ライン・ワール・マースの狭間から、草の如し徒然の観察八景。 政ごと/商いごと/言の葉ごと/遊びごと。

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泉にそひて、繁る菩提樹、慕ひ往きては、、 Bodhi ≠ Linde [そのⅢ]

三つとも同じように見える。そりゃーそうだ。リンデンバウムことシナノキ仲間の欧州自生樹だから。隣にもし植物園のように菩提樹が並ぶならば、誰が見てもそれぞれ温帯と(亜)熱帯に育つ明らかに異なる木々だと一目瞭然にわかる。しかし昔の山野に於いて互いにまじりあって共存しつつ、仲良く睦みあってきたナツとフユ、そして彼らの子になるオランダリンデの三つに慣れ親しむには少し時間がかかるかもしれない。日本列島に自生する仲間でやや小型のシナノキやヘラノキと、どこか表情が違い、微妙な個性をしめすリンデ達。本稿最下段にこのクローズアップを掲載。きっと欧州リンデ三つの区別を看取されるかもしれない。
Zomer Hollande Wintel 06 Takken Klein


泉に添いて 茂る菩提樹
したいゆきては うまし夢見つ
幹には彫りぬ ゆかし言葉
うれし悲しに 訪いしその蔭
訪いしその蔭

この詩(ウタ)は近藤朔風(コンドウサクフウ)の訳詩。本名を逸五郎と言い、1880年(明治13年)東京で、但馬藩儒家系に生まれる。東京音楽学校に1901年から、東京外国語学校に1902年からそれぞれ在籍。音楽と欧州諸語の組み合わせ故に、五七の格調を持つ素直な訳詞を産み出した逸材である。

原詩は Johann Ludwig Wilhelm Müller (ヨハン・ルートウィッヒ・ウィルヘルム・ミューラー)の12篇を含むWanderlieder von Wilhelm Müller詩集から。ウィリヘルムのさすらいの詩…左様な題名である。彼は近藤に先立つ86年前にデッサウに生まれている。

さすらいの旅で詠われた12篇を読み、歌曲に仕上げたのは Franz Peter Schubert (フランツ・ピーター・シューベルト)。フランツはウィーン郊外でミューラー誕生の3年後1797年1月末に生まれ、10才頃すでに音楽の天才素養を示した。上の和訳歌詞のメロディーは Liederzyklus (英;Song cycle=歌曲)分野に属し、晩年の作品。ウィリヘルムによりさらに詠い足された12篇を加えた計24篇の連作歌曲が一般に知られる。

古木、巨樹のボダイジュがネット上のパブリック・ドメインに多く紹介されている。仏教の聖なる象徴だから当然と納得できる。とは言え、日本や欧州で見られない樹木だから、私には少なからず驚きである。
Bodhitree vier photos 340KB
1852年のドイツ出版物に写実画が掲載されている。菩提樹は欧州(知識)人にとってモンキーパズル(ナンヨウスギ)と同じように、熱帯の珍しい大木として知られていたと言うこと。VOC(蘭・東印度組合会社)を通じて、つまり平戸/出島から江戸期の本草学者に知られている可能性はあろう。日本は仏教国家だから、余りある理由がある。


日本/ドイツ/オーストリアの三人を廻る小話。ウィリヘルム・ミューラーから始めよう。
ミューラー生地はエルベ沿いの小さな街・デッサウ。デザイン史を習った人なら、近代建築とデザインの発祥・バウハウス学校の地として知っているだろう。ベルリンの西南100㎞、ライプツィヒの北60㎞ほどに位置する。ほぼ生涯をデッサウに生きた詩人はナポレオン戦争末期1813-1814年にヴォランティア兵役に就いたらしい[補註1]。デッサウのギムナジューム後、ベルリン大学・文学(文献)部に入った頃の若い祖国愛…、ヴォランティアだから後方兵站の手伝いをしたのかも知れない。

ミューラーの生年は1794(寛政6)年。12篇は1820年前後、26~7才の作品になる。19世紀初めならやや遅い青年期になるような気がするが、12篇の内容と言うかモティーフは17~8才以来の旅の経験を含んでいると思われる。二十ほどの若さゆえに放浪するのか? 若いにも拘らず、さすらう余裕があったのかも知れない。ひっきりなしに欧州を揺るがせ200万の兵を消耗したナポレオン戦争が片付いた1814年、ウィリヘルムはベルリンの学業にもどる。そしてバイエルンあたり南ドイツからイタリアへの(さすらい?)旅に出ている。見知らぬ土地と人々との出会い。あるいは孤独な旅の経験が熟して「冬の旅」を含む作品群に結晶したのだろう。

一見ロマンティックでありながら、何故`冬`か? やや暗い黙示的気分が感じられる。遍歴詩編は彼の頭の中で編まれた政治社会的な`さすらい`、言い換えれば世相へのエンゲイジメントであるまいか。最初の12篇「冬の旅」は1821年上梓の作品集 Den hinterlassenen Papieren eines reisenden Waldhornisten (旅する角笛吹きの遺稿)中の77作品に含まれると言う。`遺稿`は朔風の訳に忠実に反映されている(後述)。

朔風が菩提樹と訳したドイツ語彙はDer Lindenbaum。`リンデの木`と言う意味でシナノキ属の仲間である。それは↓のようなコラージュ画像とその前後のキャプションで追っていただきたい。初めの組み写真と↓とのパット見ですら、菩提樹とシナノキとの違いを直ぐに理解されるだろう

ナツオランダフユ 樹形一般比較 03
ミューラーが詠い、シューベルトが曲付けした Winterreise (ヴィンテルライゼ=冬旅)の第5編 Der Lindenbaum は上三つの樹木一般名である。ミューラーがデッサウで普段せっしてロマンを感じた樹種は真ん中のオランダリンデであろう。既に17世期以降、人の住むところのリンデ殆どは野生/自生種でない植えられたリンデであったと思われる。大葉のナツも小さな葉のフユのリンデも、村内の小さな通りや隣村への街道の両側に植えられた。しかし街路樹や公園などに植えられるリンデは殆どオランダリンデになってゆく。苗木の生産性において、両親よりその子が遙かに優れていたのだ。[補註2]。中央の街路樹根っこに陽射しに照らされた緑のこんもりが続いている。これがオランダリンデたるヒコバエ/勢いある萌芽軍団である。

フランツ・シューベルトに関する音楽的研究は巷に溢れている。左様な天才がウィーン界隈に何人もいて、互いに交わったと言う事実に、ホォーッと興味を覚える。フランツには交響楽/ピアノ曲/歌曲/歌劇など膨大な業績があり、恐るべき才能に驚嘆する。神は天才を創造する一方、凡人も大量生産する。凡人の友人たちが10代少年期以降の天才を支え、貧しい青年期を助けのだと言う。

歌曲のカも歌えぬ輩にも、上のリンデンバウムのメロディーは綺麗に響く。それ以上の音楽的知識(常識)に欠け、何も分らない。ウィリヘルムは幾度か推敲して、最終的に三節に収めたように思われる。3つの筋と言うか、イメージからなり、旋律は一つの節の半分だけである。後半分は同じ旋律を繰り返す。つまり三節六部と考えると、6番まである歌詞と言うこと。朔風の和訳にも6番まであると思われるがどうだろう。

歌曲の天才、そんな表現を見つけた。しかしリンデンバウムとほか11篇、さらに書き継がれた12篇の旋律が5~6行の詩文に対応するだけなら、音楽作業量は多くない。それは歌謡曲の作曲家の仕事に等しい。Song cycleと言う概念は即ち、歌謡曲/ポピュラーソング/フォークソング…と言うことではないか。交響楽を楽譜に書きつける創造力と作業量は、ソング・サイクルのそれらと比較できないだろう。長丁場の集中力と全体構想、メリハリ/バランスなど、並みの歌謡旋律ごときの作業量でないと思われる。

Zomer Hollande Wintel

欧州に三つのリンデンバウムあり。樹形から見当つけられる場合もある。葉や果実の様子からだいたいわかる場合もある。真ん中のオランダリンデは左右のナツとフユを親とするために、様々な個性をもつタイプが現れる。図鑑に記述されるのは標準的と言うか、典型的な特徴である。さような優等生的なそれぞれが無いわけではない。しかし実際のフィールドにおいて、まず優等生にお目にかかれない。世界の植物園は互いのネットワークで、コレクションを融通/交換し合う。多くの場合、昔から育て続けた優良系である。あるいはその植物園の固有形質をもつ言わばシリーズ個体である。戦後の日本に欧州三つのシナノキ、すなわちリンデ種がポツリポツリ導入されている。半世紀を経た定植個体がある。環境/気候の違う日本で成木として見られる樹齢であるから、どのような表情なのだろうか。


ボダイジュとシナノキが別の木であるように、交響楽と歌曲は別分野である…と言う論がありうる。シューベルトはいずれにも才能を発揮した…。並外れた音楽頭脳だから、いずれも出来る、と私は考える。長くて10数行、たいてい3~8行詩に曲を与える歌謡作曲者が10~100分に及ぶ`音楽`を作れるとは思えないから。

もう一つ、余談だが、歌謡曲作りは運よくヒットすると印税で稼げるが、交響楽作りで儲けるのは難しい。クラシック・コンポーザーなる職業は存在できず、その代り彼らは指揮者/(宮廷)音楽官/音楽教育者として生活する。シューベルトの場合は理解者/ファンの支援と資産家/スポンサーによっている。凡人たちのお蔭で、世界はシューベルトを味わえるのである。


童は見たり 野中のばら 清らに咲ける その色愛でつ あかず眺むる 紅におう 野中のばら 
「野ばら」歌詞。原詩は二十すぎ若きヨハン・ウォルフガング・フォン・ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe)がストラースブルク大学在学中に詠んだ叙情詩。近村の少女との恋を詠った愛の詩。100を超える作曲作品があるそうだ。日本で良く知られるのはシューベルトとウェルナー[補註3]のメロディー。音楽とほど遠い私すら、いずれを耳にしても、あゝと懐かしい気分になる。熟年世代殆どの方が二つとも口ずさむめると思う。

Heidenröslein(≒ハイデに咲く可愛いバラ≒野バラ)を逸五郎(朔風の本名)は幾篇かの訳詩に試みたのではないだろうか。彼は明治政府に尽くした但馬出石藩(豊岡)高官の息子で、やはり良家で叔父叔母に当たる近藤家に12才で養子入り。恵まれた環境に育まれ、語学/美術/音楽を一つの器に収めた人物。ゲーテと同じ教養人と言えよう。ハイネの`Lorelei`にせよ、ミューラーの`Der Lindenbaum`にせよ、ゲーテの`Heidenröslein`にせよ、`相応しい訳詩家に巡り合ったことになる。

ナツ オランダ フユ 樹形一般比較 02
左右の両親リンデは15~20mの距離で撮影。子供オランダリンデは50~60mの距離から。ナツの胸高直系は60^70㎝、戦前にこの農家`おばあちゃん`が左右にフユとナツを植えた片方のナツリンデである。幹回りはそれなりだが、背丈は10mほどに過ぎない。右のフユは株立ちの10本ほど束の一つ樹形の姿。太いのは直系20㎝ほど。真ん中の個体は根っ子に出る筈のヒコバエが見当たらない。葉表情と果実さらに樹形と樹高はオランダリンデの特徴にかなっている。80%オランリンデと言うことにしよう。

1884年、22才牧野富太郎は四国・土佐から上京、東京帝国大学理学部植物学教室に出入りを許された。桜井逸五郎は4才になっていた。草本観察と標本採集の鬼・牧野は教室の教授/助手と同じようにインド熱帯樹木名・菩提樹を知っていた筈。だが日本分類草分け期の彼等に実物に接し採集する機会は無い。古来から寺院に菩提する樹木があり、それで十分だったと思われる。シナノキ属とイチジク属とをごっちゃ混ぜにしていたと言わないが…、他にすることが山積し、手が届かなかったのだろう。逸五郎の例えば二十の時、事情が変わったわけでない。彼にとっても、少壮植物学研38才牧野にとっても、菩提樹は寺院の木であり、盆や冠婚葬祭にお目にかかる樹木であり続けた。

逸五郎は知識人だから、望むなら直ぐに菩提樹≠シナノキを理解した筈。だが富太郎も逸五郎も列島に隔離された日本人に変わりなかった。法事のたびに顔見知り和尚が経を唱えに来る。何かある度にお布施を出し、村や街の我`寺`を維持しなければならない。檀家でない家は存在しなかったのだ。全国隅々にある寺は治世システムにくみこまれ機能していた。日常は仏教即ちお寺さんと不可分だった。知見として知る分類学上の異なる二つの木々がオーバーラップして、いつの間にか一つに合体していた。21世紀ネット社会の今から振り返ると、左様な屁理屈っぽい説明が私に精一杯である。

朔風訳のリンデンバウム歌詞ヴァリエーションが幾つあるか不明。もっとも用いられるのが冒頭にあげた版であろう。ウィルヘルムの言葉を美しく朗々と訳し、原詩[補註4]に在るように一節目二行目に一度だけ出てくる題名Der Lindenbaumに漢語`菩提+樹`を当てている。私が何度も繰り返す「サンスクリット語を音写した漢字で、釈迦の悟り(根本思想)+樹」と言うこと。朔風は誤訳を堂々と犯したのである。

回り道して、元の3節を行ごとに移してみる。I am a boy→僕は一人の少年である。このような一行単位で音韻含みの詩を機械的に訳し下すのはナンセンスである。しかし朔風がここから和歌的なリズムに代えて綺麗かつ忠実な`和訳作品`を産み出した経緯を想像出来よう。

1.門前の泉の傍に 一本のリンデが立っている その陰で物思いにふける 沢山の甘い夢 幹に文字を彫り刻む 多くの愛に溢れる言葉を [補註5]

2. 喜びと悲しみ いつも私の心に在る 今日は歩かねばならない 夜のしじまを超えて まだ暗闇のままなので 目を閉じて 枝のざわめきを聞いている 彼女が私を呼んでいる 旅人よ 私のところにおいで ここに安らぎを見つけられるのよ

3, 冷たい風が吹く 私の顔に 頭から帽子が飛ばされていった 振り向くことさえ出来なかった いま私は何時間も あの場所から遠ざかっている 私はいつも時間にせかされている あなたはそこに安息を見つけるの あなたはそこに安息を見つけるの

因みに朔風の2番と3番はこう歌い上げられている。
2.今日もよぎりぬ 暗き小夜中 真闇に立ちて まなこ閉ずれば 枝はそよぎて 語るごとし
 「来よいとし友 ここに幸あり ここに幸あり」
3.面をかすめて 吹く風寒く 笠は飛べども 捨てて急ぎぬ はるか離りて たたずまえば
 なおもきこゆる 「ここに幸あり ここに幸あり」[補註6]

我流の一行語彙訳と完成した朔風訳を比べて分ることは、朔風が原詩3節6部を巧みに半分にしていること。原詩の雰囲気をとどめながら、意訳と言うか、抄訳を実現している。先述した6番までは従って作らず、3番で打ち止め。教育唱歌でも一般歌謡でも、現実的な提示である。

ミューラーの原詩を恋に破れた若い旅人の12篇連作とすると、その一つデル・リンデンバウムの朔風訳は十二分に主題を伝えていよう。12篇を含む計77の立派な詩集の題名は「旅する角笛吹きの遺稿」である。詩人は死者の残した詩の数々と言う含みをこめている。言わば舞台設定、あるいは背景になるイメージ。朔風「ここに幸あり」リフレインは実は主人公わたしが冥途(=天国)で得た心の充足だと解するべきだろう。

「嬉し悲しに」訪ねる木陰を作るリンデの木。そのリンデが「旅人よ 私のところにおいで ここに安らぎを見つけられる」→「こよいとし友 ここに幸あり ここに幸あり」と呼ぶのである。手短に言えばリンデンバウムたる擬人が旅人にここに来て自死するならば、平和な安息の日々を得られると誘っているのだ。

研究者はむろん承知だろう。けれども歌曲を愛し歌う人々はどうだろう?知る人は知ると言う塩梅かも知れぬ。朔風は遺稿集のテーマを忠実に訳していると先に述べたのはこの理由に他ならない。これを彼は理解した上で、唱歌/歌曲の和訳作品にしあげている。おまけに強かな誤訳`菩提樹`を、皮肉れば`何くわぬ顔で`実行して、2次大戦を超え遙かこんにちまで人々に「ボダイジュってシナノキ仲間なんだよ」信仰を植え付けてきた。

果実について;ナツリンデは8~10㎜、外壁が厚く親指と人差し指でまず押しつぶせない。ヘラ状笠中央から出る果柄に付く果実個数は平均3個。4個や2個も見かける。5個を超えることはない。フユリンデの果柄先端は数本分岐し、合わせて5~12個を付ける。直径平均5㎜。小さいので簡単に両指で潰せる。アイノコ=ハイブリッドリンデの5mmサイズ果実をまず見ない。それ以上から10mmまで個体(業者手持ち)によって様々、個数も同様バラツキが見られる。
Tilia 3 spaces nog niet mature Fruits klein
こうして三つリンデの果実たちの差を観察できる。菩提樹の果実は日本亜熱帯(沖縄など)に自生するイチジク属と似ている。オオイタビ/ヒメイタビ/イタビカズラなどの可愛い小木や蔓植物に八百屋店頭イチジクを連想する果実が付く。釈迦の菩提樹果実も食用になると思われるが、どうだろう。もしそうなら、有難い功徳を得られるに違いない。


朔風に50篇近い訳詩があるそうだ。酒が好きだったらしく、それなら訳業で食って行けまい。生業は教師や役人だったのかもしれない。ハインリッヒ・ウェルナーが生業の音楽教師をしたようにダ。功成り名遂げた88才の長寿をまっとうした父・桜井勉に対し、逸五郎は1915(大正4)年に病没。好きな酒が原因らしい。35才だった。

デッサウ生まれのミューラーは、ベルリン大学を出て間もない頃、トルコ圧政下に在るギリシャ・シンパシサントとして名高かったらしい。政治的関心と文学+音楽的素養が`冬の旅`主題の土壌になっているのであろう。ベートーベンに先立つ半年ほど前の1827年3月に、(多分)不治の病・結核で亡くなった。

ハインリッヒ・ハイネやゲーテに並ぶべきも無い並みの詩人と言う評価がある。しかしシューベルトとの`共同作品`冬の旅`によって名を留めている。作詞なければ、歌曲はあり得ない。彼はほぼ生涯一貫してデッサウに住み、郷土偉人と言うべきだろう。享年33才である。シューベルトの`野バラ`と伍する旋律の作曲者ウェルナーはミューラーの6年後に生まれ、その死のきっちり6年後に亡くなっている。彼も33年の人生だった。

シューベルトは`冬の旅`に曲付をしている頃、チフスを患っていたらしい。作曲で飯を食い難いのはシューベルトに限らず、音楽家/芸術家はたいてい貧乏と付き合いが良い。貧しいので病に陥る可能性は高い。フランツは恐れつつ敬愛した先達ベートーベン葬式に参列した。仲間とカフェーに入り、一杯飲み干して言った;諸君と共にベートーベンを無事埋葬することができた。二杯目をのんでさらに言い足した;さて彼に続くのは誰だろうな? その時フランツはミュラーの`冬の旅`に取り組んでいた。その主題のひとつは死への招待だった。

翌年の1828年、デル・リンデンバウム歌曲の主題に従うように、フランツは11月に亡くなる。冬の旅発ちだ。21世紀、メモリアルな立派な墓は観光客に便宜良いウィーン市墓地公園にあるらしい。亡くなった当時の埋葬地は近くの教会墓地で、彼の墓石はLudwig van Beethoven (1770-1827)墓石と隣あって並んでいた。享年31才。

Der Lindenbaumを廻る日本/ドイツ/オーストリアの訳詞家/詩人/作曲家たちは31~35年を生きた。これらの年齢までに生涯仕事を成すと言う見本ではないか。やたら長生きするのは凡人たる一つの証やも知れぬ。

【補註】;
1. 19世期末即ち1890年代のボナパルト・ナポレオンの欧州制覇は11~12世紀遡るCharlemagne(シャルルマーニェ。独;Karl der Große)を彷彿させる。彼の9世紀半ばフランク王国とナポレオン19世紀末フランスの全盛期版図は重なると見て良い。小寸のボナパルトが、5世紀クロヴィスが起こしたメロヴィンゲン、7世紀末カルル・マルテルのカロリンゲンの2王朝を経てシャルル大王に至る言わば現EUと重なる帝国をわずか20年ほどで実現した。それは同時に、いくさに続く戦の時代。←いくさの無い時代が欧州にあったか?と問うならば、`書かずもがな`である。
ロシア史が言うところの`祖国戦争`に二つある。大を付けるのがドイツ第3帝国(ヒトラーのバルバロッサ作戦)に対する祖国戦争で、コルシカから出た英雄に対する戦争は只の祖国戦争かもしれない。ナポレオンは湯気を立てる出来たばかりの帝国内(伊/蘭/独/墺など)から駆り集めた50~60万大軍を持ってロシア征伐に出かけたのだ。しかし兵站が追い付かず、彼らは冬将軍に凍てつかされ、おおかたが故郷を再び見ることが無かった。へなちょこ皇帝・アレクサンダーが良き将軍と冬場の加勢を得て混成大軍を翻弄した。稀代の英雄にとって初の負け戦だった。
これに応じて、これまでヘイヘイかしこまっていた被占領諸国+ブリテン+スエーデンが六たび目の反乱を起こす。ミューラーの大学入学の頃である。反フランス連合軍と立直し/にわか仕立てフランス軍が小競り合いの勝ち負けを繰り返した。1813年10月両軍が、リンデの街・ライプツィヒで大激突。35万vs19万だから、多勢に無勢。準備万端の連合軍vs招集したての新兵フランス軍。ボナパルト閣下軍は壊滅に近い惨敗。逆にプロイセン≒ドイツ史は今も一連の対ナポレオン戦役を「解放戦争」と呼んでいる。ミューラー実家デッサウはライプツィッヒに近く、食糧/弾薬運びに協力したのだろうか…。

2、先項「オランダリンデとルイーゼ」参照

3.Heinrich Werner(1800‐1833)。das Grüne Herz (緑の心臓部)と呼ばれるテューリンゲン自由州の村Kirchohmfeld(キルッヒホムフェルト)で生まれる。シューベルトと同世代。エルフルトの音大で学ぶまで、兄と弟と共にクワイアー(教会)コーラスで才能をしめす。ゲーテ„Sah ein Knab’ein Röslein stehn“(小さなバラが立っているのを少年は見た。別名„Heidenröslein“=野バラ)詩に既に100を超える作曲があった。シューベルト作品が上述のように既に知られている。ハインリッヒは1829年コブレンツの`ブラウンシュヴァク歌曲祭`に於いて指揮者を果たし、自らの歌曲`野バラ`を初演。他の100余の作品を凌ぐ名声を得て、彼のメロディーは世界中で親しまれている。音楽教育者であリつつ、作曲家として生涯に百近い佳作を残す。

4.ミューラー冬の旅 五つ目リンデンバウム3節
Am Brunnen vor dem Tore Da steht ein Lindenbaum Ich trumt in seinem Schatten So manchen sen Traum
Ich schnitt in seine Rinde So manches liebe Wort Es zog in Freud und Leide 
|: Zu ihm mich immer fort :|

ich musst auch heute wandern Vorbei in tiefer Nacht Da hab ich noch im Dunkeln Die Augen zugemacht
Und seine Zweige rauschten Als riefen sie mir zu Komm her zu mir Geselle 
|: Hier findst du deine Ruh :|

Die kalten Winde bliesen Mir grad ins Angesicht Der Hut flog mir vom Kopfe Ich wendete mich nicht
Nun bin ich manche Stunde Entfernt von jenem Ort Und immer hr ich's rauschen Du fndest Ruhe dort
|: "Du fändest Ruhe dort :|

5.`門前`(vor dem Tore)が何故出てくる? オランダリンデ大木と清水を湛える泉が用意されている。この門は霊界(天国)への入口であろう。

6.`ここに幸あり`大津美子の持ち歌の題名と歌詞のオリジナルが朔風である。拝借した作詞家はたっぷり印税を稼いだ筈。才に恵まれれば稼げず早死する。凡人はそっと借用して、長生きする…(大津版作詞家がどうなのか知らない)


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白バラの女王 The White Queen [前篇]

The White Queenが18日に幕を閉じた。BBConeの日曜日22時から1時間、10回のエピソーデドラマだった。予算£25ミリオン(35~40億円ほど)、撮影日数120。これには地下牢/宮殿インテリア/要塞/城など250のセット、さらに12回の宮中晩餐会と2回の載冠式を含む。殆どはベルギーのブルッフェ(仏語;ブルージュ)で制作撮影されたので、全スタッフ滞在や戦闘シーンにおける多数の馬や人の調達、歴史的建築使用のコストが含まれる。35億円をやりくりする財務スタッフはフーフーしなければならない。それ故、前線駐屯地シーンにおける軍馬用干し草が微々たる貧しさだったりする。コステュームは視聴者を引き付ける重要ファクターだが、華麗なる王女ドレスのバックに中世に存在しない生地が使われたり、ジッパーらしき縫製が見えたり、お馴染み制作余話が生まれる。二つヴァージョンがあり、一つはBBC用の自国民/欧州版。もう一つはセックスシーンを上積みしたUS市場版。[補註1]

ユーラシア大陸を挟み、東端の日本列島と西端のブリテン諸島が向かい合っている。地理的かつ歴史的に、共通性と対照性を有する。紅白の花に限ってみると、東はウメ、西はバラになる。前者にウメ戦争は起こらなかった。後者にバラ戦争が起った。
Roses marks

10のエピソード中、所用のため数度を見逃している。結論を先に書く。NHKの大河時代劇幾つかをを30数年前に垣間見ただけだが、その記憶から`白い女王`物語は一見、NHK的大仰な仕掛けと言うか鳴り物入り番組に似ている。脚本はおおかたに受けるように、巧みに`イージー`に書かれているが、現代的な台詞やり取りがヴィヴィッドで面白い。

昔NHKの将軍臨席の会議場面;武将たち(役者)のたいそうな物言いと動作を思い出す。あれとブリテンコスティームドラマとの差は大きい。エドワードと家臣の会話は軽く、彼らの出陣風景はフットボール試合に出かけるかのような雰囲気。いずれも帯に短し、たすきに長し…。視聴率を稼がねばならぬから左様な塩梅になる。その意味で、白バラのクイーンは良くできている。原作は`赤い女王と王様作りの娘たち`を含む「従兄弟たちの戦争」シリーズの同名小説。作家はフィリッパ・グレゴリー(Philippa Gregory 58才)。

時代はプランタジネット朝15世紀後半。薔薇戦争のさわりである。イングランド王エドワード3世(1312-1377)が丈夫な成人まで育った息子たち(確か)5人も作り、彼等の末裔が互いに王冠をめざし、謀略/裏切り/親兄弟の抗争/殺人/戦いを繰り返す。ほぼ30年の期間だ。一族が配分された領地二つの町の家系名に分かれ、互いに叔父/叔母、従兄弟/従姉妹にも拘らず、生死をかけて入り乱れる。目的は王位を得ること。手短に言うなら、王冠争奪合戦に他ならない。(あゝ愚かなりや!)

日本の室町時代、応仁元年(1467年)から文明9年(1477年)まで続き、京都を燃え滓の廃墟にした応仁の乱とほぼ重なると考えて良いだろう。またはその前後30年である。将軍職・足利家の親兄弟・従兄弟が管領・細川と山名さらに親族諸勢力の思惑と複雑に絡み合い、将軍職を取り合うのが応仁の乱であろう。南朝と北朝のいさかいがその前哨戦にあり、将軍-守護職の治世システムが崩れていく過程の出来事…そして応仁の乱後の、血沸き肉躍る地方国家の時代、言い換えれば戦国の世を招く直前の30年である。

The rose war 02

1464年ヨーク家のエドワード(22)は従兄弟のリチャード・ネヴィル伯(38)(Richard Neville;1428–14718)の応援を得て、ランカスター家の王ヘンリー6世に挑んだ。勝ち戦を続ける途中、エリザベス・ウッドヴィル(27)に遭遇。ウッドヴィル家は熱心でないランカスタ-家を支持する中位の貴族。エリザベスの亭主ジョン・グレイ卿は3年前の2月に戦死。二人の息子と母親ジャックエッタと共に上がりの少ない領地で暮らしていた。ランカスター側の資産に乏しい子持ち未亡人で、王位争奪戦と殆ど無関係な女性に過ぎない。

エリザベスは、しかし、プランタジネット朝を二分する薔薇戦争の主役に躍り出る。なぜならエドワードが`重い`瞼の彼女に一目ぼれした。重いというのは、1枚きりの絵から分るように、極めて目立つ瞼の落ち込み(二重まぶた)を指す。ヨーク家の参謀且つ軍総司令官と言えるリチャード了承をえて、当時マーチ辺境伯肩書き持ちのエドワードとエリザベスは密かに結婚をする[補註2]。介添証人は彼女の母親だけだった。彼の惚れっぷりは突然の病死まで続いた…、と歴史(小説)家サラ・クリストウッドが力説して、さらに曰く;その時代 no,1と言う稀に見る美貌が5才下の若者を虜にしたのよ。[補註4]

エリザベスを演じるのはレベッカ・ファーガソン。スエーデンの女優で、母親がブリテンだから二言語使いの人。西と北ゲルマン言語グループだから、才能でも器用でも無く、普通に見られる複数語使い。だが演技も個性も光っている。あと二人の重要女優配役がある。エリザベスとずっと付かず離れず、薔薇戦争このさわり部分のランカスターサイド中心人物マーガレット・ビューフォート;1443–1509)。そして先述したリチャード・ネヴィルの次女で、ランカスターとヨークの間を父親の思惑で歩み、のちヨーク家とプランタジネット朝との最後の王になるリチャード3世コンソートとして女王冠をかぶるアン・ネヴィル

アマンダ・ヘイル(31)がビューフォートを演じる。スペイン・ハプスブルグ系と同じシャクリアゴと口元そして視線の動き、これらのコンビネーションが秀逸。この役者を観る価値ありダ。アンは小柄なフェイ・マルセイ(27)が演じる。彼女はひょっとするとこの役で弾みがつくかもしれない。脚本は、エリザベスと対照させてアンをかなりの悪女に仕立てている。憎まれ役をきりっとした顔つきで堂々と演じている。

The rose war 03


ウォーウィック16代伯リチャードは戦死するまでの短期間、ヨークからランカスターに乗り換えた。従兄弟エドワード外交に同調できなかったのだ。足利将軍職の取りごっこも全く同じ寝返り/出戻り/再裏切り…が繰り返し起こっている。10年前エドワードとリチャードの二人の父親はランカスター軍に敗北、いずれも戦死。翌1461年3月、息子たちは逃げ延びたフランスから再上陸、バラ戦争最大戦死数(2万8千)を記録するタートン戦役にて勝利。

以降9年間のヨーク朝が続く。若きエドワードはこの間に年上女房エリザベスを見初め秘密結婚をする。リチャードはその結婚や治世に納得せず、ランカスター側ヘンリー6世/アンジョーのマーガレットの後援者になる。結果的にヘンリー半年の王位だったが、リチャードはこれゆえに`Warwick the Kingmaker`字名で薔薇戦争史に名をとどめている。歴史に王を作る人は一杯いるので固有貴族名がついている。

彼の長女イザベラはエドワードの弟ジョージと結婚、次女アンは初めヘンリー6世とアンジョーのマーガレット夫婦の世継ぎ(これもエドワード)と結婚。1470年10月、ヘンリーとキングメーカー連合軍に追われ再び大陸(ブルゴーニュ公の庇護)に逃げたエリザベス旦那が翌年4月バーネットにて、5月テュークスベリーにて、キャンペーンを開始。初め小勢から徐々に裸足の兵を集め、以前のヨーク家支持貴族勢力も集めた。バーネットでヘンリー世継ぎ12才エドワードが戦死。5月にキングメーカー・リチャードも有力ランカスター貴族等と共に戦死した。

世継ぎの妻だったアンはしばらく捕らわれた後、姉イザベラ旦那で王の弟・クラーレンス伯の預かりになる。クラーレンスはキングメーカーと共にヘンリー6世側だったが、義父を離れヨーク家つまり兄エドワードと弟リチャード側に戻っていたのだ。身柄あずかりのアンは従って姉イザベラと共に暮らし、事実上ヨーク宮廷を彩る女性の一人と言うこと。父を失った彼女たちはその豊かな所領を継承し裕福な貴族姉妹であった。

1471年は文明3年、足利義政(1449年-1473年)の肩入れによる東軍が優勢になった年である。将軍/管領/守護が絡みもつれ、正室・日野富子がボンボン旦那の代りに息子・義尚の将軍擁立に暗躍しつつある年。諸国の武将たちは東軍・細川勝元か西軍・山名宗全に組みし、視界不明な複雑な政治と戦争情勢だったと思われる。

義政をエドワード4世に比較することは出来ない。なぜなら1471年以降、イングランドは平和になるのである。十年余の国内の落ち着き。宿敵スコットランド/ルイ11世フランスに対する外交攻勢をとれる言わば`余裕`が生まれるのである。ランカスター陣営の弱体化は、辛抱つよいマーガレット・ビューフォートがエリザベス・ウッドヴィル宮廷に入る状況を促すのである。

マーガレットはlady-in-waitingと言われるが、彼女の任務は子供たちの養育である。付き人は普通、女王の世話をする女官で、高位な貴族の配偶者や未亡人である。かつて若きエリザベス・ウッドヴィルもランカスター朝の女王アンジョーのマーガレットの付き人チームの一人だった。後の16世紀前半ヘンリー8世の入れ替わり立ち代りした妻たちの殆どは先代女王のlady-in-waitingである。ヘンリー8世の場合、普段みる若い女性に惚れた(チョッカイだした)に過ぎない面がある。

エリザベスはエドワードとの3人目の子を、先年1470年に産んだ。それが世継・将来のエドワード5世になる。十名の子を産み、先夫との2名を加え、合計12名の母親である。筆頭女官マーガレットの一人男子だけは従って例外になる。エリザベスとマーガレット、二人の成熟女性は政治志向をちがえても人間的な関係を築いたと思われる。それはイングランド王家がプンタジネットからチューダーに切り替わる時、判明することになる。

The White queen 051

翌1472年アンはヨーク家3男リチャードと再婚。ヨーク三兄弟とネヴィル姉妹、女王であるエリザベスとマーガレットの渦を巻く宮廷生活が続く。4年後、ジョージの妻イザベラが産後に亡くなる。 衛生管理が不十分な中世に珍しくないが、夫クラーレンス伯ジョージは毒殺と主張。彼は兄への反逆心と弟への懐疑心に悩み、精神不安定による粗暴な行為が目立つようになる。

ジョージは王によって僧院そしてロンドン塔に幽閉され、反逆罪の有罪判決を受ける。ドラマはアンの謀略を匂わせる。エドワード跡目狙いの次男を除くこと。それはリチャード載冠とアン自身の女王への野望だ。ジョージはマルヴァジアと言うイタリア・ブレンドワイン樽に頭を押し込まれ溺死させられる。こうした場面は見せ場である。歴史上めずらしい出来事だから、丁寧に細工して撮りあげている。演ずる役者の性根と言うべきか。

ある史家によると、リンチのような扱いだったらしい。兄王の指示でなく、弟リチャード配下が動いたらしい。しかし適格資料に乏しく事実は不明。なお脚本はアンに次のように語らせる。「夫の弟たちへの懐疑心を常に持つエリザベスの謀りごとに決まっている」。エリザベスは確かに、夫の弟たちを決して信用せず、彼女自身の高官位にある兄弟と息子たちに動静を探らせている。宮廷内紛の情報合戦だ。

The white Queen 05

マーガレット・ビューフォート(1443-1509)は何者だろう。サマーセット侯ジョン・ビューフォトの娘として1443年に生まれる。ビューフォートはフランス・シャンパーニュ地方の土地名。エドワード3世の息子たちの、成人に達した3人目ジョン・ガウント(John of Gaunt 1344-1399)所領地だった[補註3]。ジョンのタイトルは第一代ランカスター侯爵。ここからランカスター家系が誕生。ヨーク家はジョンの末弟エドムントから出る。ジョン3人目の妻との同名息子ジョンが母親仏蘭西領地ビューフォート姓を名乗ったのである。マーガレットは傍系とは言え、もしも直系が絶える場合の受け皿になり得る。そう言う意味で由緒正しきランカスター末裔になる。

1455年の12才の時、病弱ヘンリー6世の意志で、24才のエドムント・チューダーと結婚。エドムントはヘンリーの異父兄弟。ヘンリー5世没後、未亡人・仏蘭西ヴァロア家から嫁いできたキャサリンはオーエン・チュダーと再婚。その息子がエドである。まさしくバラ戦争の幕が落とされ、翌年の戦役でエドはヨーク側にとらわれ監獄にぶち込まれ病死に至る。マーガレットは懐妊7カ月目、13才の未亡人になった。

お産が大変だったらしい。当時の初妊娠は16才前後と思われ、12才は現在と違い肉体的に困難と予想される。男子が生まれた。やや遠いとはいえ、王位継承権を主張できる男子である。仲介役のヘンリー6世名をもらう。それはランカスター家の王の名。彼女は計4回結婚するが、初お産の苦渋体験から2度と子供を作らず、ヘンリーが唯一である。安全を計り、7~8才息子をフランス・ビューフォートゆかりに預ける。将来を見通した彼女の明晰…。以後`元服`年齢まで手紙と数度の逢瀬で接触を保つことになる。

マーガレットの宗教心と一途なランカスター家再興の夢が息子ヘンリーに託されている。ランカスターリアンは紅いバラ紋章を用いている。対するヨーキストは白いバラ。ドラマ題名`白い女王`たるエリザベスは、ヨーキストの女王であるから。出身はランカスター真紅のバラ花紋で、この混じり合いが激しく渦巻く政争の流れに揉まれながら、一つの編み物に織りなされていく。

[The White Queen 後篇に続く]

【補註】
1.さあ日本へはどちらが? 日本のTV放映であるから、カットされた上品なシリーズになるような気がするが…。かつて大嶋渚監督「L'Empire des sens (愛のコリーダ)In the Realm of the Sense」が日本国内で話題を集めた。愛欲の徹底的描写すなわちセックス写実手法のため、エログロ映画と見なす批判が出た。実際の映画館興行がどうなったのか私は知らない。欧州でノーカットで名作映画としてTV放映され、何故か私は独版と白版の2回観た。キチゾウの男根を口にくわえ激しく動くサダと、くわえられながらタバコを吸うキチゾウとのロングショットは当時の欧州でも特異だったようだ。主役Rebecca Furgusonなど女優人はサダを演じた松田英子のように実際の性行為をするわけでないが、殆どそれに近い状態の迫真演技をしている。茶の間に入るTVフィルムのこうした傾向はドンドン`自由化`している。やや異なるが、赤子誕生シーンでは殆ど生まれたばかりの赤子を準備手配して、撮影はそのタイミングに合わせ行われるようだ。なお大嶋渚は今年1月半ば永眠している。晩年に痴呆症を患った彼を妻・小山明子が介護し尽くしたDocが添えられていた。合掌。
 
2.この秘密結婚を、弟リチャードが載冠する時の必要手続きに利用している。兄とエリザベスの結婚を無効にすると、その子息は庶子になり、その王位継承権は発生しない。権力者は偽文書/偽証人などいかようにもでっち上げ、議会の承認を得る。建前と言うか、約束≒契約の形を整えることがキリスト教社会の最重要事。謀略でも嘘でも、議会/枢密員に結婚無効を承認させること。しかしこの無効宣言はヘンリー7世が元に戻している。時の絶対者の思惑と政治判断たる代物である。

3.BBCone日曜日放映の後に、ばら戦争に関するほんとの歴史と題するやはり1時間番組が続いた。オックスフォードやケンブリッジの歴史学研、さらに歴史小説家、計8名ほどが其々の意見をのべて、興味をそそられた。こういう分野に女性研究者が多いのは、王位の妻(Queen consort of England/Scots/Irelandのように記述される)と王位その人エリザベス1世やヴィクトリア女王との絡みではないか。男性研究者に分らぬ部分を探れる…そんな気がする。

4.Gauntは現在ベルギー・フラーデレンの古都Ghend(Gendフェント)生まれ。母親フィリッパの里で、誕生時に父親不在だったために、低い土地(ベルギー)の屠殺家の息子と揶揄される。GauntはGhendの英語化。長兄エドワードが皇太子職で亡くなり、その息子リチャード10才の1377年、エドワード3世が没す。息子はリチャード2世として載冠。幼少のため叔父ガウントが摂政(Regency)を務める。1399年嫡子無くリチャード死後に王位についたヘンリー4世はガウントの息子。本来なら継承権1位のガウント自身が王位につくが、同じ年59才で亡くなったために息子が載冠した分け。ランカスターの主流はヘンリー4/5/6世と続き、一方ガウント妾で3人目妻(シャンパーニュのビューフォート貴族出身)の流れにマーガレット・ビューフォートが位置する。あくの強い個性的人物だったらしく、彼の4代後の玄孫(ゲンソン)がチューダー朝を開く。ガウントはキング・オブ・イングランド史に於いて欠かせぬ面白いポジションを受け持つ。
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ボダイジュは仏教 リンデはキリスト教、 Bodhi ≠ Linde [そのⅡ]

ボダイジュ;ブルガリアsofiaの温室コレクションと思われる

Buddha campaign 04

BodhiまたはBhodhiは紀元前536年に生まれたとされるSiddhartha Gautama (後Gautama Buddha=釈迦)の別名であるらしい。何故別名か? बोधि=Bodhiは釈迦が、樹木の下で得た悟りを意味する。知・覚・道など難しい理屈に溢れる。それらは私にチンプンカンプン。とまれ、その音を漢訳したのが菩提。

Buddhaが苗字か名前か知らない。その漢字当て字が仏陀。Bodhi(菩提)を核思想にする宗教を、従って漢字で`仏教`、ローマ字英語でBuddhismと言う。Bodhiは心なり。心はBodhiなり。即ちBodhi=体=Bodyである。手短に書くと、BuddhaとBodhiは一体概念なのだ。

その一体概念が、「そのⅠ」で触れたBodhisena和尚、つまり奈良に入朝した僊那導師についている。僊那はやはり仏教的意味を持つ個人実体名と思われる[補註1]。ゴータマと同じ熱帯インドの人だから、彼の命名は言わずもがな了解されよう。
Buddha campaign 03

菩提=Bodhiを釈迦に産み出さしめた環境の重要ファクターは樹である。熱帯の激しい光線を遮り、風雨からも釈迦を守ったであろう。当時の呼び名は忘れられ、こうしてその樹木名ローマ字綴はBodhiになる。これに諸語の`木`を組み合わせると、アルファベット語圏の一般名として通じる。例→Árbol de Bodhi (西)、Bodhiboom (蘭)、Bodhi-treet (ノルウエイ)、Strom bódhi (チェコ)、Bodhi tree (英)。

熱帯のこの樹木はリンネの二名方分類で Ficus religiosaと記述される。Ficusはイチジクのような果実を作る仲間(属)で、700近い種(シュ)を含む。その大変な数の一つreligiosaと言う樹木がBodhi-treeである。リンネは種名にはっきりと宗教≒仏教を示している。その思想Bodhi即ち菩提の樹だと特定しているのである。彼が命名した無数の生物名にこんな明快さはあまりないように私には思われる。

Linden serie 03 klein 

ボディーの木はボダイジュ=菩提樹。それはFicus religiosa。疑いの余地は無い。面白いことに、この菩提樹が日本でシナノキの木として呼ばれていること。

日本中の寺に植わるシナノキ殆どは支那から導入されたシナノキ種の末裔である。「そのⅠ」に於いてボディセナ和尚が種子を持ってきたと言う想像を述べた。温帯域の支那に本物の熱帯イチジク属Bodhi-treeは自生しない。従って代りの樹が必要だった、釈迦没後の紀元前、BuddhaのBodhi思想を布教するために。

葉っぱ形状がやや似ているシナノキの一つ種に白羽が立てられた。ニセアカシアと言う該当樹木に失礼な和名がある。それに習うならば、ニセボダイジュを支那仏教人は言わば`でっち上げ``た。それをそのまま為政者≒教養人の漢学素養優先社会が受け継いだ。聖武天皇の奈良時代、本物ボダイジュと偽ボダイジュを観察して熟知しているのは`ボダイセナ`導師だけである[補註2]。

分類と言うのは信仰と関わらぬ営為だ。リンネによる熱帯樹ボダイジュが温帯樹シナノキに化けようが、Bodhiたる思想の核心に微塵の汚れも落とさない。寺の境内に入るならば、心の精神世界に入るならば、外的事象は無価値と思われる。大仏の開眼供養・聖なる行事に於いて、リーダー/説教師に選ばれたボダイセナ導師が始めたシナノキ``信仰``はこうして仏教国家・日本人DNAに刷り込まれ脈々と生き続けてきた。

12世紀に渡る期間にじっくり刷り込まれた精神世界`DNA`が簡単に消える筈はない。それは個人の内なる情念に属するように思える。一方で、寺の境内の外側に立つならば、言い替えると科学的DNA診断を認める立場ならば、ボダイジュと言う一般名をシナノキに用いることは出来ない。生物を科学的に整理して理解することは、寺の境内に入らない誰にも共通する普遍的な作業だろう。下に欧州三つシナノキ種を並べてみる。言うまでもなく熱帯のボダイジュでない。同僚である例えば日本のシナノキでもヘラノキでもない。

Zomer Hollande Wintel
ここから3種間の違いと紛らわしさについて多く読みとれる。ナツ葉裏の脈パターンの目鼻立ちが目立って綺麗。これはナツ見分けのポイント。しかし丈夫な葉厚と寸法、さらに脈駅の毛色は典型的記述と異なる。オランダの果実数は右隣りフユのように10個以上もあるが、3-5個貧しい実付きもある。葉は頑丈から薄いものまで質感のばらつきがある。脈腋の茶色毛とペラペラ質感によって、ナツの血混じりが感じられるハイブリッドは多い。フユは明らかに4㎝までの小葉ぞろいだと断定できる。しかい小さな葉に偏るナツと大きめの葉を持つフユとがあり、それにそっくりな葉表情が加わると迷わなければならない。すると判断は果実期まで延期されよう。

三つは欧州自生種である。右と左が交わり、真ん中が生れた。右にも左にも様々な微妙な遺伝子差を持つ個体があり得る。従って真ん中の子供もそれぞれの組み合わせにより、独自の交雑個体として存在する。数世代に渡る古い圃場(苗木生産業者/園芸栽培業者)の場合、はしばしば独自の形質を持つナツ/フユ/オランダリンデを供給している。著しい形質を得たリンデならば種名の後にformaのf.を付けて園芸品種であることを明らかにしている。

戦後ポツリポツリ日本に珍しい欧州シナノキとして、これら3種が紹介されてきたようだ。異なる環境でどう育っているのか興味深い。学術研究目的と植物園コレクションのいずれにせよ、それなりの由緒ある業者の生産苗が送られていると考えられる。それらは欧州植物図鑑に記述される典型的な形質を持っていると想像される。しかし実際は年月を経て、果実が成り、葉っぱだけでない花の作りや果実の堅さ、花期のずれ日数などの総合的判断がのぞましいだろう。

何故ならフユとナツに間のハイブリッドは三角関係のグレイゾーンに位置するからである。幾つかの日本自生シナノキ同士がそうした複雑な状況にあるかどうか、私は知らない。日本のコナラ節(ドングリの木たち)の互いのDNA浸潤について聞き及んでいる。グレイゾーンは公園/植物園の世話の行き届く(園芸)植栽環境にあまり見られないだろう。それは山野の荒々しい、と言うか放ったらかし状態で主に生じる現象。上の三種参照画像は、ややコナラ節の入り交りに似ているような印象を受ける。*[個人的観察による三者間の詳細はほか比較画像と共に「そのⅢ」に記述]

冬リンデ;雄蕊トップ紫っぽい葯の消失、長く細い蕊が平らに変成する現象(スタミノーデ)。多くの雄蕊は何となく5本ずつのグループに見えないこともない。本画像で明らかでないが、我が観察からそのように感じられる。5本グループの1枚が外側の花弁から信号を受けてメタモルフォーゼを行う? これは日本のシナノキと支那のミクエル種に顕著に観察される。スタミノーデは草本のランで知られ、欧州リンデ3種に於いて戦前からの知見であるようだ。この情報は20世紀末に日本研究者に伝わったと推測される。しかし実物個体研究を行う機会が少なく、人もいなかったと思われる。情報源に「欧州3種にメタモルフォーゼ無し」があったらしく、現在この「無し」説が受け入れられている。運に恵まれると、在るか無しかの微かな花弁(シイナといえるような)が見いだされる。2年前に同行仲間とリンデ廻りをして、焦点の定まらぬ沢山の画像中からでオヤッと疑問を抱いた物体。これ以外にオランダリンデのディジタル証拠を我がファイルから見つけている。ナツにも変成花弁出現を予測している。しかし丈夫で粗野なナツリンデに遭遇する機会が少なく、実際に出会うのは神の導きが必要…。変成物体に関する細部は、ボダイジュと呼んでならない真正な理由になろう。

Tilia cordata Staminodia 01

三種比較画像の真ん中がオランニェ皇女ルイーゼによるリンデンバウムである。フランツ・シューベルトの冬の旅5つ目のメロディーもこのハイブリッドを歌っていると見なして良い。この三種が何たるかを全く知らない人々/出版社が、ナツ/フユにボダイジュを付けている。ユーラシア大陸の両端に自生する両者と言う遠い距離的比喩に於いても、花弁化生成の熟度に於いても、例えばコナラ節のような一括りに出来ない関係にあるにも拘らず…。

彼らはお寺さん境内の中にいて、背後の森を見られない。見たくないのだろうか?ボダイジュをシナノキとする12世紀に及ぶ刷り込みに侵されている。潮時とせんに書いた。そう、潮が静かに引くように、12世紀間、名前を借り世話になった礼を尽くし、ボダイジュ名をクワ科熱帯樹ボダイジュに返却しよう。

日本ホンゾウ学の父・貝原益軒は欧州三つのシナノキも熱帯ボディーの木も知らなかった。84才に没するまで実証的観察に務めた貝原がこれらを見たならば、直ぐに儒者の礼儀と冷徹さで持って、ボダイジュ名をインド本家に送り返すだろう。長い史的文献と言い伝えに甘んじ世間に迎合する図鑑著者達、そしてそれを鵜呑みする植物園諸氏にウェクアップ・コールを送りたい。目覚めよ、ご老人たち。長いものに巻かれるな!`若年寄`たち!

【補注】;
1. sena/sennaもアルファベットに音写された梵語である。これが西のペルシャ/アラビア/エジプトなどを経てローマ(ラテン語)に伝わったのかもしれない。これが古来から広く栽培されたマメ科センナと無関係ではあるまい。言葉の由来は様々な要素がからんでいる。一つの由来と言う意味だ。宗教の教えと薬用植物は関わり深い。セナ/センナ姓が例えば地中海近辺(ポルトガル/スペイン→アルゼンティン/ブラジル)に多い。彼ら先祖が栽培農民であったのだろう。

2.高僧で立派な知識人である筈の人物。左様な人物は多くの万物心象/現象を見極める。

【そのⅢに続く】




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 ボダイジュはシナノキ属にあらず Bodhi ≠ Linde [その1] 

Buddha campaign 01

बोधिसेन / Bodhisena / 菩提僊那/ ぼだいせんな、順に梵語(サンンスクリット)/アルファベット/支那の漢字/仮名。ローマ字と漢字は元の音を移したもの。その漢字の音読みが仮名。1969年版新世紀大辞典に、704年インドに生まれ、支那で勤め、736年遣唐使船で来日、東大寺四聖の一人…とある。

この人物が日本の寺に植えられている`菩提`の木を支那から携えて来た、と言う観念に私は駆られる。名前か苗字か不明だが、彼の姓名の前二つは`菩提`だから…。鎌倉期まで待たずとも、8世紀半ばの平城京に菩提の木がもたらせているのであれば、間の平安京の文献に出てくるだろう。

しかし紫式部と清少納言などの目に留まらなかったのは、支那自生種の木が近畿地方の気候土壌に馴化する期間だったのかもしれない。初めから種子または挿し木からの成育が上手に行くとは限らない。一人前の高木として、あるいは黄色花で樹木を彩るまで、3世紀ほどの時間を要したと考えてみるのだ。

一般に欧州3種の花期(夏≒7月前後)に、樹木全体にたわわに花が咲くのは半世紀を要する。それは数世紀に渡る先人の観察結果である。渡来種が自生地の樹高に達したり、それを凌駕する例は少ない。たいてい自生地よりも低く留まる。支那自生のシナノキの潜伏期間が長かった…と想像してみるのだ。栄西が支那から帰国した鎌倉期に、ようやくそのシナノキが寺院に立派にお目見えしたのではないだろうか。近世になって極東の木々を`欧州に馴化`する期間に比べると、植木/園芸術ノウハウのない時代だから倍も2倍も時間がかかったと言う仮説である。

             グーグルマップ;A点が釈迦悟りの地・ビハル州のボダガヤ。+-で大小サイズ、矢印で方向移動。

View Larger Map

漢学素養が治世者または知識人に欠かせぬのは仏教伝来以来の常識である。ほぼ15世紀に渡るこの素養が、フローラ呼び名の上で`嘘っぱち`を支えてきた。菩と提の二つからなる熟語は既に支那に於いて馴染まれ普及していた筈である。それ故、Bodhisenaが種子を携えて来たかも知れない支那シナノキ種を彼と彼の日本人同僚たちは`菩提樹`と認識して広めたのは当然である。

グーグルマップをご覧いただきたい。Aが釈迦即ちゴータマ・ブッダの悟りポイントである。三角形インド大陸の北東、ヒマラヤ山脈南のやや平らな部分。王国の王子が生存していた時、その人里離れた場所とそこに茂る樹木とは今と異なる呼び名だっただろう。王子35才にして知覚=悟りを得たゆえに、後にその場所はBudagayaそして樹木はBodhiの木と呼ばれる。

マップ上を左に移動すると首都ニューデリーが出てくる。インドに関するサテライトTVでたいてい出てくる首都の熱暑ぶりは万人知る所なり。ガンジス河原で洗濯人たちが洗ったばかり長い布を両端からピント引っ張りしばらく立っていた。5分くらいで左右の二人は乾いた布を折りたたみ、次の布を引っ張り再び乾燥作業にかかる。

太陽の恐るべき(乾燥)力は熱帯ゆえである。熱帯インドの樹木と温帯ゾーンのそれとはまったく異なることがこれから想像できる。上マップを東にそのまま進むと東南アジア地域が見える。例えばカンボジアやヴェトナムにブッダガヤに育つボディーの木に近い仲間が植生していると思われる。しかし南北に長いヴェトナムを北上すると、温帯域に入る。そこは支那である。支那にBodhiの木はもはや存在しない。

Bodhiは梵語(サンスクリット)の音をアルファベット化したもの。おなじように漢字へ音写すると「菩提」になったらしい。やや詳しく後述するが、ボディーの木とは`菩提の木`、即ちボダイジュである。一番目の画像上と、下の上半分の画像の葉っぱをもつ。一カ所から幾本かの長い葉柄をだし、それぞれの葉身にチョボ髭のような先端がぶら下がっている。葉柄が出るヶ所に果実(と思われる)が付いている。
Buddha campaign 02
下画像半分;欧州中に植栽されるリンデ。何処にでも見られるから標準リンデと言っていい。葉柄途中に葉柄自身が変化したヘラ形が付き、その中心から花/果柄を伸ばし、さらに数本に分かれ、それら先っぽに花/果実を付ける。フユリンデ10-5個、ナツリンデ6個以下、オランダリンデ3個から10個を超えたり気儘。

この二つの画像通り、文字説明の通り、菩提樹はクワ科イチジク属で、リンデはアオイ科シナノキ属である。分類の父リンネ以来、また東京帝大理学部で日本分類研究が緒に付いて以来、変わらぬ事実である。分類専門家だけでなく、生物フローラを学ぶ人々の常識。両者は縁もゆかりもない異なる二つの植物である。

一生を国公立大学演習林で研究生活をされた方、あるいは方言や古文献から植物名を研究される方、左様な人々が謙虚に「シナノキをボダイジュと呼ぶ」間違いを指摘され「正すべきだ」と主張されている。知る人は知り、心ある関係者や愛好家は習慣的接尾語のようなボダイジュ使用を憂えている。分厚い図鑑の先生方からウィクペディア投稿諸氏まで、長いものにまかれ、寄らば大樹の陰を生きざまにする人々があまりにも多い所為だろうか…。

【観察したディジタル画像を付し、その2/3/4あたりまで予定。飽きずに追ってくださると幸】




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ken minatoya

Author:ken minatoya
Victor Westhoff(1916-2001)碑文Hij observeertからのHNを本名と苗字に先立つ屋号に変更。ウエストホフは生物フローラの相互生息環境を丹念に観察したBiotop概念の先駆者。ザザーッとフィールドを歩きつつ、こぼれ見える外史/雑人/雑草の風景

日本語→英語自動翻訳【星条旗】
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