ライン・ワール・マースの狭間から、草の如し徒然の観察八景。 政ごと/商いごと/言の葉ごと/遊びごと。

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Miscellaneous Human History 雑史/外伝

プラハ大学 ヤン・ブリンデとカルル4世親子  <ボヘミア編の上>


七月末なのに十月の天気だと言う。雨が続くのも珍しい。やや寒いから、雑草も閉じこもりがちになる。昨年の今頃、シロザやヨモギたぐいは既に満開だったのだが...。

ドミニック・シュトラウス」・カーンのシャルル大王への連想から、偶然ボヘミアの名が出ました。それで大王ブロンズ像を撮っているかと思い、探しました。出てきたのが、大通りを見下ろし、向こうにヴィルタヴァ川の見える写真。その川は流れてラーベ(独:エルベ)に注ぎます。暑い盛りの夏だった。

青銅のぬしをシャルル=カルル大王でないと思ったのは、別にプラハ大学構内に迫力ある像を覚えていたから。しかし良く考えると、大学構内のは大学創立をしたカルル4世像でしょう。そうでなければ話が合わない。国立博物館はずっと後の建造だから、シャルル4世以降の誰か、おそらく王朝変りハプスブルグ系の大公または皇帝かも知れません。

030825 プラハ標本美術館0

古代からこの地域の呼び名だったボヘミアは欧州内陸に於ける要の位置を占め、辺境ブリテン島以上に揉めにもめ、血がどっさり積み重なった。部族や豪族が競り合い割拠する昔から、啓蒙的君主が現れる18世紀ころまで、敵を殺し、大殺戮をして、文字通りの八つ裂きや生き火あぶり刑をするのは普段の出来事だった。

良く引き合いに出すウィレム3世を教授した大政治家ド・ウィット兄弟は暴徒に生皮はがされ吊るされている。当時もっとも漁獲高のあった鰊(ニシン)の皮をむき、楢材を燃やす上に並べて吊るし、上等のスモーク・ハリングを作る如しなんですね。弾丸一発で殺す"綺麗”な時代に入っても尚そのような方法が採られた。つい近代まで、人間は敵に対する仕打ちに残虐・むごいと言う感性を持たなかったのでは...

砂漠の激しい環境で生きなければならない部族の敵に対するしきたりはコーランに記されているそうです。今年初めに起こったアラブ蜂起に於いて、イェメン・シリア・リビアの権力者が執拗に且つ徹底的にデモする人々を威嚇し、ついでに殺すと言うのは砂漠の単なる掟を踏襲しているだけかもしれない。ガダフィー親子やアル・アサドは残虐なのではなく、風土的な無感性人間なんだ...と。

ボヘミアで敵を血祭りにあげたヤン・ブリンデと蘭語で言う武王がいる。この人の父親は現在のルクセンブルグあたりにあった小さな伯爵領から政治巧みにしてドイツ諸侯中の雄になった(蘭語で)ヘンドリック7世(英:ヘンリー7。独:ハインリッヒ7とするとややこしいので)。

ヘンドリック7は長男ヤンにボヘミヤ王の娘エリザベスを迎える。だからヤンはボヘミヤ王として載冠できた。ボヘミアでJan Lucemburskýと綴られ、ルクセンブルグのヤンだ。稀に見る勇者でプラハから常に出陣。ある戦いでメクラになった。その後もたびたび息子の介添えを得て戦場に出た。

蘭語でJan de Blindeと書かれるのは`盲=blind`の戦いぶりを称えるからだと思う。独眼正宗の上手を行く。"座頭市”がボヘミアにいたのだ。フランス語でジャーン・ド・ルクサンブールとよび、ルクサンブール家ボヘミア朝初代である。

ボヘミア歴史にJanと書いてヤンと呼ぶ多くの人物がいるのが頷けよう。綴りJanをフランス風にJeanジャンと言い換えず、独蘭式にヤンと言う。一次世界大戦処理のヴェルサイユ会議決定(だったと思う?)から1992年までチェコ・スロヴァキア国名で、その間にKarelと共にJan名の首相を出している。

メクラ親父ヤンの息子がカルル4世だ。そのでかい青銅像を大学構内で私は見たのです。親父の豪傑に似せたのか、怖い面相に作ってある。大学由来の講釈を聞いている時、設立が独蘭の古手より古いのが印象に残った。日本史だと南北朝つまり京都の北朝と吉野の南朝が並列した頃。言い換えると足利幕府がよろめいてぶっ倒れる時期の14世紀半ば。

朝廷が鎮座する京の都に、奈良に続く大学らしき組織(名前失念?)があったと習ったような記憶がある、、。もしあったとすれば神学即ち仏教を柱にする学問場と思います。鎌倉期に入り、念仏を唱える浄土宗と浄土真宗(どう違うか、知る筈もない)、日蓮宗が起こり二つ禅宗も入った。思うにこれらが互いに拮抗して、且つ旧仏教と争った。

ボヘミアでもそのような宗教的覇権が争われる。故に神学研究は必要欠くべからず、次に他学問が従うことになった。カルル4は極東アジアの存在をまだ知らないので、プラハ大学の見本にしたのはイタリア北部のボローニャ大学で、1088と言う数字で平安後期に相当する。のち名誉教授だかに迎えられたAドプチェクがプラハの春以後の政治所管をここで語っている。

半島付け根の内陸にある自由自治の町が商いで栄え、大学を作る。人間の歩みと言うか、学問する馬力に感銘を受けます。京の都では既に枕草子など文学が花開いていた。京都とでボローニャ風な塩味の効いたスパゲッティを食わせるイタリア仕込みシェフの店があったのを思い出す。

ボローニャやミラノは当時5~10万人口、欧州屈指の大都市。ローマ法王に対するドイツ諸侯から選ばれた皇帝との確執や新旧両派あらそいの種が教義解釈だから、そりゃ大学が必然になりますよね。法王のいるローマに出来ずに、経済中心地に出来た欧州最古の学問の府なそうな。

2.5世紀遅れながら、1348年創立と言うプラハ大学はやはり快挙というべき。教皇や貴族・商人(≒スポンサー)たちと根回して、実現した。と書くと簡単だが、そのずっと前から神聖ローマ皇帝選挙運動に加え、ハードの建物群とソフトの神学以外の学科並びに教授陣選びなどの準備過程にカルルは超多忙だったんでしょうね。

開校2年前に皇帝に当選し、その威光によって広く帝国内から教授と学生たちを集められたと言う。このKarl 綴りをチェコ語でカレルと呼ぶらしく、ハァーと納得。蘭語でKarelカーレルと言いますから、やっぱりルクセンブルグと言うか現在のベネルックスあたりからボヘミアに引っ越していったヤンの影響では無いか...座頭市の判官びいきで思います。




[記:2011-07-27]
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ken minatoya

Author:ken minatoya
Victor Westhoff(1916-2001)碑文Hij observeertからのHNを本名と苗字に先立つ屋号に変更。ウエストホフは生物フローラの相互生息環境を丹念に観察したBiotop概念の先駆者。ザザーッとフィールドを歩きつつ、こぼれ見える外史/雑人/雑草の風景

日本語→英語自動翻訳【星条旗】
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