ライン・ワール・マースの狭間から、草の如し徒然の観察八景。 政ごと/商いごと/言の葉ごと/遊びごと。

Miscellaneous Human History 雑史/外伝

ボヘミアのエリザベス  <ボヘミア編の下ー前> (画像追加update版)

>Bohemian war to the 30 years war

家康亡くなる三年前の元和年間1613年の冬、プファルツ領から大名行列が出た。今で言うとベルギー・ルクセンブルグの東側、北と南に伸びたり縮んだりし ながらハイデルベルグまで含む新教のドイツ選帝侯領。このPfalzはバイエルン領主ウィッテルスバッハ家系領だが、カトリックの本家と違い、カルヴァイ ン派新教を奉じた。

3年前父親フリードリッヒが36才で逝き、14才息子が5世伯になったばかり。勿論、国政は忠臣の家老たちによってマネージングされている。この殿が、エリザベス・スチュアート政略結婚の最適相手と見なされた。

ほかにスエーデン・グスタフ皇子などが候補に挙がった。だが三十路半ばの母親が猛烈に息子をジェームス1(スコットランド王としては6)世に売り込んだ。ルイーゼ・ユリアナと言い、以前の日記で 触れたオラニェ・ナッソウのウィレム1世の3人目女房の長女。異母兄でオラニェ家の御曹司モーリッツもロンドンに同行させ、結婚交渉をした。

新教蘭自治都市グループ+ブリテン王様寄合所帯+神聖ローマ帝国内の選帝侯と言う政治勢力結集である。手続き契約なって、1612年若きプファルツあるじはロンドンに 行き、エリザベスと初対面。互いに惚れあうような感じでルイーゼは大任を果たし二重の喜びだった。母はいつの世でも母である。同い年は政略結婚に百の内の一つ理由にすぎない、けれどもフリードリッヒとエリザベス本人たちに演じた役割は大きい...[補註1]。

良く考証されたコステューム映画で、天皇の牛車ほど大きくない車付き籠を見たことがある。新教派の血を流し続けたマリー・チュウダー1世の叔母は同名同姓マリー・チュダーで、かつて妙齢18にしてドーバーを越えて50超えルイ12世に嫁いだ。その時、能面のような白肌の少女がそんな籠に乗ったように思う。幌馬車で無いにしても、まだブナ心材の木製車輪ですから、かなり揺れた筈。

今度はその逆だ。ブリテンの姫君を迎えるための相当な行列だった。家老や重臣一同にとって、これでプファルツの格がドイツ諸侯で上る。それゆえ国庫を勘定しつつも、精一杯の礼と贅を尽くしエリザベス(大陸側ではエリザベートと発声)を迎えねばならない。内陸から海岸までは長旅でしんどい。しかし海に出て、風向きにあえば半日の海峡船旅。そして陸路一日でロンドンに到着する。

ヘンリー8世の初代アドヴァイザーとしてトーマス・ウォルジーは権勢を謳歌して宮殿のような公邸に住んだ。彼は王妃カタリーナ離婚でヴァティカン交渉に手間取り、短気ヘンリーと後がまアン・ブーーリンの怒りを買い失脚。没収された公邸は新王になる度に大普請を重ね、欧州一の大複合建築になる。正面にドームを戴く建築が白い石灰岩作りな ので白亜宮殿(現在言われるWhite Hallは火事焼失後の残り物か何か…)と呼ばれた。

Elizabeth en Friedrich

ホワイトパレスに粉雪が舞う2月にエリザベスとフレーデリック5世(本来の独名:フリードリッヒ)は挙式した。 彼等の前途は洋洋と言わなければならない。アングリカン・チャーチとカルヴェイン・プロテスタントのハイブリッドカップルの誕生。ままごとのような事象であるが、"自由・博愛・平等”精神が生まれる前の王様の時代だった。次の3月いっぱい、彼らは母親ルイーゼの 里、ハーグのオランニェ・ナッソウ家で歓待された。

4月になって、領地で行う祝宴行事のお膳立てにリパブリック(共和組織)オラニェ家2番手のフレーデリック:ヘンドリックがおぜん立てに先行した{補註2] 。若夫婦を伴ったのは正式身分名”オラニェ・ナッソウのプリンス”である伯父モーリッツ(この名称がリパブリック最高職。総統と訳される別語シュタット・ハウダーと同義)。ハイデベルグに凱旋するように帰る。大陸新教派連合の雄として輝くハップニングに、ハイデルベルグの宮殿も領地も華やいだ。

その秋だったか.支倉常長がカトリック総本山ローマへ船出した。主君正宗の意図は宗教よりスペインとの通商と西洋事情聴取にあった筈。日本国内で信長時代から既に、ポルトガル・スペ イン合体後のイザベラ女王、さらにフェリーぺ1世と2世からの布教ミッションが活動。ようそろ、日本カトリック化ならぬと禁教の世になりつつあった。時勢に反する画期的な海外使節であったが、スペイン風邪ッぽいクシャミくらいしかもたらさなかった。

ボヘミアを流れるVltava(ヴィッタヴァ)川。ここはプラハ市街を後にしてさらに北上する道中。やがてエルベに合流し、ドイツを貫き北海にそそぐ。


王族結婚とは政略結婚と同義、同時に近親結婚とも同義である。政略であるから、本人の意向と無関係。今なら児童虐待や児童出産で保護監督下に置かれるが、平均寿命30や40の時代だった。誕生後まもなく嫁ぎ先が決められる、甚だしい年違い、夫婦生活の無い遠く住まい、そんな具体例が転がっている。幼子で送られる皇女は、出来るだけ早く王の嫡子を作る任務につく。理想の王妃とは豊穣多産な女性。子を宿さぬ奥方は失格者である。

幸かな、このカップルは十等身もっと離れていようから、現在の常識から異存の無い健康夫婦になる。珍しい同い年で、さらに珍しいのは夫婦生活が円滑、円満だったこと。こうした幸せ多産な例はあって、代表二組を挙げると:オーストリア・ハプスブルグ家マリア・テレジア女帝と旦那フランツのコンビ、なんと子供16人。イングランドはハノーファー朝・ヴィクトリア女王と旦那アルバートの子供10人。夫の死後いずれも黒をまとい"喪服の未亡人”と呼ばれる。太っちょ巨漢の未亡人たちは子息子女を欧州中にばら撒いた。

ボヘミア王位はルクサンブール家から代替わりしてハプスブルグの神聖ローマ皇帝が兼ねていた。これに不満を抱くルター派貴族が、1618年に皇帝フェルディナンド使者を窓から投げ落とす。皇帝は制圧軍をだす。反乱新教派を助けるため、サボア公と若いプファルツ伯がにわか作りの傭兵軍コストを支出。これが何と皇帝軍に勝ったので、話がおかしくなった。[補註3]

皇帝をしりぞけた格好になった新教貴族たちは、新教の毛並み目立つプファルツ伯その人を王として招く名案を思いつく。孫の顔を見に来ていたオランニェ出のルイーゼが招待状を見て、母親の予感本能か、まず反対したらしい。ドイツ新教連合が会議を開き反対した。加えてエリザベスの父親ジェームスも大反対した。

紛争が長引くと、例えば新教独立低地域と宗主国スペインとの長い戦いと同じ泥沼に陥る。皇帝はあちこちで出費が重なり貧乏だ。だが低地(南Nederland)に常駐する精強スペイン軍に加え、裕福なカトリックであるバイエルンのウィッテルスバッハ公軍に傭兵軍を加え、旧教=皇帝連合軍として巻き返しをはかろうとしている。風雲急を告げる。

プファルツは`上`と`下`から成立している。下はハイデルベルグからデュッセルドルフまで。上はあまり知られない土地でバイエルンとボヘミア間の地域。 もし`上`とボヘミアが一体になれば経済的メリットが測り知れない。そうなれば将来バイエルンを新教側に取り込む可能性が見えてくる…。

若干24才の未経験な`若造`と‘御新造‘にすぎない。ただの選帝侯から国王への昇格の滅多にない話。結婚して6年、夫婦仲良く既に3人だかの子息子女をもうけ、引き続き毎年のように子供を作ることになる。その途中に舞い込んだ一寸したクイズである。彼らはハイデルベルクで、結婚初期の幸せな生活を送っているのだ。

フリードリッヒの叔父。異母兄モーリッツ1625年没後に`オランイェ親王`になり、即ち共和組織の総統職を継ぐ。兄と17才違い、息子のように可愛がられ総統教育を受けた。ライデン大学で学び軍に投じ4州国家軍の司令官を務める。野戦より都市戦を好み`都市攻略`将軍と言われる。
Frederik Hendriks 01

1620年の夏、153台の馬車からなる宮廷行列がハイデルベルグを出た。北部の低地域七つ都市と州などがまとまった年である。水が目線より上を流れるような低い土地は、スペイン(旧教ハプスブルク)に対し、既にほぼ半世紀の独立戦を経験している。彼らは「独り立ちをする」と宣言した。そして政争を潜り抜け且つ戦場を駆け巡る武将たち・オラニェの叔父たちは、甥っ子のボヘミア行きを承知したのである。

初め亭主フリッツは乗り気でなかった。何が決定のファクターになったか勿論、定かでない。恐らくアングリカンの強い信仰心を持つエリザベスの動機ではあるまいか。彼らは我がままな世間知らずの選帝侯・伯爵夫妻だが、それだけに若い夢と言うか、旧教サイド弾圧下(と信じている)のボヘミアに平和をもたらす正義感だろう[補註4]。
道中コースはバイエルンの北を抜けボヘミアに入る難路。料理人から家庭教師や宮廷官たちに加え、様々なブリテン家財道具を持って行ったらしく難儀な旅である。プラハ到着は11月1日、冬場に入っていた。

休む間もない三日後、準備を終え待ちわびていた貴族たちはまず亭主に王冠を授けた。さらに三日して上さんが女王として載冠した。`エリザベート`は王の后である。しかしそれよりも女王だと理解されよう。新教ボヘミア臣下がイングランド/スコットランド王ジェームスに向けたサインかもしれない。

ご令嬢は女王であられる。一刻も早く、我が女王(と我が王)を承認して下され候。
なぜならすぐに承認したのは、共和国宣言したばかりのオランダと、君主国のスエーデンとデンマーク、さらにヴェネチア共和国の四つだけだった。一寸お寒い`国際情勢`なのだ。くらい雲が新ボヘミアの空にかかっている。


【補註】
1.政略結婚におない年や数年違いは少ない。幼女で名ばかりの結婚もある。適齢期15前後の皇女なら理想的。スコットランドのマリーは適齢期に2才年下のヴァロア家フランソワと結婚。病弱な小年で夫婦関係をコンシュームせずに載冠の翌年に逝った。恋愛や惚れた相手と結婚する例は稀である。オーストリア・ハプスブルク女帝マリア・テレジアは数少ない例の一つ。

2.Frederik Hendrikはこの時29才の独身。彼自身も17才エリザベス亭主になる有力候補であった。オラニェ家存続のために政略上相応しい相手探しが続けられ、数度真剣に見当された。兄モーリッツの半ば強制を受け1625年(41才)、伯爵家の出Amalia van Solmsと結婚。ソルムスはエリザベスと共にプラハ-ベルリン-ハーグを随行/逃避の旅をした女官である。女王の身の回りの世話をする女官は常に高い身分の女性である。

3.1618年この事件を30年戦争のきっかけと見なす。1618+30=1648が欧州史の重要年で、関係国すべてがドイツ数都市で多くの条約に同意した。まとめて(英語読みで)ウェストファリア条約と言う。
4."生まれた時から王"種族の価値観が、21世紀庶民常識に会うととても思えない。
*本稿updateは{記:2011-07-30]に画像を加えたもの。
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ken minatoya

Author:ken minatoya
Victor Westhoff(1916-2001)碑文Hij observeertからのHNを本名と苗字に先立つ屋号に変更。ウエストホフは生物フローラの相互生息環境を丹念に観察したBiotop概念の先駆者。ザザーッとフィールドを歩きつつ、こぼれ見える外史/雑人/雑草の風景

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