ライン・ワール・マースの狭間から、草の如し徒然の観察八景。 政ごと/商いごと/言の葉ごと/遊びごと。

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ナポレオン百日天下 [ ベルギー連邦のスペクタル]

ナポレオン。 ワーテルロー戦場に向かう仏軍それとも蘭軍? 3色旗の並び具合で分かる…
Waterloo Cor 03

2015年の6月18日の200年前にこの実際が起こった。今から3年すれば、昨日よりもっと本格的なスぺクタルが繰り広げられだろう。きっちり2世紀を遡るから明快だ。

下写真は先の週末16/17日にあった歴史再現劇。1万を超える観衆が楽しんだ。ブリュッセル南15㎞にあるワーテルロと言う自治体の草原で行われた。そこはフランス語圏ワロニア5州の一つワール・ブラバント州に属する。ベルギー連邦東に小粒のドイツ語圏があり、大きな残りの北半分がオランダ語圏、南がフランス語圏。二つ域のほぼ中央に位置するのがワール・ブラバント州。行政区ワーテルローはその中央、北にありフラーンデレンのオランダ語圏に接する。

Waterloo 01
赤い衣装がフランス軍で、白い繋ぎズボンが連合軍か、良く分からない。フランス軍正装色はブルーと思われるので…? ブリテンの一旅団にカモフラージュ濃緑軍服の精兵部隊があった。他は国王陛下に習い真っ赤な軍服だった。フランス側のナポレオンの信頼するヴェテラン師団予備は長い熊皮帽子をかぶり、下広がりの揉み上げと口髭をはやし、房付き両肩覆いで統一されていた、青い軍服に白皮をたすきにかけ銃剣をささげ、美しくも勇猛であったと言う。

地中海に浮かぶエルバ島からボナパルト・ナポレオンが脱出したのは1815年2月15日。現在だと真冬になるけれども、当時の地中海はどうだったのだろう?王政復古して王位についていたルイ18世は自らの不人気とボナパルトを迎える軍人勢力を知り、ナポレオン3月1日上陸を聞くや否や、取るものも取らずに北のブリュッセルに亡命する。

ウィーンでナポレオン後の欧州秩序を賑やかに協議していたオーストリア/プロイセン/ロシア/ブリテン/スエーデン/オランダ他もろもろ諸国は狼狽して、あわてて案をまとめ上げなければならなかった。この案でそれぞれが巧みに利を得る。しかし例えばポーランド大部とフィンランドは露西亜支配下。悲劇は弱者に属する…。

その間にパリに入ったナポレオンはウイーン会議署名国と交渉するも、ラチがあかない。平和を模索したが、諸国は2度目の野望を恐れた。干されるのを良しとしない英雄は再び戦火を開かざるを得ず、6月15日、12万3千の大軍を率いベルギー国境を越えシャルロワに進出。総合戦力戦になった20世紀の概念`動員から開進`までが、実に短期間になされている。

六個師団にあたるから、召集・装備・編成に加え兵站(ロジスティクス)をどうしたのか? 又もや戦費の徴収(税金)に国民はうんざりとして、いくさ疲れであるのに…。素人には謎である。パリからマース川拠点シャルロワまで真っ直ぐ測り230㎞、大砲を引き大人数だから一週間近くかかろう。列車で一気に国境を越える時代はまだ待たねばならない。

いっときナポレオンを見限り国王ルイに仕えていたミシェレ・ネイ将軍が再び先陣に返り咲いていた。だが亡くなった軍事の鬼才ベルティー元帥に代わるスー総司令官は凡庸である。ナポレオン自身はエルバ生活でやや精彩を欠き、体調が十分でなかったようだ。戦いのイメージを描くデッサン力を失っていた。将軍/将官たちも再びのいくさに、実は気合が入らない。しかしシャルロワからワーテルローは鼻の先、30㎞だ。

Waterloo Cor 02
当時スコットランドからワーテルローにはせ参じた一大隊

ウェリントンは万を侍していたのだろうか。アーサー・ウェヅリーArthur Wellesleyが本名だが、輝かしい軍歴・政歴を重ね、ハノーファー朝ジョージ4世からもらった一代侯爵名の方が知られる。彼はウィーン会議のUK全権であり、その前はナポレオン支配のイベリア半島をいわば開放した将軍。大英帝国軍人史上、十傑に入るかも。

スペインで彼に仕えた将官たちは世界中に散り、蘇ったナポレオンに対する大陸派遣軍は新編成でおぼつかない。経験不足の歩兵7万弱、それに騎兵1万4千5百を率いるウックスブリッジ伯。ウェリントンと冷たい折り合いの彼だったが、冷徹な参謀ゆえに礼をもって副司令に請われた人物。これにオランニェ・ナッソウ家ウィレム王子旗下軍とドイツのヘッセンとナッソウ領邦の傭兵軍をくわえた9万2千余の軍勢である。頼みは果敢な豪傑ゲブハルド・フォン・ブルッフェル率いる13万プロイセン軍であった。

ウェリントンは本陣をワーテルロー村に置いた。後にこの合戦の正式呼称としてこの地名を当てたのである。ベルギーやフランスでは別地名で呼び、実際の戦闘地は(フラームスとワロンのチャンポン読みで)ラ・アルテ・サント、ホウゴウモンテ、モンテ・サン・ジャンと言う村々を含む6月のぬかるみが広がるほぼ平らな地域である。

現在ライオンが頂に座る記念碑はオランダ国王に成ったウィレムの寄進。脚に名誉の負傷した彼は思い出の合戦地にピラミッドを築いた。ライオン像までフーフーして上がると、両軍の戦い経緯とそれぞれの場所を俯瞰できる。近くに360度パノラマ合戦図館があり、資料を展示している。

翌16日、ナポレオン7万4千とブルッフェル8万4千それぞれ主軍が激突。いずれも拙攻と間違いを犯し、ナポレオンは1万4千を、ブルッフェルは1万9千の兵を消耗した。ネイ将軍は度忘れ症がたたって、肝心要の拠点を保持できず、この損失に力を貸した。しかし大まかに言って、フランス側の優勢であった。ブルッフェル数個師団はやや西方に後退し、そのままドイツに帰還するかに思われた。

シリアのアサド政権は過去15か月に1万の同胞(市民)を天国/地獄に送り、今ハーグ国際裁判所で進むスレブレニッチャ法廷の3日間殺戮数は約8千。2世紀前の歩兵と騎兵(+砲兵部隊)のクラシックな戦いの半日での戦死数は3万3千である。一世紀後の第一世界大戦に於ける数日の戦死者と比べて、なんら遜色のない数字で驚く。[この数字は本によってかなり異なり、一応手持ちの戦史本の数字をあげる]

ワーテルロー勝利を記念してロンドン中央ウエストミンタ―地区の鉄道駅名がWaterloo(ウォータールー)と名付けられている。1914~1916年、一次大戦・塹壕西部戦線で傷ついた帰還兵によってウォータールー駅は足の踏み場もなかったのである。1800年に英軍運用開始のベーカー銃等から1900年以降の機関銃に至り、大火力技術革新によって戦死数は天をつくようになる。ワーテルロー3日間はその前兆と言うべきマイル・ストーンなのかもしれない。

Waterloo 02

互いに損害を被った両陣営は態勢立て直しのため、17日は休息日にします。エンジンを持つ自動車や石炭でピストンを動かす汽車の無い時代だから、補給が迅速に出来ない。このために休息日を必要とした…。兵たちが眠り休まねばならないのは言うまでもない。

いくさに休みも糞もあるものかと思いがちですが、現実にしばしば起こる。時に遺体の収容も行ったと言う。もっと昔はいくさをしながら畑を耕した…つまり1日でなく半年や1年くらい休息にする。糧食を作って再び始める。そう言う感じ…。それ故に12年、30年、80年戦争と言う名称が存在するのだ。

腹が減っては戦が出来ぬ、と言うのは経験則だ。初日それでも5千の差で優勢勝のフランスは退却するプロイセン軍を追い討ちして更なる打撃を与える機会があった。しかしネイと幕僚は腹が減り、前線でまず夕食を採ったのだ。ワイン入りサパー中に顔を出したのは、追撃が無いので不審に思った皇帝閣下。彼は小さなデッパリ腹を余分に膨らませ、まず呆れはてた。次に腹に力を入れ、雷を落としたそうな。このチョンボをネイは恥じたのだろうか、名誉回復すべく、後述のごとく18日凄まじい奮戦をするのである。

休息日には翌日の主戦にそなえ、各司令官たちの役割とその師団配置を整える。連合軍はラ・アルテ・サント、モンテ・サン・ジャン、ワーテルローと言う南地域に布陣。例えば、左翼にザクセン・ワイマール王子の師団、その背後からウックスブリッジの騎兵師団が後押し。反対の右翼にオランニェのウィレム師団、背後にクリントン/クックス/アルテンの3師団が控える。その間にクリントンと並ぶ連合側一の精強部隊と言われる司令官ピクトンが位置して、ウェリントン自身の予備師団が続く。

仏軍は連合軍を北から抑えるように、シャルロワ/ブリュッセル間に展開。最左翼にピレ騎兵団、第3騎兵団ケレマン。右にナポレオン自身の身内ジェローム・ボナパルテ歩兵師団、中央にエロン伯率いる歩兵第1師団、その後押しにミルハウ騎兵隊と言う布陣。[ジェロームは15才違いのナポレオンの末弟。皇帝の弟ゆえに、その全盛期に要職を務め、現ドイツ・ウェストファーレン公国王職を務め、そのビュルテンブルグ家のカタリーナと結婚している。兄の威光で人生が決まると言う例で、長生きをしている]

ナポレオンは中央突破して相手主軍を撃破し、左右に回り連合軍を挟み撃ちと言う単純な強襲作戦だったらしい。その前に連合軍より4ポンデル(口径単位)勝る大砲で、したたか相手を叩く…。彼は司令官に珍しい砲兵科出身なのだ。砲術作戦に長けていたので、伝統的作戦に望みをかけたのだろうか。中央突破と言うのは常に将軍や参謀を魅了するのだ。

夜半に大雨がふった。軟弱な草原に大筒が難儀する。ナポレオンは10時半総攻撃を13時に延期しなければならなかった。この2時間半が重大な結末をもたらしたのではないか。西に退いていたブルッフェルのプロイセン師団軍が二手に分かれ、主戦場に向かっていた。もしこれがウェリントンと合流すると、仏軍に致命的になる。

展開地図を見ながらこんな風に勝手に書いていると、125年前のボイン戦役や90年後の鴨緑江会戦を連想する。前者はウィリアム3世と義父ジェームス・ステューワートのダブリン近郊の最終戦、後者はご存知の通り日露戦争陸戦の節目。中央突破とあまり関係ないが、砲術が重大な役割を果たすと言う意味だ。技術も時代も違うのだけれど…

Waterloo Cor 01

最後の3日目、6月18日。ろくに知らない軍人名をあげつらっても無意味…。それで省略しつつ書いてみる。ジェロームは歩兵を繰り出し、良く防御されたホウゴウモンテ奪取を試みて失敗。午後一時から大筒が正面敵陣地に準備射撃を開始した。西側面からのビュロー3万部隊が接近。この報を受けたナポレオンは進出を食い止めるためにグランシェ部隊を差し向ける。1時間を見ていたが、実際は4時間かかった。その間にプロイセンもう一つの流れが既に連合軍と合流して、ナポレオンの正面作戦はすっかり弱体化した。

砲弾は雨のためか、予定の2㎞を飛ばず、敵主力の前に落ちた。エロン伯師団の歩兵大隊が大波の連続のように繰り出した。青い軍服の歩兵たちはやや高みに位置するウェリントン側の8ポンデル砲弾に蹴散らされるが、果敢に敵陣に入っていった。接近肉弾戦だ。現代のコンピューター兵士はこのような戦闘を最早出来ない。見えない敵をレーダーで捕捉して、ドローンや誘導ミサイルを飛ばす。21世紀に於いて、肉体と肉体とをぶつけ血しぶきをあげる殺し合いは去ったと思われるが…。

仏軍切り込みを受けたのはピクトン卿の三つの大隊。6745名と言うから、劣勢である。背後からポンスリー卿の歩兵大隊とウックスブリッジの騎兵が割って入り、持ちこたえただけでなく、じりじり攻勢に転じる。フランス側の大波が止まり、やがて彼らは後退せざるを得なかった。しかし、馬がらみの激しい肉弾戦で、ピクトンとポンスリーは戦死。副総司令官ウックスブリッジは砲弾で片足を吹っ飛ばされた。15時、一次攻撃/撃退が終わり、連合軍は仏兵3千を捕虜にした。

ぬかるみの中に馬体と死体の山がかさなり、勝敗はどちらに行くか定かでない。15時半ナポレオンは次の砲撃波を再開。ネイとケレマン将軍たちはそれぞれの騎兵団を再編成して、再び三度出陣した。ウェリントン側の砲と先込め式のマスケット銃の弾幕に、様々な鎧装備の馬軍が突入み、戦況は一進一退した。馬を射撃で失うたびにネイは次の馬に乗り替えた。4頭目を失い、彼が自陣に帰った時は18時だった。

部下の狂気じみた奮戦にナポレオンは驚きあきれ返ったと言う。同時にそれはバスタード(庶子:軽蔑的)混成軍にここまで粘られる驚きであったかも知れない。大将にも元帥にも戦況がどうなのか、良く分からなかったのではないか。なぜならラ・アルテ・サントを保持していたハノーファー国王軍の第2大隊とバロン指揮官は失われ、村を放棄して退却していた。ウェリントンにしてみれば、危機的状況に思える推移である。

19時、既に主戦場に到着して戦闘真っ最中のプロイセンのビュロー師団を助けるために同僚フォン・ザイテン部隊が駆け付る。両軍の消耗は激しく、ナポレオン自身の予備師団は4千に激減していたと言う。彼は中央正面を叩くために、最も訓練されこれまで敗れたことのないヴェテラン部隊を投入する。揉み上げと髭を持つ強力な兵達である。

だがウェリントンも強かだった。中央高みの背後にブリテン予備を秘蔵していた。無傷の濃い緑の軍服をきた精兵は総射撃で青いたすき掛けヴェテラン部隊を迎える。フランス軍はなぎ倒され、戦力をおとし、ついに気力を失うのである。つまり戦うモラルが消える時。雪崩を打って逃げるのである。「戦え、戦線に戻れ!」と絶叫するネイ将軍に耳をかすものはいない。

Waterloo 03
勝利後のウェリントンとブルッフェル両将軍。左下に座り移送される人物は名誉の負傷をしたオラニェナッソウ公ウィレム

20時半、ナポレオンは馬車を駆ってシャルロワに後退。同じ時間、ウェリントンは初めてブルッフェルと会見している。総大将はブルッフェルに感謝を尽くした筈だ。勝利はプロイセンの救助無しで実現できなかったから。19日、シャルロワからパリに逃げ延びるボナパルト・ナポレオンは捕らわれ、三日後にフランス皇帝から退く。百日に一寸満たない天下であった。
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ken minatoya

Author:ken minatoya
Victor Westhoff(1916-2001)碑文Hij observeertからのHNを本名と苗字に先立つ屋号に変更。ウエストホフは生物フローラの相互生息環境を丹念に観察したBiotop概念の先駆者。ザザーッとフィールドを歩きつつ、こぼれ見える外史/雑人/雑草の風景

日本語→英語自動翻訳【星条旗】
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