朝を開く。

ゾフィーが北に嫁入る前後、ロンドン丸坊主派と言われるピューリタン議会勢力が力を失っていく。手短にいうと、護国卿に登りつめたオリヴァー・クロムウェルの専横に理由があろう。2代目護国卿は議会と軍に力を持たず辞職をよぎなくされ、ここに穏健議会派と王忠誠派による王政復古のレールが敷かれるのである。ロンドン議会からリパブリックのブレダに待機するエリザベス甥に帰還要請書簡が1660年5月半ばに送られる。エリザベスは25日ハーグの海沿いシュヘーブニンゲン村からドーヴァーに向かう甥を見送った。彼は29日にロンドンに言わば凱旋し、翌30日に30才の誕生日を迎え、再びチャールズ二世として立つ。

長生きはするものだ。2度と戻れまいと思っていた`ボヘミア冬の女王`が望めばいつでも海峡を渡れる状況が生まれたのだ。のんびりと気楽にロンドンを訪ねる思いが浮かぶ。47年間の空白がある。甥の暖かい面倒見で、結婚式をあげた広大な白亜宮殿に逗留。春に綺麗に刈り込まれるリンデン/シナノキ冬姿の下を散策、"インブリッシュ・ガーデン”を楽しむうたかたの日々を過ごす。ふるさとスコットランドを訪れ、6才まで育ったエディンバラに近い雪をかぶるリンリスゴー城にも遊んだであろう。

数ヵ月の穏やかな最期の時間がゆっくりと流れる。ほぼ半世紀、冬の女王の生涯が閉じられよう。1662年、日本は四代将軍/家綱治世の寛文二年。冷感きりっとするロンドンの2月13日だった。

【補注】;
1.ジェームスは従兄ルイ14世の支援軍を主力に二万五千を、ウイリアムはデンマーク・オランダ精鋭一万六千にイングランド二万を合わせた三万六千軍勢。戦場は山でなく、ダブリンに近いボイン川。キリスト新旧の攻防戦におけるプラハとダブリンの軍勢比較が似ている。数だけの相似性で言っていけないが、両例とも多勢が勝った。

2.戦のさなか彼を守る乳母または女官が行方不明になったのだろう。使命をおびた家臣が残り探し出し、本隊に追いついたらしい。捕まり処刑されなかったので、ウェストファリア条約で没収された財産返却と選帝侯位返還を受け、ハイデルベルク城に帰還して長寿を全うした。

3.Gerard Hermansz van Honthorst*(1592-1656)。 父親ホントホルストの薫陶を受けイタリーに留学、ユトレヒト派として活躍。1628年弟子と共に海峡を渡り、エリザベス弟ジェームスほか肖像画を手掛ける。40半ばの全盛期に、リパブリック頭領フレーデリック・ヘンドリックやデンマーク王クリスティアンなどから注文があいついだ。ユトレヒトに次ぐ二つ目のアトリエを宮殿のあるハーグに開き、彼自身も引っ越す。多くの門人を擁し、さながら注文に追われる工場の如しだったと言われる。それは作品数から十分に想像される。50近くから仕事と名声を減じたのは恐らく健康を害したと思われる。

4.国王チャールズ処刑は1649年1月。上述のように、息子のスコットランドからイングランドへの巻き返し戦は1651年9月。軍勢16,000は議会軍の半分以下で、散々な負け戦に成った。それだけでなく内戦後期からの議会軍優勢はNew Model Armyと言われる軍制の実現に起因する。ヨーク郷士で下院メンバー、Thomas Fairfaxを初代 NMA司令官として歩兵と騎馬の軍装を新たに、砲術部隊を改良、組織的かつ機動的な戦術と共に、王への忠誠軍を圧倒するようになっていた。

5.死者600万は(異説あれど)ナチ犠牲者数と同じ。時代差を考えれば、この600万はヨーセフ・スターリンの犠牲者数千万の人命に匹敵する大惨禍である。

*本稿は[記:2011-08-02]に画像追加したupdate版。
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Fall of Berlusconi  驕るベル旦那は久しからず

昨日午後、全てのサテライト24時間ニュース局がベルルスコニ取巻きトリオの有罪判決を伝えた。旦那シルビオ自身は先月3週目、ミラノ裁判所で有罪7年判決を受けている。昨日判決によって、とりあえず、アルコレの富豪別荘で行われたブンガ・ブンガパーティー捜査の検察判定が認められたのだ。彼らトリオは76才旦那のために、ユーロー+貴金属を見返りにSexを提供する若い女性を組織するチームだった。栄華をきわめた生まれながらの太陽は色あせ、失墜しつつあるように思われる。

Ruby inquire
モロッコ16才少女はFedeの網にかかり、シシリーのショーに出演。源氏名をRubyとしたので、Ruby-gate捜査と言われる。少女は徐々にミラノにおける3人組みネットワークに入り、1回単位3千ユーロ(約40万円)ほどもらったと言う。回を重ねるごとに元締・首相と懇意になり、とどのつまり直接に500万ユーロ(≒6億円余)報酬を受けたと供述。ベル老の私設ハーレムへの些細な人件費一部である。以下本文を参照されたし。

首相の3期在職は、1年持つか持たないイタリア内閣史上の異例である。国民の言わば半分が彼(+彼の党)を支持してきた[補註1]。これを可能ならしめたのは主要メディア独占と権力による隠蔽工作、つまり彼の財力のお蔭である。欧州財政危機が南欧を直撃、ついに陽気な富豪の内閣を倒閣させた。

以降2年ほどの政治大揺れに必死で持ちこたえ、時に上院多数の利を生かし再復帰の可能性を匂わせた。その都度、残る半分の怒れる国民は「バイバイ、ベルさん」抗議を繰り返す。並行して、恐喝/買収/囲い込みに屈しなかった言わば`半分`の検察が食いついて頑張ったそうだ。ベルルスコニーによる権力悪用+贈賄+売春の明らかな証拠を整え、何回もの裁判を重ねながら、6月25日の有罪判決に至った。

右上;昨日トリオの有罪が下った地方裁判所。この半年、「もういい加減に止めてよ、バイバイ、ベル爺さん」集会/デモが各地で行われた
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モラ(Lele Mora)とフェデ(Emilo Fede)男2名はそれぞれ7年刑、ミネッチ(Nicole Minetti)女1名が5年刑。モラはタレント探し業、フェデはベル老メディア企業のニュースリーダー。別荘で催すブンガブンガパーティーは表向きで、内実は若いプロスティチュートを集め、ベル老の`性会`であったらしい[補註2]。モラはTVタレントやモデルのリクルート専門業で、言わばベルルスコニー私設`人探し`屋。長年フェデと組み「まろやかな美味なるワインのような」女性を探さねばならなかった。

ベル老は2009年暴漢に大理石像で殴られ、前歯2本を損傷。これを修理(?)したのが口腔衛生士資格を得て一月もたたないミネッチだとされる。歯科医のアシスタント業的な職だ。しかし経験ゼロで、ろくな結果になるまい。顔面の歪みと前歯治療をしたのは他の専門家である筈。とまれ襲撃をうけたベル老は既に上述モラ経由で面識のあるミネッチを上手に身内にとりいれた。たまたま必要になった歯治療は懇意になるきっかけだった。彼はニコレ銀行口座に4500万円だかを振り込む。特定ブンガブンガパーティーの謝礼か、それとも彼女との性交渉代金か…不明である。

上は過ぎ去りし過去のパーティーさなかの写真だろう。下は2010年、自由人民党候補で選挙キャンペーン中か。峠を越した素顔…。現在28才だから納得がいく。選挙事務と言うより売春婦斡旋業の事務員たる風情では。先日のロシアのイカレ女、アナ・チャップマンと同属に思われる。20才ほどでベル老に見初められ、モラとフェデと組み、あちこちから20才未満の女の子を集めてきたヴェテランぶりがうかがえよう。
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3人の雇用者ベル旦那が首相在職中、リンジェリー企業パラがミネッチをモデルに採用。ミラノ・ファッション・ウィークにカットウォークでデヴュー、一夜にして歯科医アシスタントは芸能界話題ネタになったそうだ。これをベル旦那はすぐさまに利用。自由人民党の地方議会候補者7名の一人に加える。政治も歯科術もど素人が富豪の手品にかかれば、それら世界で顔を利かせると言う`お伽話`である。タレントを議員に取り込む戦後現象。増しなタレントもいるが、お粗末な数ふやしに過ぎないのが世の習い。政治の質は国民のそれと比例する。

ブンガブンガパーティーがサテライトニュース局のトップになったのは、確かハリウッドのスターが招待客にいたのが一つの理由と思われる。直接の発端はモロッコを逃げ出した未成年のRubyと言う少女がパーティー帰り道に警察に尋問されたこと。多額の金を持ち、滞在許可証の不明のため拘留された。これを救ったのはベル老の電話。

彼女の登録名はKarima El Mahroug、ナイトクラブ・ダンサーである。と具体的なことを述べたのかどうか明らかでない。訴訟検事によると、ベル老は調べれば分る嘘を堂々と言ったらしい。常に法螺を飛ばす御仁だから、取り立てて言う要もない。しかし裁判調べではそうもいかない。ルディ-は拘留当時、未成年17才。これが元首相seks犯罪が明るみになるきっかけになった。ほか20や30の被訴訟案件で裁判官の変更や裁判引き伸ばし圧力をかけたこと、彼自身の裁判での偽証罪…など先月判決の具体的証拠発見につながっていったと言う。

左;当時のRudy。厚いメイクアップなのでモロッコ人の表情が分らない。ナイトクラブやショウ―ビジネスでは普通の`化け姿‘。フェイク(Fake)即ち偽装の世界。明言あり、曰く;こうした職業にホントの美人はいない。半分以上の真実と思われる。日中、厚化粧の女性に出会うことがある。ぞっとする場合が多いノダ。何処に素顔が隠れている? まず分らない。右;デブ男性は、少女や女を探すタレント発掘屋 Lele Mora。7年収監と公的職業を生涯禁止の判決に上告している。[補註3]
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シルヴィオ・ベルルスコニーは`Fake`の世界に住んでいる。王様なのだ。果物や新聞配達をしながら、商いの才能を開花させイタリアきっての富豪になった。出来ないことはない。友達だったガダフィー(Moammar Gadhafi)とムバラク(Hosni Mubarak)と基本的に同じ…、無数の殺戮をしていないのを除いての話である。彼はもちろん実際に牢屋に入ることはないと信じている。一連の裁判は政治的罠であって、無実の私がどうして有罪になりえよう。ミネッチとモラそれにフェデと共に上告中である。失墜は彼の辞書に存在しない。


【補註】;
1.中道右派、自由人民党(PdL. Popolo della Libertà)。2007年暮れに、党首自身が立ち上げた。殆ど個人財力による政党に思える。この春に混迷状況からエンリコ・レッタを首班とする言わば`大政翼賛会`的連合が成立。ベル党首は大臣にならぬと言い、代りに副首相を出している。大臣が7年刑を受けては格好がつかない。

2.無礼講ドンチャカ騒ぎは中小企業の親父くらいから組織できる。仮装`性会`は中世貴族の楽しみであったそうな。いつの世にも現れる人間の根源的欲求かもしれない。現代で耳に挟んだ例は、イメルダ・マルコスやイラク独裁者フセインの息子たちの破廉恥・何でもありパーティーなど。ギリシャ悲劇の主題`肉親男女拘らぬ性関係`を地で行く祭典はカルタゴやローマ貴族に受け継がれ、今日のベル旦那まで営々と流れてきたのかもしれない。

3.公職を例えば5年禁止と言うのは国/地方選挙への立候補を留めるのが主目的だろうか。公務員だけが賄賂を受け取り有罪判決を受ける。民間人への`賄賂`は在りえないので、この罰則の動機と目的は明らかである。つまり首相歴任者のベル旦那や土建屋とつるむ町長などに有効な罰則である。一方ストリップダンサーの手配士/仕掛屋が市役所役人や教師になることはまず無いだろう。彼らには無意味な規定に思われる。しかし公職の生涯禁止ならば、やや老いて役所の門番や清掃掛の求人に真面目に応募することは出来ない。
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ボヘミアのエリザベス  <ボヘミア編の下ー前> (画像追加update版)

>Bohemian war to the 30 years war

家康亡くなる三年前の元和年間1613年の冬、プファルツ領から大名行列が出た。今で言うとベルギー・ルクセンブルグの東側、北と南に伸びたり縮んだりし ながらハイデルベルグまで含む新教のドイツ選帝侯領。このPfalzはバイエルン領主ウィッテルスバッハ家系領だが、カトリックの本家と違い、カルヴァイ ン派新教を奉じた。

3年前父親フリードリッヒが36才で逝き、14才息子が5世伯になったばかり。勿論、国政は忠臣の家老たちによってマネージングされている。この殿が、エリザベス・スチュアート政略結婚の最適相手と見なされた。

ほかにスエーデン・グスタフ皇子などが候補に挙がった。だが三十路半ばの母親が猛烈に息子をジェームス1(スコットランド王としては6)世に売り込んだ。ルイーゼ・ユリアナと言い、以前の日記で 触れたオラニェ・ナッソウのウィレム1世の3人目女房の長女。異母兄でオラニェ家の御曹司モーリッツもロンドンに同行させ、結婚交渉をした。

新教蘭自治都市グループ+ブリテン王様寄合所帯+神聖ローマ帝国内の選帝侯と言う政治勢力結集である。手続き契約なって、1612年若きプファルツあるじはロンドンに 行き、エリザベスと初対面。互いに惚れあうような感じでルイーゼは大任を果たし二重の喜びだった。母はいつの世でも母である。同い年は政略結婚に百の内の一つ理由にすぎない、けれどもフリードリッヒとエリザベス本人たちに演じた役割は大きい...[補註1]。

良く考証されたコステューム映画で、天皇の牛車ほど大きくない車付き籠を見たことがある。新教派の血を流し続けたマリー・チュウダー1世の叔母は同名同姓マリー・チュダーで、かつて妙齢18にしてドーバーを越えて50超えルイ12世に嫁いだ。その時、能面のような白肌の少女がそんな籠に乗ったように思う。幌馬車で無いにしても、まだブナ心材の木製車輪ですから、かなり揺れた筈。

今度はその逆だ。ブリテンの姫君を迎えるための相当な行列だった。家老や重臣一同にとって、これでプファルツの格がドイツ諸侯で上る。それゆえ国庫を勘定しつつも、精一杯の礼と贅を尽くしエリザベス(大陸側ではエリザベートと発声)を迎えねばならない。内陸から海岸までは長旅でしんどい。しかし海に出て、風向きにあえば半日の海峡船旅。そして陸路一日でロンドンに到着する。

ヘンリー8世の初代アドヴァイザーとしてトーマス・ウォルジーは権勢を謳歌して宮殿のような公邸に住んだ。彼は王妃カタリーナ離婚でヴァティカン交渉に手間取り、短気ヘンリーと後がまアン・ブーーリンの怒りを買い失脚。没収された公邸は新王になる度に大普請を重ね、欧州一の大複合建築になる。正面にドームを戴く建築が白い石灰岩作りな ので白亜宮殿(現在言われるWhite Hallは火事焼失後の残り物か何か…)と呼ばれた。

Elizabeth en Friedrich

ホワイトパレスに粉雪が舞う2月にエリザベスとフレーデリック5世(本来の独名:フリードリッヒ)は挙式した。 彼等の前途は洋洋と言わなければならない。アングリカン・チャーチとカルヴェイン・プロテスタントのハイブリッドカップルの誕生。ままごとのような事象であるが、"自由・博愛・平等”精神が生まれる前の王様の時代だった。次の3月いっぱい、彼らは母親ルイーゼの 里、ハーグのオランニェ・ナッソウ家で歓待された。

4月になって、領地で行う祝宴行事のお膳立てにリパブリック(共和組織)オラニェ家2番手のフレーデリック:ヘンドリックがおぜん立てに先行した{補註2] 。若夫婦を伴ったのは正式身分名”オラニェ・ナッソウのプリンス”である伯父モーリッツ(この名称がリパブリック最高職。総統と訳される別語シュタット・ハウダーと同義)。ハイデベルグに凱旋するように帰る。大陸新教派連合の雄として輝くハップニングに、ハイデルベルグの宮殿も領地も華やいだ。

その秋だったか.支倉常長がカトリック総本山ローマへ船出した。主君正宗の意図は宗教よりスペインとの通商と西洋事情聴取にあった筈。日本国内で信長時代から既に、ポルトガル・スペ イン合体後のイザベラ女王、さらにフェリーぺ1世と2世からの布教ミッションが活動。ようそろ、日本カトリック化ならぬと禁教の世になりつつあった。時勢に反する画期的な海外使節であったが、スペイン風邪ッぽいクシャミくらいしかもたらさなかった。

ボヘミアを流れるVltava(ヴィッタヴァ)川。ここはプラハ市街を後にしてさらに北上する道中。やがてエルベに合流し、ドイツを貫き北海にそそぐ。


王族結婚とは政略結婚と同義、同時に近親結婚とも同義である。政略であるから、本人の意向と無関係。今なら児童虐待や児童出産で保護監督下に置かれるが、平均寿命30や40の時代だった。誕生後まもなく嫁ぎ先が決められる、甚だしい年違い、夫婦生活の無い遠く住まい、そんな具体例が転がっている。幼子で送られる皇女は、出来るだけ早く王の嫡子を作る任務につく。理想の王妃とは豊穣多産な女性。子を宿さぬ奥方は失格者である。

幸かな、このカップルは十等身もっと離れていようから、現在の常識から異存の無い健康夫婦になる。珍しい同い年で、さらに珍しいのは夫婦生活が円滑、円満だったこと。こうした幸せ多産な例はあって、代表二組を挙げると:オーストリア・ハプスブルグ家マリア・テレジア女帝と旦那フランツのコンビ、なんと子供16人。イングランドはハノーファー朝・ヴィクトリア女王と旦那アルバートの子供10人。夫の死後いずれも黒をまとい"喪服の未亡人”と呼ばれる。太っちょ巨漢の未亡人たちは子息子女を欧州中にばら撒いた。

ボヘミア王位はルクサンブール家から代替わりしてハプスブルグの神聖ローマ皇帝が兼ねていた。これに不満を抱くルター派貴族が、1618年に皇帝フェルディナンド使者を窓から投げ落とす。皇帝は制圧軍をだす。反乱新教派を助けるため、サボア公と若いプファルツ伯がにわか作りの傭兵軍コストを支出。これが何と皇帝軍に勝ったので、話がおかしくなった。[補註3]

皇帝をしりぞけた格好になった新教貴族たちは、新教の毛並み目立つプファルツ伯その人を王として招く名案を思いつく。孫の顔を見に来ていたオランニェ出のルイーゼが招待状を見て、母親の予感本能か、まず反対したらしい。ドイツ新教連合が会議を開き反対した。加えてエリザベスの父親ジェームスも大反対した。

紛争が長引くと、例えば新教独立低地域と宗主国スペインとの長い戦いと同じ泥沼に陥る。皇帝はあちこちで出費が重なり貧乏だ。だが低地(南Nederland)に常駐する精強スペイン軍に加え、裕福なカトリックであるバイエルンのウィッテルスバッハ公軍に傭兵軍を加え、旧教=皇帝連合軍として巻き返しをはかろうとしている。風雲急を告げる。

プファルツは`上`と`下`から成立している。下はハイデルベルグからデュッセルドルフまで。上はあまり知られない土地でバイエルンとボヘミア間の地域。 もし`上`とボヘミアが一体になれば経済的メリットが測り知れない。そうなれば将来バイエルンを新教側に取り込む可能性が見えてくる…。

若干24才の未経験な`若造`と‘御新造‘にすぎない。ただの選帝侯から国王への昇格の滅多にない話。結婚して6年、夫婦仲良く既に3人だかの子息子女をもうけ、引き続き毎年のように子供を作ることになる。その途中に舞い込んだ一寸したクイズである。彼らはハイデルベルクで、結婚初期の幸せな生活を送っているのだ。

フリードリッヒの叔父。異母兄モーリッツ1625年没後に`オランイェ親王`になり、即ち共和組織の総統職を継ぐ。兄と17才違い、息子のように可愛がられ総統教育を受けた。ライデン大学で学び軍に投じ4州国家軍の司令官を務める。野戦より都市戦を好み`都市攻略`将軍と言われる。
Frederik Hendriks 01

1620年の夏、153台の馬車からなる宮廷行列がハイデルベルグを出た。北部の低地域七つ都市と州などがまとまった年である。水が目線より上を流れるような低い土地は、スペイン(旧教ハプスブルク)に対し、既にほぼ半世紀の独立戦を経験している。彼らは「独り立ちをする」と宣言した。そして政争を潜り抜け且つ戦場を駆け巡る武将たち・オラニェの叔父たちは、甥っ子のボヘミア行きを承知したのである。

初め亭主フリッツは乗り気でなかった。何が決定のファクターになったか勿論、定かでない。恐らくアングリカンの強い信仰心を持つエリザベスの動機ではあるまいか。彼らは我がままな世間知らずの選帝侯・伯爵夫妻だが、それだけに若い夢と言うか、旧教サイド弾圧下(と信じている)のボヘミアに平和をもたらす正義感だろう[補註4]。
道中コースはバイエルンの北を抜けボヘミアに入る難路。料理人から家庭教師や宮廷官たちに加え、様々なブリテン家財道具を持って行ったらしく難儀な旅である。プラハ到着は11月1日、冬場に入っていた。

休む間もない三日後、準備を終え待ちわびていた貴族たちはまず亭主に王冠を授けた。さらに三日して上さんが女王として載冠した。`エリザベート`は王の后である。しかしそれよりも女王だと理解されよう。新教ボヘミア臣下がイングランド/スコットランド王ジェームスに向けたサインかもしれない。

ご令嬢は女王であられる。一刻も早く、我が女王(と我が王)を承認して下され候。
なぜならすぐに承認したのは、共和国宣言したばかりのオランダと、君主国のスエーデンとデンマーク、さらにヴェネチア共和国の四つだけだった。一寸お寒い`国際情勢`なのだ。くらい雲が新ボヘミアの空にかかっている。


【補註】
1.政略結婚におない年や数年違いは少ない。幼女で名ばかりの結婚もある。適齢期15前後の皇女なら理想的。スコットランドのマリーは適齢期に2才年下のヴァロア家フランソワと結婚。病弱な小年で夫婦関係をコンシュームせずに載冠の翌年に逝った。恋愛や惚れた相手と結婚する例は稀である。オーストリア・ハプスブルク女帝マリア・テレジアは数少ない例の一つ。

2.Frederik Hendrikはこの時29才の独身。彼自身も17才エリザベス亭主になる有力候補であった。オラニェ家存続のために政略上相応しい相手探しが続けられ、数度真剣に見当された。兄モーリッツの半ば強制を受け1625年(41才)、伯爵家の出Amalia van Solmsと結婚。ソルムスはエリザベスと共にプラハ-ベルリン-ハーグを随行/逃避の旅をした女官である。女王の身の回りの世話をする女官は常に高い身分の女性である。

3.1618年この事件を30年戦争のきっかけと見なす。1618+30=1648が欧州史の重要年で、関係国すべてがドイツ数都市で多くの条約に同意した。まとめて(英語読みで)ウェストファリア条約と言う。
4."生まれた時から王"種族の価値観が、21世紀庶民常識に会うととても思えない。
*本稿updateは{記:2011-07-30]に画像を加えたもの。
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Hacking, Spy and Battle of secuarity

Edward Joseph Snowden ブクブク泡騒ぎ

上画像;左ヴェネヅエラ大統領マデュロ(Nicolás Madurono)。後ろ写真のチャベスの死後に一番手に成った。 右;ニカラグア大統領オルテガ(Daniel Ortega) 中画像;ボリビア大統領モラレス(Evo Morales】 下画像;国連のバン・キー・ムーンと並ぶアルゼンティン大統領キルチネス(Cristina de Kirchner)。南米の3人大統領が米国の指名手配容疑者の亡命受け入れを争っている。メリットは何だろう。
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大ブリテン島を占める「王様寄り集まり」と言う正式名の国で、数年前に電話盗聴スキャンダルが起った。メディア帝国と言われる`マードック`によるあらゆる個人の盗聴であった。ルパート・マードック自身とブリテン持ち株会社トップとが自由に政府/内閣府に出入りすると言う`異常`を誰も不思議に思わなかったスキャンダルでもある。

一月近く前の6月10日ガーディアントップ一面が下の記事/写真である。今回の盗聴/ハッキングは民間企業によらない。アメリカ合衆国州政府の1部門NSA(National Security Agency=国家安全保障局)による大規模な情報収集。もちろん秘密なる違法行為である。これを暴露したのはNSA勤務スノーディン(30才)。内部告発で、見出しにある`口笛吹き`である。「プライバシーと基本的個人自由を侵害するUS政府を許すことが出来ない」動機が明らかにされている。

Snooden 01


ガーディアンのグレン記者のすっぱ抜き記事以来、30才青年の行方に世界中ジャーナリズムの関心が集まる。ボリビアの・大統領モラレスがモスクワに`私的`風なジェット機で出かけ、スノーディンを乗せ飛び立ったと言う分刻みのトイッターが昨日流れた。何故、貧しいボリビアの人気`実は独裁的`大統領がシャシャリ出てくるのか? 何故プーティンが内外記者人を集めて会見をしなければならないのか?香港からモスクワに飛んだそうなスノーディンは今何処にいる? 

格好良いジェット機のメーカーが気にかかる。正式持ち主はボリビア共和国の筈だが、事実上はモラレスのオモチャであろう。つまりモラレスのモスクワ行きはジェット機メーカーへの興味と同じような取るに足りないことなのだ。US政府から国家反逆罪で指名手配を受けて青年をなんとかものにして、人道上の名を挙げると同時に、日頃のオバマ人気とその大国に腹いせしたいと言う単純なゴシップなのだ。

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エドワード・ジョーセフ君はNSAの香港出先で、手短に言えばインタネットスパイ作業に関わっていた。PC学士で卒業後、CIAでコンピューター/インタネット部員として、マア修業をした。それからNSAに移り日本駐留米軍でさらに腕を磨いたそうな。NSAの日常業務スパイ実態を熟知、そしてガーディアンのアメリカ版の記者グレン・グリーンワルトと接触、今回騒ぎ`渦中の人`に浮かび出た。グレンは40代初めジャーナリストで、おそらく意気投合したと思われる。

記事が出て、すぐさま手配容疑者になった彼は身元を明らかにして、淡々と事情と動機を語っている。どこにもいる明るいきちっとした青年。事情とは、今日まで公に知られなかった`同盟`EUの盗聴/あらゆるインタネット交信の収集実態をリークしたこと。ブリュッセルとワシントンだかにあるEU情報中枢ビルから、言わば大水がNSAに漏れていたのだ。

ドイツやUKで具体的証拠がゾクゾク発見されだした。例えばハッキング器機が壁に埋め込まれていたり、コンピューター室の配線がマニュアルと違っていたり…。アンゲラオバサン曰く;もう冷戦の時代は終わったのよ! EU議会の委員長Martin Schulzが「こりゃーとんでもねーことだ。あってはならん」とドイツ訛りの英語で顔を曇らせている。信頼しているUSに騙されていたショックを隠しきれない。

ジョーセフ・スノーディンは自由な個人として[勇気を要したが、するべきことをした」と`清水の舞台から飛び降りた`後のスッキリした表情である。正義の行為をしたと言う確信と落ち着き。父親は理解を示しつつ、お上に堂々出て来るようにメディアに話している。しかし息子は18か国だかに亡命依頼をだしている。アイデンティティーを明らかにしながら、国家の犯罪に対する警鐘者/内部告発者としての自由を確保するためだ。こうした晴れ晴れさは今までに一寸なかった例である。

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女スパイで売るアナ・チャップマン。実は漫画チックなセルフメイド女スパイ。チャップマンは元亭主のUK苗字。離婚した筈だから一種の芸名。ロシアにない姓だから芸能界で目立つ。こんなイカレ女性がロシアに出る。自由な民主主義国家に錯覚する奇妙な現象。建物は不便で悪評高いモスクワの空の玄関シェレメーチエヴォ国際のターミナルビル。プーティン殿さまもまだここまで手が回らない。

とりあえず彼は香港からモスクワへ移動。香港では市民グループが彼を支持するデモを組織した。それは欧米の数ヶ所に伝播。ロンドンのエクアドル大使官`亡命中`ウィキリークス創始者ジュリアン・アッサンジェ[補註1]はスノーディンのために滞在/旅行全てのコスト援助を声明する。

そのエクアドルがまず亡命候補の一番に上がる。実体は、貧しい中南米がUS交渉の札に使うと言うこと。スノーディンはモスクワ空港の乗り換え空間にいたが、モラレスのジェット機に潜り込んだらしかった。直ぐに現場にいるジャーナリストからのトィーター情報が飛び交った。まもなくモスクワを離陸した飛行機はオーストリア上空で着地を強制された。そこからも着くや否やトイッターが入る。深夜だった。眠気まなこのモラレスとお付きの外務大臣はウィーン空港で「どうして足止め食わされる?」と両手を挙げて浮かぬ顔。記者会見中、疲れたパイロットたちは傍の椅子でウツラウツラ仮眠を取っていた。

オーストリアに続き、フランス/スペイン/ポルトガルがジェット機の飛行ルートに当たる上空通過を禁止した。このスッタモンダに巻き込まれるのを避ける外交措置と思われる。茶番劇、と言うか、空しい出来事である。ジェット機はエドワード君抜き、つまり獲物無しでボリビア首都に帰着。するとアルゼンティン若作り大統領クリスティナ・キルッフェナー[補註2]が隣のパラグアイ大統領をさそって、オーストリア初め欧州諸国さらにオバマUSに対し、国際条約に違反する強制着陸/上空禁止の措置は怪しからんとタンカを切るのである。欧米先進諸侯と開発諸国の対立図に一寸思える。今日あたり、南米同盟(中南米を含む)が集まり対策を協議するそうだ。

NSAがEU他の同盟諸国のワイアー・タッピングをしている。公共の水道管や電気線から水/電気を密かに盗む家庭屋根裏ケシ栽培家は多い。それぞれ水と電気のタッピングである。光と水、それら植物栽培に必要なエネルギーを本菅/本線から別菅/別線を引いて只で入手するわけだ。それを、電話の送受話器内部の配線を細工して盗聴するWiretappingになぞらえている。それ故コンピューター交信の収集作業もタッピングと言う。

あるUS外交官によると、ワイアータッピングは常識だと言う。外交における基本的裏方と言うこと。驚くに値しないと彼は言いたいようだ。この暴露があって、`西側`各国は自国情報機関は「そんな違法はしていない」と控えめな声明を出した。しかしフランスではジャーナリストによる`タッピング`が報告されている。ロシアのKGB後身である国家保安局は言うまでもなく、共産支那のインタネット・タッピング/ハッキング部門は3千名だとかの部隊を要し、1にUS、2以下に日本/韓国/EU諸国の情報収集と攪乱を行っている。

USに於いて幾つか世論調査が行われた。スノーディンの勇気を称え支持する人々と、国家利益を損なう反逆行為と思う人々とは半々の印象を受ける。同盟国によって情報盗掘を受けたEU圏ではスノーディン支持が過半数を超えるかも知れない。しかし犯罪者としての扱いはUS法律に従うから、何十年もの収監判決を受ける公算は強い。そこで内部告発=警鐘者の身柄保護に関する法律化を目指す動きが10年来議論されている。告発による社会悪が公になる傍ら、告発者自身が解雇され、困難に陥る場合がある。社会正義に貢献しながら、支払う代償が過酷である。これでは社会が逼塞する。とは言え、悪はたいてい栄えると言う常識が非常識になるのは遠く長いトンネルの向う…。

‘Snowden, will you marry me?’
とトウィートしたのが上のアナ・チャップマン[補註3]。インタネット交信のタッピングに鐘を鳴らした青年に「私と結婚してくれない?」とソーシャルメディアに書き込み、再び脚光をあびた。青年がシェレメーチエヴォ空港内・乗り換え空間にいる状況を巧みに利用した自己宣伝である。辛うじて若いうちのあがきと解して良いように思われる。プロスティテュート風な流し目トィートがメディアに取り上げられる。それがリーク(告発)実体と関わりの無いブクブク騒ぎを良く示している。

空港のTransition Space=乗り換え空間は該当国法律の及ばないニュートラルな空間。そこで長期に渡り生活する例が知られる。収入なしだが、同情者や面白いと思う支援者による助けを得て、目立たぬ場所でまさに`棲息`し続ける。世界記録は2年ほどに及ぶだろうか。スノーディンがモスクワのその空間で日々を過ごしている詳細は伝わってこない。あるロシア女性は「まるでお伽話ネ」と洩らす。トイレ清掃や売店、巡回警備人が日常付き合う人々に成ろう。彼の場合は数え切れないジャーナリストにインタヴューを乞われる筈だから、二重に厄介且つ込み入った生活だろう。お伽話…おおかたの人々の感想であるまいか。

鐘を鳴らすこうし勇気ある人々に羨望を覚える。妻子があれば躊躇する行為に成ろう。鐘を鳴らせるような政治環境を保障する国がホントウの民主主義国家で在るように思う。これに、6月10日以来のブクブク騒ぎが一助するならば、誠に良き哉…。

チャップマン・ゴシップ女史と同じやはりセルフメイド大統領プーティン[補註4]曰く;US政府の情報収集実態の告発をこれ以上しないならば我が国への亡命を認める。スノーディンは直ちに、ロシア亡命依頼を引き取った。どう言う分けか、チャベス後を継いだヴェネズエラのマデュロが「USから近くて遠いここなら亡命生活は快適になる」とOK信号を出した。すると争うように、北と南を繋ぐ細い回廊の真ん中にあるニカラグア・オルテガが「ぜひ我が国においでくだされ」と言わば亡命招待状を出す。ほか数ヶ国が`口笛吹き`君の会得を目指しているようだ。

何処が首尾よく`もの`を掴むか?パスポートと出国するための紙類、さらに飛行便とその切符などを整えること。そしてUS他の妨害を潜り抜けること。さすれば髭伸び放題?のスノーディンが乗り換え域から機体に搭乗できるだろう。彼の勇気に賛辞を呈し、モスクワ脱出の成功を祈りたい。

[補註];
1.Wikleaks, Julian Assange。ジュリアンはエドワードの先達。コンピュータースペシャリストで、国家や企業の不正行為に対する情報開示を行う組織ウィキリークスを立ち上げた。US/UKなどから逮捕令状をうけ、亡命先を探っている。逃げ込んだ大使館から出られないのは、UK外務省の「絶対に出さない」方針による。

2.Cristina Elisabet Fernández de Kirchner。旦那ネストルの不健康で2003年5月、大統領選挙に出て当選。2007年2期目は現役と固めた自陣官僚とにより他2候補に差をつけ再当選。過去の軍事政権を否定、女性大統領として巧みに立ち回っている。旦那がドイツ系だが、スペイン語読でキリチネルのように読むそうだ。参照;4月初頭「アルゼンチンのホルヘ三人」と「アルゼンティン話に付いた尾ひれ」

3.以前のロシアスパイ項を参照されたし。3年前ワシントンからウィーン経由でロシアへ強制送還された。ロシア保安局の他9名スパイと共に、ウィーンでCIAの露西亜スパイ一人と交換された。冷戦時代を彷彿させるドラマだった。アナの人柄は単なる派手好みのいつもスポットライトを浴びていたい典型。

4.大統領選挙過程は先進`西側`手続きにほど遠い買収/二重投票/脅しなど謀略に満ちていた。EU首脳が首を大きくかしげ、外交担当のキャサリン・アッシュトンをして「プティンはその独裁故に歴史の暗い部分ネ。次選挙で直ぐに没落するわ」と言わしめた。


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ken minatoya

Author:ken minatoya
Victor Westhoff(1916-2001)碑文Hij observeertからのHNを本名と苗字に先立つ屋号に変更。ウエストホフは生物フローラの相互生息環境を丹念に観察したBiotop概念の先駆者。ザザーッとフィールドを歩きつつ、こぼれ見える外史/雑人/雑草の風景

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