ライン・ワール・マースの狭間から、草の如し徒然の観察八景。 政ごと/商いごと/言の葉ごと/遊びごと。

Miscellaneous Human History 雑史/外伝

エリザベス・ステュアート 家族と生涯 <ボヘミア編の下-後> [画像追加update版]

フェーラルド・ファン・ホントホルストはユトレヒト派と言われる。ルネサンス・イタリア画家ミケルアンジェロム・メリージ・ダ・カラヴァッジィオに留学中に魅せられる。ユトレヒト派とは言わば蘭リパブリック時代のカラヴァッジィオ影響派と言えるだろうか。
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左;ファン・ホントホルスト作``夕食のひと時…`部分。柔らかな光と影が大胆な構図と共に見事に落とされている。多作画家の数少ないしっとりとした佳作と思う。右は``師匠``ダ・カラヴァッジィオ作。単純に高窓からの光が差し込む人々の集まる場面。こんな扱いによって`光と影`の画家と言われるわけでないのだが…。二つとも色調を抑制し、典型的な華麗なる作品群と異なる。

冬の女王をチェコ綴りで”zimní královna in Czech”と綴るそうだ。今頃のチェコ若人が聞けばキョトンとするだろうか。うまやどの王は聖徳太子か?と言う学術論争に比べれば、10世紀後の山ほど一等資料のある"自分の国”の出来事だから、小中あたりの教科書にのっている筈。一党独裁が消えて早20年、iPhoneやフェイスブック中毒にかかるティーンエージャーはチェコも同じだから、`冬の女王`知名度はサァーどうだろう。

21世紀から見るなら、つまり後知恵の結論は、若夫婦のボヘミア行きは無謀だった。九世紀の前任者カルル大王や14世紀カルル四世の栄光の足元、その爪の先にも及ばなかった。

デン・ハーフ(ザ・ハーグは英語発声)中央駅から徒歩10分、トラムで5分の場所。ここに来るのはビンネンホフと言えば良い。現在の議会と首相執務(小さな塔)建築は左側になる。その向うがBinnenhof(=内庭)、政界ニュースのインタヴュー場所で観光スポット。右側の栃の樹通りは広場/公園で、手前と同じ当時の政庁街であった。
ハーグの池

フェルディナンド2世皇帝が旧教勢力を結集し、プファルツ若殿はボヘミヤ貴族を中心にする軍勢を集めた。しかしドイツ領内の新教同盟軍の支援はなかった。11月8日両勢がプラハ近郊の山地でぶつかった。あたかも72年後にダブリン近郊で起こったジェームス・ステュアート二世旧教軍とオレンジ公ウイリアム三世新教軍との先例であるかのように[補註1]。

戦闘はハプスブルグ軍が常に上位(高い方)にとって戦法勝ちと記述する本もある…。何となく一次大戦でエーゲからイスタンブールを抜け黒海に出ようとした英軍に対するトルコ軍のガリポリ勝ち戦に似ている…。だが、海岸山地のそれもボイン川合戦も壮絶な戦いだった。かたやプラハの実際はあっけない小一時間だったらしい。奇妙で全く信じがたい(ネタ不足で深謝)。時の運に、何もかもに、若殿は見離された。とりあえず、そうしておこう。

彼らは王座とプラハから追われた。エリザベス侍従が赤子である次男ルートヴィヒ(の乳母)を見つけられず、置き去りにして逃げなければならなかった[補註2]。命からがら真っ直ぐ北に逃げ延びる。そこベルリンにブランデンブルグ選帝侯ウィリヘルムがいる。旦那フリードリッヒ妹の嫁ぎ先。相当な借金をオラニェ・ナッソウにしている。頼りないプロイセン領主だが、しばらく頼れる新教の盟友。
左;ファン・ホントホルストの駄作中の駄作と思う。フリッツ本人はこれを見ていない筈。1618年冬の載冠姿の想像図で、安物雑誌のイラスト風な出来である。あるいは弟子の仕事にマアイイヤと言う塩梅かも知れぬ。右;画家はエリザベス次女ルイーゼを描いた。ホルストは子供たち全員に絵を教え、唯一ルイーゼだけがプロ並みの修業を果たした。肖像画家として力量が認められると言う。売り絵を描かず、親戚王族コレクション間に見いだされるそうだ。
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本来帰るべきプファルツ領地は、南隣バイエルン領主にとってよだれの出る土地。ハプスブルグ皇帝軍として傭兵をうごかした旧教バイエルン公マクシミリンが駄賃として実質支配領にする。プファルツが再びフリードリッヒの次男に返るのは30年後のウェストファーレン条約を待たねばならなかった。

1621年の春、ベルリンに腰を温める暇も無く、夫妻は生き延びた家臣250名に伴われ母の里オラニェ・ナッソウ家ハーグに亡命する。領地を失ったが、新教側建前によると、彼はPfalz領主である。リパブリック・オランダは宗主国スペインと独立戦(80年戦争)さなかだから、ハプスブルグ側の領土地図を認めない。

Hofvijver 02.jpg
現在の姿;右が議会、中央のほぼ円錐屋根が首相執務棟。左はモーリッツ美術館。意気消沈のエリザベスとフリッツを迎えたリパブリック総統の名を冠している。こじんまりとした堅牢な建築で、時々話題になる展覧会をもよおす。
>De Vijverhof 02

エリザベスにとって、250人扶持は法外なコスト高である。父親ジェームス(死後は弟チャールズ)からの援助は微々たる額のため、雇員大幅カットし て、オラニェ家助力で何とかやりくりする。最終的住まいは時の国家弁護人と言われたヨハン・オルデンバルネフェルトの邸宅だった。彼は東印度会社を軌道に乗せ、頭領モーリッツを育て上げたオラニェ家の大家老と言うべき人物だ。歴史の常、政争に敗れ断首された。その屋敷が空いていた。

こうして腰を落ち着けると、エリザベスは懐妊し続け、しめて早折込み13人の子宝に恵まれる。亭主フリッツは実質的復位の為に妻の親元や新教諸侯と交渉を続けるうちに、生涯を閉じる。将来を嘱望された元プファルツ領主は当時ありふれた36才で没した。父親と同じ年数で遺伝子に忠実…。健康な上さんをもらったお蔭で賑やかな13人の子供。36にして13人なら、今なら一つの事業である。しかし17世紀に我ありと言う軌跡を残すには運に恵まれなかった。王と付く数限りない歴史に顔出す連中の大半は凡庸な人物である。

優しい旦那が亡くなるとエリザベスは幼子の母親役と同時に、家族と親戚の良き相談・世話役だった。弟ジェームス1世にお気に入りの画家を紹介したり[補註3]、フリッツ妹の14才息子(後のブランデンブルク・プロイセン大選帝侯フリードリッヒ・ウィリヘルムがベルリンから遊学中)の面倒を見たり、未亡人と言うより"ボヘミアの冬女王”たるハーグ生活をしたように思われる。ベルリン/ハーグ/ロンドンの美術館に彼女と子供達、あるいは弟の肖像画を見ることができる。ファン・ホントホルスト二つのアトリエ`本人+弟子`制作が殆どと思われ、ほか欧米の美術館にもまんべんなく掛かっている。

ファン・ホントホルストはエリザベス紹介で1628年にロンドン滞在。チャールズ宮廷に収める仕事をこなす。右はまだ若い風貌の国王肖像画。これなら彼の満足を得られる。故に相応な厚遇を得ている。こうした豊かさゆえに台所が苦しいエリザベスに3500ギルダーと言う大枚を融資。冬の女王と画家は王族と臣民であるが、友のように互いに助け合っていた。彼女自身、絵画に優れた感覚を持ち、その才能は次女ルイーゼ・マリアに受け継がれた。
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長男はアムステルダム近くハーレムセ・メーア湖で溺れ死ぬ。父親フリッツの不手際だったらしい。次男カーレル(=カルル・ルートヴィヒ)三男ループレヒトはリパブリック将官としてスペイン戦に従軍。やがて二人は叔父チャールズ1世に加勢、王党側として各地の戦いで奮戦するも、内戦最後の戦に於いて議会派クロムウェルの組織だった攻勢に敗れる。フランスに逃れ、一つ置きの叔父ルイ14世に仕えるなど軍歴を積み一家を成す。カーレルは後述ミュンスター講和による領地返却を受け、選帝侯として生まれ故郷に帰り15人だかの子供をなす。

ループレヒト(英:Rupertルパート)は従弟チャールズ2世が王に返り咲いた以後[補註4]、母の国に帰化。海軍提督として蘭共和国ラウテル提督軍に対し海戦を重ねた。便利な溝付エッチング具や新型の釣り針を発案したり、趣味をよくする未婚の"発明者”。庶子二人を持つ今風"独身貴族”の先駆をなす。貧乏と縁の無い大貴族、同時に北米との貿易会社`社長`業をこなし、父親フリッツの倍以上の長寿を全うした。運のなかった"冬王”が草葉の影から「息子らはワシの血を引いておる」とニットしているだろう。

独名ループレヒト。生涯独身を通したが、愛するフランシス・バルドとの間に1666年男子1名、1671年にマーガレット・ヒュースとの間に女子を作る。後者はブリテン演劇史の初女役者=舞台女優と言われる。
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1648年、ミュンスターを含むWestfalen地域で80年と30年戦争に関する11の講和条約が交わされた。前者はスペイン・ハプスブルグ対リパブリック組織の長丁場。後者はエリザベス関るボヘミアの戦いから全欧を巻き込み諸段階を経る30年。ドイツの場合2000万人口が1400万 に減少。国土は荒れ廃れ、どん底に落ち込んだ[補註5]。新しい欧州分割が取り決められ、続く1世紀と半分の欧州枠組みをつくることになる。

ブリテンに国を憂える士があちこちに出た。複雑な相互作用、合従連合、新旧キリスト教者入り乱れ内戦に立ち至る。国敗れて山河あり...。身内の戦いと言うのは残虐に満ち、愚かである。ソーシャルネットワークがあれば無駄せずモソットを上手に行ったであろうに…。

ブラディー・マリー(Bloody Mary)を美味いと飲むカクテル好きでも、マリー1世による300名近い聖職者の一挙生き火あぶりを見られまい。「こんな残虐は怒れる新教革命を呼ぶ」とスペイン観察武官がマリーの亭主スペイン王に報告したほどだった。それから百年たっても国教会とローマカトリックの謀略と騒乱事情は続いていた。三国連合の島国は、各国集まるウェストファーレン話に関りながら、つまり大陸で平和への試みが数年以上続いている時、チャンチャンバラバラとドンパチに忙しかった。英語仮名表記で言うウェストファリア条約の翌年、エリザベス四つ違いの弟チャールズは欧州史で偶におこる君主の国逆罪にてロンドンタワー下で断首される(清教徒革命)。

王位に束の間ついだ チャールズ長男が1651年9月内戦の最終ラウンドで敗れた。スコットランドで連合君主国の王として迎えられた彼は南に向かい進軍する。ウォースター郊外セヴァーン河床戦でオリバー・クロムウエル軍に叩きのめされた。フランス海岸にたどり着くまでの彼と重臣との一月余の波乱万丈エスケープは映画ネタになるほど知られる。グレイト・ブリテン(イングランド+スコットランド+アイルランド)は厳格なピューリタン主義者による共和制に移行する。10年近い期間の後半、軍事独裁政権に傾き、人心を失っていく。

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内戦に敗れ捕らわれたチャールズ1世は高等裁判に直面。裁判中、かつての理髪師を望み拒否されたため、髭と髪を伸び放題に任せた。何人にも剃刀を当てさせなかったと言うから立派。黒い帽子は長髪を隠せるわけで無い...何故?といぶかった。思うに彼は既に完全な禿だったと思われる。ファン・ダイク画の三面肖像画から伺える。カツラを被り、その不自然ぶりを隠すために高い帽子をかぶっているのだ。高位の男女が(ブロンドetc)カツラを着用するのはごく普通の習慣/遊びだった。
右の大審問図はクロムウェルの芝居かかった演出を良く伝えている。王を裁くのだから、`正義`を国民に見せなければならない…。帽子をかぶったチャールズの後姿が認められる。彼の前に2名の議長がこちら向きに座り、その背後に大変な数の審判団がやはり被告人に向かい合うように陣取っている。

十年近い内紛が続く。この間に東南アジア貿易とその制海権争いで、エリザベス故郷の島国と亡命先リパブリックとが海戦を繰り広げた。七つの海のリパブリック覇権に対するクロムウェル共和国家の挑戦とも言えよう。新造大型軍船もち英艦隊の優勢でひとまず決着がつきかけた頃、権勢をふるったオリヴァー卿が亡くなる。

弟を天国に送った軍人死亡の好ニュースにつられるように、末娘ゾフィーの嫁ぎ先が決まった。あれこれ迷いようやくブラウン・シュヴァイク選帝侯家の4男坊に決まる。末娘と4男コンビだから苦労少なく仕合せになるだろう。この時、彼女の息子が島国の王に成ろうとは、もちろん誰にも分らない。40年ほど後、ブリテン議会が新教ゾフィーを王位継承者に定める法律を作り、その十数年後にゾフィー息子が島国へ渡りハノーファー朝を開く。

ゾフィーが北に嫁入る前後、ロンドン丸坊主派と言われるピューリタン議会勢力が力を失っていく。手短にいうと、護国卿に登りつめたオリヴァー・クロムウェルの専横に理由があろう。2代目護国卿は議会と軍に力を持たず辞職をよぎなくされ、ここに穏健議会派と王忠誠派による王政復古のレールが敷かれるのである。ロンドン議会からリパブリックのブレダに待機するエリザベス甥に帰還要請書簡が1660年5月半ばに送られる。エリザベスは25日ハーグの海沿いシュヘーブニンゲン村からドーヴァーに向かう甥を見送った。彼は29日にロンドンに言わば凱旋し、翌30日に30才の誕生日を迎え、再びチャールズ二世として立つ。

長生きはするものだ。2度と戻れまいと思っていた`ボヘミア冬の女王`が望めばいつでも海峡を渡れる状況が生まれたのだ。のんびりと気楽にロンドンを訪ねる思いが浮かぶ。47年間の空白がある。甥の暖かい面倒見で、結婚式をあげた広大な白亜宮殿に逗留。春に綺麗に刈り込まれるリンデン/シナノキ冬姿の下を散策、"インブリッシュ・ガーデン”を楽しむうたかたの日々を過ごす。ふるさとスコットランドを訪れ、6才まで育ったエディンバラに近い雪をかぶるリンリスゴー城にも遊んだであろう。

数ヵ月の穏やかな最期の時間がゆっくりと流れる。ほぼ半世紀、冬の女王の生涯が閉じられよう。1662年、日本は四代将軍/家綱治世の寛文二年。冷感きりっとするロンドンの2月13日だった。

【補注】;
1.ジェームスは従兄ルイ14世の支援軍を主力に二万五千を、ウイリアムはデンマーク・オランダ精鋭一万六千にイングランド二万を合わせた三万六千軍勢。戦場は山でなく、ダブリンに近いボイン川。キリスト新旧の攻防戦におけるプラハとダブリンの軍勢比較が似ている。数だけの相似性で言っていけないが、両例とも多勢が勝った。

2.戦のさなか彼を守る乳母または女官が行方不明になったのだろう。使命をおびた家臣が残り探し出し、本隊に追いついたらしい。捕まり処刑されなかったので、ウェストファリア条約で没収された財産返却と選帝侯位返還を受け、ハイデルベルク城に帰還して長寿を全うした。

3.Gerard Hermansz van Honthorst*(1592-1656)。 父親ホントホルストの薫陶を受けイタリーに留学、ユトレヒト派として活躍。1628年弟子と共に海峡を渡り、エリザベス弟ジェームスほか肖像画を手掛ける。40半ばの全盛期に、リパブリック頭領フレーデリック・ヘンドリックやデンマーク王クリスティアンなどから注文があいついだ。ユトレヒトに次ぐ二つ目のアトリエを宮殿のあるハーグに開き、彼自身も引っ越す。多くの門人を擁し、さながら注文に追われる工場の如しだったと言われる。それは作品数から十分に想像される。50近くから仕事と名声を減じたのは恐らく健康を害したと思われる。

4.国王チャールズ処刑は1649年1月。上述のように、息子のスコットランドからイングランドへの巻き返し戦は1651年9月。軍勢16,000は議会軍の半分以下で、散々な負け戦に成った。それだけでなく内戦後期からの議会軍優勢はNew Model Armyと言われる軍制の実現に起因する。ヨーク郷士で下院メンバー、Thomas Fairfaxを初代 NMA司令官として歩兵と騎馬の軍装を新たに、砲術部隊を改良、組織的かつ機動的な戦術と共に、王への忠誠軍を圧倒するようになっていた。

5.死者600万は(異説あれど)ナチ犠牲者数と同じ。時代差を考えれば、この600万はヨーセフ・スターリンの犠牲者数千万の人命に匹敵する大惨禍である。

*本稿は[記:2011-08-02]に画像追加したupdate版。
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ken minatoya

Author:ken minatoya
Victor Westhoff(1916-2001)碑文Hij observeertからのHNを本名と苗字に先立つ屋号に変更。ウエストホフは生物フローラの相互生息環境を丹念に観察したBiotop概念の先駆者。ザザーッとフィールドを歩きつつ、こぼれ見える外史/雑人/雑草の風景

日本語→英語自動翻訳【星条旗】
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