ライン・ワール・マースの狭間から、草の如し徒然の観察八景。 政ごと/商いごと/言の葉ごと/遊びごと。

Art 絵画/ 建築

肖像画に裏切られる? [ルイーズ 後編]


Luiseの仮名としてルイーズと書きましたね。知り合いの連れをどちらかと言うと、ルイーゼと呼びます。日本人の舌と耳には好みでどちらでも良い…。Louis / Louise / Lowie / Luis / Loes / Lewis / Wieke / Wiet / Ludwig …民族/地域による無数の男女を問わない変化形がある。ルイと言うフランス国王は18名もいる。Luise綴りはドイツ女性形標準で、皇女だけで数百になるでしょう。

13世紀十字軍で二度遠征して、一度捉えられた騎士で、ソルボンヌ大学を創立したルイ9世が知られる。カペー朝第5代でフランスで聖人に祭られている。USの女性形と思われるLouisiana州はルイ14世から採られている。太陽王ルイにあやかって、"類”を用いる日本男子名もある。ジョージ→譲二/譲治の如し。こうした`たぐい`の当て字漢字名は安土桃山時代のポルトガル宣教師の入れ知恵から始まった…。

少し回り道します。この譲二はドイツ人由来でしょう。スチュアート朝アンの世継ぎ無く、新教で最も近い継承権を持つハノーヴァー公国のゲオルグ王が海峡を越えて赴任した。王二つの兼任ですが、公国と連合王国とでは格が違う。ゲオルグは出世したわけです。英語からっきし喋れない人がジョージ1世としてハノーヴァー朝を開き、ブリテン・アングリカン君主体制を安心さしめたわけ。彼は`ボヘミア女王`エリザベスの直系ですから、その血が1世紀後に先祖の地に帰ったことになる。

皇太子も必要です。彼の折り合いの悪い息子も海をわたり、その若い上さんも同行。彼女が英語達者で活躍して、ハノーヴァー恋しと里帰りばかりする義理の父が喜んだそうな。キャロラインと言い、後に国王の妻としてブリテンで人気を博すようです、他ならぬフォン・メックレンブルグ・ストレーリッツ家のプリンセスでした。つまりここの主人公ルイーズの叔母になるんです。肖像画で近縁`叔母-姪``を確認できるでしょう。

11月後半に咲く逞しき雑草を、健気に動いた30才ルイーズにかけて…
Luise en onkruiden
この姿から、華奢な印象を受けない。際立った美貌と言うよりも、健やかな溌剌な女性として描かれている。これだと普通の現代女性に見えないこともない、貴族育ちですから"普通"でないながら。亡くなった後に、こうした多くの肖像画が描かれた。彼女一人の全身像や胸像、姉妹の銅像も作られている。"祖国愛活動"による声望がいかに高まり、人々の追慕を呼んだかを示している。

ルイーズ・フォン・メックレンブルグ・ストレーリッツの産まれは1776年。上下にいる賑やか兄弟姉妹の中で、二つ年下フレーデリッケと中むつまじく、幼少の頃、母方の祖母ダルムシュタット(フランクフルトとマンハイムの間)で過ごした。17と15の少女の時、フランクフルトの見本市か何かの催しで将来の義父(プロイセン王フリードリッヒ二世)に見初められた。彼の息子2人にちょうど良いと思ったんですね。

この4人で恋に落ち、1793年12月末に団体で挙式したそうな。ままごとのような塩梅ですが、15才なら適齢期の時代。顔も知らぬ老若も問わない殿に嫁ぐ政略結婚が列強大国間の普通だった。一方で、けっこう込み合う貴族集団に於いて、奥方は義務に従い多産するので、プリンスとプリンセスの相手探しの言わば結婚市場があったわけ。

君主でない貴族ならば、強制されない意外に仕合せな例があったのかもしれない。20や30の配偶者死亡例は日常茶飯事だから、彼等は再び三度、相手探し市場に戻り、経験を生かしそこそこのパートナーを見つける。フレーデリッケは姉と違い、沢山産み且つ長生きした人。初めと2番目で8人作り、3番目の旦那は大国"ハノファー"の王。また3人作り、さような健康女性もいたわけだ。

最後のパートナーは英語を母国語とするブリテン連合王国王の息子で、領知分けしてもらい先祖の土地に帰ってきた人物。ストレーリッツ家の撚り戻しですから、互いにハトコと言った従兄妹関係になるんでしょう。対ナポレオン同盟軍の主力はブリテンとプロイセンなので、ハノーファーとその友邦ブラウンシュヴァイクも当然参戦する。フレーデリッケと結婚したばかりの当主がワーテルローに出かけたのかどうか? 知らないのですが、オランダが皇太子ウィレムを司令官で出し、その元ナッソー当主も領邦軍を率いたので、釣合上やはりハノーファー公国当主も出向いたと言う気がする。

姉のルイーズ前回日記の28才の姿は一つの描写方といえるでしょうか。ティルジット31才の印象は細身で、落胆の主題に相応しい。上の画を含め、かように肖像と言うのは見る者と本人をも裏切る。注文主/モデルの期待に沿わねばならないと言うビジネス面に加え、画家それぞれの見方/受け止め方/イメージ表現が異なるから当たり前か…。ディジタルカメラによる画像でも、状況によって様々な異なる印象を与える。人の筆と目と心の共同作業による肖像画ならば、"裏切り"があってしかるべきと言うこと。

時代が前後しますが、フランスの革命騒動と年初めにギロチンにかけられたルイ16世、かのマリーアントワネットが追うように秋にギロチンにかけられたニュースは欧州を駆け巡り、全ての王朝とロイヤリストを震撼させた。ルイーズとフレーデリッケ姉妹がそれを聞き、どう思ったか…。少女たちがベルリンで王子達と結婚したのはマリーアントワネット逝って二ヶ月後だった。

住まいはウンテル・デル・リンデン大通りの屋敷だった。オランダで開発された夏と冬のシナノキのハイブリッド・リンデンが30年戦争で荒廃したベルリン再生都市計画の一端として150年ほど前、植樹されていたから、ちょうど現在に似た並木道になっていた筈。古樹の風格が出る前の感じですね。現在のシナノキは3代目あたりだ。

屋敷は皇太子だから公邸になる。ブランデンブルグ凱旋門から歩いて近い場所。幼い頃のメックレンブルグで馴染んだ夏のコルンブルーメ=ヤグルマギクは広々としたベルリンの宮殿や公園にも花咲いていた。議事堂から始る今のティール公園も広いが、当時ならばブランデンブルグ門の先はガラーンとした緑が広がり、夏には様々な雑草・草花が咲き乱れていたと想像される。なぜなら彼女達はヤグルマギクで花輪を編み、出かける馬車の車輪の上に飾ったのだから。

Luise von Mecklenburg-Strelitz.jpg

右の肖像画は結婚間もない頃でしょう。たぶん作者は左の人と思われる。当時の肖像画家で引っ張りだこになったヴィジェー・ル・ブラン、18世紀後半から19世紀前半の肖像画家として代表的一人。名をルイーゼ・エリザベートと言い、画風の変遷があるけれど、たいてい際立って彼女と分かる印象を与える。5才くらい若作り自画像だが、この出来あがりだから、王侯の奥方から声が掛からない筈がない。

ルイーズの絵はナポレオンお抱え画家が多作した(安っぽい)英雄画ほどではありませんが、輪郭や色使いがきらびやかすぎる感じがしないでもない。こうしてみるとルイーズはむしろガッチリ太目タイプだったことが分かります。ル・ブランはベルリンに滞在して幾つかの注文をこなし、これがその一枚と思われる(全く別画家の可能性もあるが)。38才、当時なら画家として油が乗り熟してゆく時期。

上のハプスブルグ末っ子娘が革命で無慈悲に処刑されるまでに、数多くの衣装姿をル・ブランに画かせています。殆どすべて実像を超える虚美と解釈すべき作品。肖像画も芸術なれど、しばしば真実を裏切っている。左様な文脈で、ブルーを背景に若い表情を浮かび上がらせる絵はルイーズ本人と旦那を満足させたでしょう。
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ken minatoya

Author:ken minatoya
Victor Westhoff(1916-2001)碑文Hij observeertからのHNを本名と苗字に先立つ屋号に変更。ウエストホフは生物フローラの相互生息環境を丹念に観察したBiotop概念の先駆者。ザザーッとフィールドを歩きつつ、こぼれ見える外史/雑人/雑草の風景

日本語→英語自動翻訳【星条旗】
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