ライン・ワール・マースの狭間から、草の如し徒然の観察八景。 政ごと/商いごと/言の葉ごと/遊びごと。

Family 家族

12月5日の聖ニコラス祭は贈り物大会 ユーラシアを越えてスカイピーの夕べ

紀元後四世紀のアナトリア(=小アジア)はローマの支配下。395年に東西に分裂、東のローマの首都がコンスタンティノープル (=イスタンブール)です。その3年前にローマが国教に定めますから、キリスト教は既にアナトリアに広まっていた。

アナトリア半島の地図を見ると、西部の南にMyra の綴りが見つかります。誕生282年と見積もられるニコラスと言う人が若くして黒海めぐりの修行を重ね、人々の病を治し(≒奇跡を行い)、やがてミラの司教になります。没年月日は342年か352年(4か5か?の数字が不明なんです)の12月6日。偉い人物だったらしく、死後まもなく聖人の称号を得ます。ミラからそんなに遠くない海に浮かぶクレタ島の美しい港町をアイオス・ニコラオスと呼び、彼に因んでいます。

中世11世紀初め、アナトリアはイスラム化しつつあり、それを恐れたイタリア商人たちがニコラスの墓(遺骸=骨)をイオニア海向こうのイタリア半島ヒール(高い靴かかと)部分の一寸上の魚港町バリに移します。古代ローマは紀元前少し遡りますが、実はその頃にもニコラスなる偉い人物がいたらしく、これら二人のニコラス信仰がその頃に合体していたようです。

バリに於いてニコラスは海の守り神として今日まで存在します。漁民にとって海の平安は欠かせません。司教が鎮座する屋台を海に担ぎ出す豪壮で賑やかな祭りはバリの有名な観光行事。聖人ニコラスはバリ滞在期間にも名声をひろめ、17世紀スペイン全盛の頃、もう一つの面である"子供の守護聖人"がスポットライトを浴びるようになる。

フランスにバケツ一杯のニコラス教会があり、ほぼ"子供の守護人"の性格を持っているようです。そんなことで、広いフランスにバケツ100杯くらいのニコラ(スは無声音なので聞こえない)さんたちがいます。フランス第5共和制のサルコジー頭領(小さい人で大はおかしいので)も従いまして、この聖人の名前を貰っております。まあジョンやジャックの類で、ブリテン形だとニクラウス、つづめてニック/ニコルなど目を回すほど転がっています。

ローマ帝国の東からキリスト教が北に上ります。ご存知の通り、ギリシャ正教。セルビアもロシアも他多くの本山があり、それら全て主教会の正式名に"ニコラス"を冠しています。恐るべき"聖人”ではありませんか。1918年7月に家族と共に銃殺された皇帝の名もニコライと言いますね。

Backsight van S&P

白髪の大司教が白に黒斑入りの馬にのり、夜空を疾風の如く駆け巡る、と言うのは北欧神オーディンのイメージ取り入れたと言われる。ピートと呼ぶお供の黒人少年は16世紀頃に始る奴隷売買時代の産物。このコンビが12月6日の彼自身の"昇天日"前夜に、屋根から屋根へと降り立ち、煙突から居間に入り子供たちへの贈り物を配って行きます。

21世紀に入り、12月5日に贈り物の楽しい夕べを行う家庭はオランダ/ベルギー(フラームス圏=蘭語圏)、それにドイツ/フランス部分の60%ほどと言われます。子供家庭は言うまでもなく。子供が巣立った夫婦も、昔を思い出す独りの人々も共に集まり、5日その夕べあるいは前後の週末/日曜に賑やかな"ニコラス祭”をするのです。人みな、贈り物に財布を開ける。経済効果はUSの感謝祭の比率に匹敵するでしょう。

Piet


現在の蘭と白耳義など低地域がハプスブルグ家スペイン(+オーストリア)に支配されている16~17世紀、子供に贈り物する"スペイン人"大司教ははるばるイベリア半島から船でやってきました。贈り物を"できるようになった”2次大戦後に、運河をもつ沢山の町で、黒斑点の白馬とぎょうさんの黒人少年を従えたニコラス聖人の船を迎えるようになりました。

波止場に着いた船から司教帽をかぶリ杖を抱えた聖人は馬にまたがり、繁華街や街広場に待ちつくす大群衆に挨拶をします。船旅の様子とか、今年の贈り物集めに苦労したことなど、語ってくれる。大勢のピートたちは直径2センチほどスペキュラースと言う菓子を子供たちに配る。この行事と密接に関るシナモン味(+茶色砂糖)のビスケット。丸くない大きな四角タイプは聖人の形を押しています。誰にも食べられ且つ廉価な点がシンテルクラースに相応しい。

楽隊も出る、歓迎の辞を述べる市長とのやり取りもある。しばしば老人マンション組織を訪ね、聖人は大昔に子供であった人々と共に楽しい夕べの時間を過ごすのです。全ての保育/小学校にとって大切な楽しい行事。即ちこの季節には、学校/老人ホーム/商店街などあらゆる組織に、聖人/ピート役が必要になります。聖人を演じるファンと言うか、これを楽しみにする人々が何万人もいそうですよ。

オランダが北米大陸ハドソン川流域にぼちぼち砦を築きはじめるのは16世紀半ばだったか(詳細の蘭植民史の本が見つからず、うろ覚え…)。日本は戦国時代から織田が覇権を確立する時期。ニュー・アムステルダムもそのうちの一つ。

新しいアムステルダムは当時(今も)の意気盛んな商いの町の"北米拠点"と言う感じの命名。後に南米スリナムと交換したブリテンは織物メッカ(でしたよね)ヨークの盛況になぞらえ、ニュー・ヨークとしましたが。

Sint en Piet in Nijmegen


現存する資料では18世紀末頃か、ニュー・アムステルダムのオランダ植民者たちがニコラス祭りをした記録が残るそうな。それがキリストの誕生日にずれて重なり、19世紀にほぼセイント・ニコラス即ちスペイン語・聖人なまりのサンタとドイツ語崩れのクラウスとの熟語Santa Claus に落ち着くようになったと思われる。

聖ニコラスの蘭語綴りSint Nikolaas/Nicolaas の親称形であるオランダ語彙Sinterklaas(シンテルクラース)が20世紀にドンドン入り始めた欧州諸民族の、いわば折衷案として不思議な新語彙を産み出したと言えるのでは…。20世紀前半のドイツ移民の圧倒的多さと、こんにちの"ヒスパニック”進出を思うと、結果ながら上手に編まれた言葉かもしれません。ただし日本語仮名のサンタクロースは別の舌と耳を持つ民族の特殊解ですね。

ヤン・ステーンは17世紀の庶民生活を闊達に描き出した勝れた画家です。人々の楽しい生活の様子やユーモラスな場面を「ヤン・ステーンのような≒ヤン・ステーン的な」と表現するのをよく聞きます。"黄金の世紀"の大画家は勿論ご存知レンブラント・ファン-ライン、、ところが生活の場面だとヤン・ステーンが生き生きと登場してくる。

彼がシンテルクラース贈り物場面を描いた家は、お金持ちでしょうネ。こんなデカイ家に当時の庶民は住んでいません。また12月5日に贈りものをする/出きることはまだ大部分の人々の"習慣"になっていなかった筈。一本の棒飴くらいで、大きなお人形入りプレゼントは庶民に無理だった。

Sinterklaas feesje Anno 1669 en 2011 A


2011年、次女が日本で働くかたわら、ルーツの文化と言葉をもっと深めたいと、漢字と格闘しておりまする。子供たちは生まれた時から、シンテルクラースに馴染み、この行事を体に染み付けている標準人間。もう6~7年これをオーガナイズするのが次女なんですよ。

誰が誰に主なるプレゼントをする?と言うクジ引きとか、全員のプレゼント希望品の表作り、またその変更や贈り物のダブリが無いような手続きetctをインタネットを通じて行います。(念のため、これらを効率よく行うソフトを利用しているだけなんです).

のんきな父親はかまわないので、くじ引きの締め切り等を忘れます。すると、メイルの警告が届く。曰くパパはこれとあれをしなさい…。一月前に準備が始まり、今年は彼女が日本なので、次女への箱一杯贈り物をSALで送る締め切りが厳しく私はテンテコマイでした。

と言うことは次女の方もメンバー8名のための珍しい日本の珍品を集めてやはりSALで送ってくるわけ。グラフィックっぽいソフト屋さん見たいなことですが、贈り物詩文つくりにかまけて仕事をきちんとしているのかなと心配します。

Sinterklaas feesje Anno 1669 en 2011 B


いずれの箱も11月末に着き、税関チェックでバラバラにもならず、それぞれに添えられた詩文もきちんとそのままになっていました。欧日米の間のこうしたパッケージ送りは概ね安全ですね。アメリカに嫁いだ娘がオランダの母親バースデイ祝いにお手製ケーキを航空至急便(航空普通でも何故か同じ日数)で贈った。焼きあげた見事な大ぶりケーキが壊れないで3日後の誕生日に到着したんです。涙が数滴こぼれるような良い話だ。そして何より、ポスタル信頼性に感心します!

シンテルクラース・プレゼントに韻を踏む10行詩を添える、なんて伝統がある。有産階級の知識人が始めたと言う背景が感じられますが、、時代的な詳しい経緯を知りません。日頃ヤンチャをする子供に戒めの言葉をそえて贈る、と言うのは宗教的背景を考えると納得出きる。大司教の戒めですから、韻を踏み、且つユーモアたっぷりに書き上げること。

アメリカで生まれたシンテルクラースの分身サンタ・クラウスの24日クリスマス・イブの靴下にも初期に手紙を添えたと言われます。用意した靴下にサンタさんからプレゼントを入れてもらうと言う趣向を創造した代わりに、雑多民族に沸き立つアメリカ故か、文章書くような手間隙かけるタイソウな習慣をなくして行ったようです。

Sinterklaas feesje Anno 1669 en 2011 C 詩を読む


子供達が幼い時、祖父祖母に兄弟姉妹と共に伝統行事をしました。全員しめて10名を超え、互いに全員に贈り物一つに絞る場合でも、90個の包みになる。実際は一人が他一人に複数個を作るので、200や300になる。一つずつに知恵を巡らした詩文を読み上げ、それに笑ったり唸ったりするので、所要時間5時間以上…。飲み食いしながら進みますが、これは物凄いエネルギーを要する。よくぞやり申したと、今思い出すと感心して寒心。

PCとインタネット時代になり、絶対に読めない酷い手書き詩文に泣くのは終わり、ホットします。また、一人のメンバーが日本我アパートにいる次女に詩文を読んだり、次のプレゼントを袋から取り出しその名宛人に渡す様子まで、ほぼ向こうとこちらが同じ空間にいるかのように進みました。

贈り物を袋から取り出すのは前回の贈り物をもらった人がする。今回の場合、次女にそれは出来ないので、彼女がこちらからのSAL便による贈り物を取り出す時、頃よしと見測り「次はアナタ」と段取りをつけるのが唯一違ったことでしょうか。

贈り物と言うのは、事前に幾つもの希望を出しているとは言え、詩文を自分で読み上げた後、包み紙を開けるまで分からない楽しみと言うか驚きがミソですね。幼い子供たちにとってシンテルクラースはほんとに存在する人ですから、驚きと嬉しさは(時に思っていたほどでない落胆…)傍で見る大人にとっても愉快で興を惹かれます。

詩文の最後の文句は、誰が書いてもこうです: シンテルクラースとピートより。と言う塩梅ですが、内緒で私が贈ったものと贈られたものの例を書いてみます。三十路の長女への一つは30ユーロ・ファッションギフト券、次女へは英語ベストセラーのミステリー。私が次女から貰ったのは正真正銘の日本縫製ハンチングと紅色のカブラ漬け。Dankjewel Sinterklaas!
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ken minatoya

Author:ken minatoya
Victor Westhoff(1916-2001)碑文Hij observeertからのHNを本名と苗字に先立つ屋号に変更。ウエストホフは生物フローラの相互生息環境を丹念に観察したBiotop概念の先駆者。ザザーッとフィールドを歩きつつ、こぼれ見える外史/雑人/雑草の風景

日本語→英語自動翻訳【星条旗】
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