ライン・ワール・マースの狭間から、草の如し徒然の観察八景。 政ごと/商いごと/言の葉ごと/遊びごと。

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Nature 雑草 フローラ/ファウナ

ヤグルマソウと 赤白青の三色旗の由来 [ルイーズ序編]

日時2011-11-17:10-39-45-90 開閉速度1/320sec 露出F/14  焦点距離190mm
主な撮影データ、でもほんの一部で、他はよく分からない。45秒の後の単位があるのでしょうか?

      朝のヤグルマギク
セッシ5度の11月に何故さく? キク科であるから、深い秋に白い霜を恐れずに咲くキク属を見習った? 夏に沢山出来た種子が煉瓦と歩道の間に落ちた。そのひとつが何か勘違いして発芽して茎を伸ばし花を咲かせた…。この一本だけだから、よほど変わり者の個体に違いない。

上のデータ通り今朝午前10時半すぎに撮影。庭レンガの歩道側、数日開花していたようだ。伏しているのは幼い子供たちが触れたのかもしれない。昨夕気づいた。Korenveldと言う語彙つきでヴィンセント・ファン・ゴッホが相当数の習作を残している。穀物を刈る人や種撒きする人と共に描いたのはフランソワ・ミレーからの啓発である。彼はもちろんkoren畑に混じるこの花を見ている筈。

コーレンにライ麦や小麦、カラス麦など穀物類、トウモロコシも入る。ソバの花をコーレンの花と共に見るから、ソバもコーレン仲間に入るかもしれない。この植物は穀物畑の先導者のような顔をして現れるから、素直な良い呼び名と思う。和名を調べるとキク科のキクを採り、矢車と組み合わせている。日本自生の草花でなく、帰化しているらしい。

明治時代頃あるいはそれ以前、東インド組合会社の帆船積荷に詰め込まれた干し草に混ざって出島に上陸したのかもしれない。主食の米は水田育ちの穀物・イネだから、そこにヤグルマギクは出てこない。帰化種はどんなビオトープ/植相を形成するのだろう。やはり我が村と同じ小麦や大麦畑だと想像してみる。ところがそんな畑を不覚にも日本で見た記憶がないのです。知らないと言うか、知らなかったことが多すぎて寒心します。

独蘭は殆ど同じ綴り、英もコーンフラワーで昔は6~8月の普段の花だ。園芸に取り込まれたのを除くと、野生種の花はコーレン色と言われる青である。夏日を受けて勝手に畑にはえるこの植物は穀物栽培の純化と言うか、合理的生産性のために徐々に姿を消している。近年、青花自生種は要注意(絶滅)種に指定されている。

      Louise Mecklemburg  Kornblume二つ画像 矢車菊 02

私の村はド田舎だから、畑の中にもそれに沿う地道にも出てくる。右の画像に並んでいるのはヒナゲシで、ヤグルマギクとヒナゲシの組合わせがもっとも観察される。白い雲を背景に赤と青が揃うと三色旗になる。畑作を始めた頃からの夏の風物詩でしょうね。これから仏蘭などの標準三色旗が作られ、後から民主的な国民国家の有名な意味を付与したと言うのが我流説。人のイメージの源泉はあまねく自然にある/あった…。

東海/フィンランド湾に面するエストニアは20年前、再び独立国家として蘇り、勝れた国家経営をしつつ、スポーツにも精を出す。[参照10月23日:賞金稼ぎスポーツ  小春日のテニスライブ戦…] この国にヤグルマギクが綺麗に咲くのです。洒落た貸しコテージの観光パンフレットに咲き乱れる青い花が証拠…。バルト三つの国でもっとも小面積かつ小人口のミニミニ国家がまだ共産ロシア=ソヴェエト連邦にいやおう属さされていた1960年代、ヤグルマギクを連邦内共和国の花として選んでいるのです。

11月だから他雑草も小さく身を潜めている。葉っぱに毛の目立つ草も出島から列島全域を制覇したオランダミミナグサだと思います。春夏に条件よければ20センチ高、可愛い白い先割れ五弁花を咲かせます。
      Louise Mecklemburg  Kornblume 矢車菊

首都タリニンからリガ湾沿いに南下、ラトビアとリトアニアを通過して6~700キロm行くと、カリーニングラードです。かつて12~13世紀頃パレスティナあたりから移住してきたチュートン騎士団の砦だった古都。東海(=バルト海)を挟む向かいはスエーデンで、このあたりは向こうの北欧民族とこちらの大陸民族がぶつかり揉める場所。土地の争奪の結果、名前が何度変わろうが、ヤグルマギクは常に咲き、ここから北海に回り込んだり、そのまま大陸仲間とつながっていた筈。

現在のカリーニングラードはロシアから切り離された飛び地の首都。18~19世紀のフランス/プロイセンとの取引のせいもあり、ここだけをロシアはポーランドに譲れなかった。19世紀始め地図上のKonigsbergを読み取れるでしょうか。カリーニングラードの前名で、ウムラウト付きoによってドイツの王様の町だったことが分かります。東隣Tilsit(ティルジット:旧独名、現在ロシア名Svetsk)が見えるでしょう。この地方は大きい字のEast Prussiaとあるように東プロイセンと呼ばれた。

      Duchy_of_Warsaw_and_Republic_of_Danzig Closeup

東プロイセンと左上ポメラニア、それに左下(カケテミエナイガ)シレジアとがワルシャワ公国を取り囲んでいる。シレジアの西はブランデンブルグ。これ以前分割されていたポーランドが蘇ったばかりの状態で、もとはプロイセン支配地だった(と思う)。プロイセンが何度もスエーデンやロシアと組み、対ナポレオン同盟を画策。その最後的戦役JenaとAuerstedtに完敗した結果、産まれた地図[参照8月19日:ナポレオン・ボナパルトとヒラリー・クリントン他]

新地図を定める条約はネマン川の流れるティルジットで締結された。フリードリッヒ・ウィリヘルム三世は夢にも戦いにも破れ、ベルリンからケーニッヒブルグまで逃れる。ロシア皇帝(アレクサンドル1世)の助けを借り巻き返し戦を試みたものの劣勢にして講和せざるを得なくなった。皇帝ボナパルトは1807年7月初旬、旗下の元帥/将軍を伴いティルジットに到着。

プロイセン領縮小と賠償額決定の条約会議にFウィリヘルム三世は参列できず建物の外でロシア将校たちと雑談しながら待たざるを得なかった。彼の代わりに会議場に入った女性がいる。それは惨めな旦那を助けるべく、ウィリヘルムの上さん(31才)だった。プロイセンの窮状を訴え、過酷な制裁を回避するために、既に数通の請願直訴状を書き、皇帝(ジョセフィーヌだった?)上さんの助け舟をもらったり、必死で動き、ついに直接面談がかなった。

ルイーズ・フォン・メックレンブルグ・ストレーリッツが彼女の独身時代の皇女名。妻を案じ待ちきれなかった夫が会議室に許され入室してこなければ、ナポレオンは罰則を軽減したであろうと後日漏らしたそうな。ルイーズの訴えを聞く時間が短すぎたと言う…。ナポレオンによるしかるべき欧州再編事業だから、それは時間が長くとも起こりえなかった。彼女の熱意に深く打たれ、同情を禁じえなかった言葉だろう。

程なく病でなくなったルイーズのひたむきな祖国愛はプロイセン人の心を動かし、次男時代の統一ドイツ後も、愛くるしい瞳と人柄を人々は長く忘れることはなかった。娘時代から歌や自然を好み、とりわけ夏のメックレンブルグ草原を青色に染めるヤグルマギクを愛した。200年経った現在、ドイツ連邦の一つの国花はルイーズその人のKornblume/コルンブルーメである。
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ken minatoya

Author:ken minatoya
Victor Westhoff(1916-2001)碑文Hij observeertからのHNを本名と苗字に先立つ屋号に変更。ウエストホフは生物フローラの相互生息環境を丹念に観察したBiotop概念の先駆者。ザザーッとフィールドを歩きつつ、こぼれ見える外史/雑人/雑草の風景

日本語→英語自動翻訳【星条旗】
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