ライン・ワール・マースの狭間から、草の如し徒然の観察八景。 政ごと/商いごと/言の葉ごと/遊びごと。

Here&there lands 雑なるアレコレ大地

極東と極西の二人の英傑 *シュハンスと言う保塁によせて 

キリストの暦1574年は天正2年、信長が40才。オランニェのウィレムは41才。時の極東と極西の政武に於ける二大英傑。尾張から出た信長は既に美濃・伊勢・近江を制し、京都に足利義昭を立て、同盟の家康と合わせ二男信雄に数万の大軍を預ける実力者になっていた。同じように政略と殺戮が茶飯事の`低い土地`では、ウィレムが自治的な地域・都市をまとめつつあった。数ある敵の内で最大の敵は日の沈むことの無い帝国全盛期にあるスペインである。

ペイ・バー(Pays-Bas)は「土地/国が低い」オランダ国を指すフランス語ながら、もともとは現在の蘭/白耳義から北仏蘭西までの海沿い平野部を指したと思われる。北は新教、南は旧教。その細長い低地の北部分の実力者がオランニェ家ウィレムだった。彼はスペインに対し独立戦をしながら、同時にぺイバー内部の政敵と、海向うのエリザベス1世チューダー朝とオーストリア+スペインのハプスベルグ朝、さらにその背後フランス・ブルボン朝、東側に群雄割拠するドイツ領邦諸侯と、同盟と対立の目まぐるしい日常を過ごしていた。

     ウィレム・ファン・オランニェ・ナッソーと織田信長。いずれも知られた肖像画。
     [昨年11月19日項を参照;肖像画ジャンルは日本画史になかった[ルイーズ中編]
    Willem en Nobunaga
     天正10年6月2日(ユリウス暦/1582年6月21日、グレゴリオ暦/1582年7月1日)に本能寺の変。用意周到なクーデターに思われない。光秀の謀反を知り、多勢の敵を目の前に、槍を取りつつ火をつけたとされる。が、遺体が見つからなかった。多くの研究(者)があり、近年の本能寺調査の報告も上がっているようだ。
極東の英雄が没した2年後、ウィレムはデルフトの宮廷に客を迎える。ユニークな市民法を施行するフリースランド・レーワルデン市長アイエンブルフとその妻娘との楽しい昼食だった。会食後、彼は居室部の階上への階段をあがっていった。突然3発の弾丸が発射された。2011年に現場科学調査が行われ、今年初めレポートが発表された。壁の弾痕や文献の遺体状況などの鑑識分析から、有名な`最後の言葉`を発する間もなく即死とされる。暗殺者はフランス人ジュラ―・ベルテサー。ウィレム宿敵のフェリーペ2世側の旧教信奉者。ユリウス暦7月10日の早い午後だった。こうして極西のたぐい希な英雄は華麗なる天上にて、英傑信長の知遇を得る…。

    
  Slag van Mokerheide 05
   Mokersheideの秋。薄く霞んだ赤紫はラテン綴り(ローマ字)でErica属の小木。色味は咲いているやや細長い壺状の花びらによる。この地域のもっとも一般的なエリカ種。壺状を指してドップハイデと言い、この種と一般エリカを指す二つ義を兼ねている。下;合戦図。現代の風景とそっくり重なる

天正2年の4月、ウィレム弟二人が5500歩兵、2600砲兵を整え、独逸領邦からマース川東岸に進出。現在のドイツ連邦と海沿い海岸部との間はスペイン支配または大司教たる糞坊主支配区。これを奪取すべく商いの金持ち連合体オランニェ(=橙≒ミカン)はドイツ傭兵を組織準備していた。新教ドイツ領邦からモーク村まで行軍二日間もかからない。河岸東の高みに1.5㎞広がりで布陣した。スペイン軍は精兵5000と800砲兵で河岸西に展開した筈。戦火を開くまで双方、数日を要したのでは。モーク背後の斜面はハイデ(ツツジ科エリカ属カンボク)地で、後にこの合戦をモーカー(ス)ハイデの戦と呼んでいる。

ユリウス歴1574年(補足1)4月14日、ド・アヴィラとメンドーザ両指揮官によるスペイン軍がマース川西岸から、ローデヴァイクとヘンドリックのオランニェ・ナッソー兄弟指揮による反乱軍横並び陣地に砲火を開いた(補足2)。スペインに対する反乱と言う意味で、言い換えるとオランダ独立軍になる。河岸からハイデ斜面まで距離にして数百メートルだから、当時の砲で届く距離である。マスケット銃(補足3)とサーベルのスペイン歩兵が渡河して、高み``シュハンス``とその一帯に展開する傭兵部隊に迫った。

戦闘詳細は不明。多勢で高みに位置していた筈のオラニェ・ナッソー反乱軍が敗れた。傭兵軍ゆえ戦意不足か? ウィレム公にとって不幸にも、弟2人が討死したから、戦略的惨敗である。

しかし翌五月、海戦でスペイン艦隊を撃破。信長は毛利水軍に劣勢で、例えば紀州抑えに手間取っている。鉄甲板張りの軍船でようやく優位に立ったそうだ。陸と海の連携が天下取りに欠かせなかったわけだ。ウィレムは続いてライデンを奪還。この場面を描いた大作がある。ナポレオン凱旋などの宣伝ぽいイラスト画と違う本物タブローである。

こうして着々と重要な都市を陥落させてゆく。抵抗反乱の兆しは6年前に始まった。数々の戦役を経てきたが、実はほんとの独立までのまだ序盤に過ぎない。1576年にフェントの同盟締結。`低い土地`を結集して広範な対スペイン戦線の構築に成功する。その翌年最大の商都アントヴェルペンを制する。信長の一進一退の政略と長い道のりと比べることが出来る。ウィレム・ファン・オランニェの政治的手腕の輝く時期だったと思われる。1579年アルトレヒトとユトレヒトに於いて北部地域同盟を形成、ほぼ現在のオランダ圏を勢力範囲にする。[確立したのでなく、以降の勢力塗り替えも起こる]

   Vesting en 5 ster Schans
上;草とカンボクに覆われた直径5mほどの窪み。下;ナールデンの五稜郭。

シュハンス(Schans)は保塁で防御的構造物である。砦や要塞よりずっと小規模で、窪みに近い。塹壕的であるが、細く長い堀割状でない。マース川東側に残されている幾つかの遺跡は星形。50m枠に収まる星形凹地である。歩兵百人が陣取ると一杯になる。

シュハンスは砦の小さな変種だろうか。小さな保塁から砦に発展したと考えるのが順序だろう。シュハンスの目的は、敵を中に入れず等しく八方に攻め寄せる敵を撃退すると言うもの。防御施設だから、鋭く入り組んだ五角形態が有効と考えられる…。規模が大きくなり内部に武器弾薬・兵糧を持つと要塞になる。

     120929 B-1
     上図;ジグザグは塹壕の基本形。下;秋の山歩き。1次大戦の防御の塹壕が走る。


火力の破壊力が増す時代になると、身を隠す必用から、これが深さを増し塹壕に発展したと思われる。初め孤立した穴だったが、それらが連結され、歩行連絡/移動通路に昇格する。第一次世界大戦は世にも恐ろしい大規模塹壕戦である。19世紀半ば、血みどろのアメリカ内戦に於いて睨み合い戦で塹壕が本格化。そしてその有用性が証明された。20世紀初頭、日本が関わる日露戦争に於いて戦場の常備部隊として塹壕工作班を欠かせなかった。旅順203高地あたりは攻撃用塹壕で一杯になった。高地を制するため塹壕から打って出た日本兵屍が山積みになったのだが…。

モーカースハイデ五角保塁は塹壕の原初的形態を残すと言って良いかも知れない。この古戦場は戦後1950年代、自然保護地に指定されている。元々カンボク=ハイデが多かったのだろう。画像で見るように現在はエリカばかりの専用自然地として管理されている。3カ所がやや離れて並び、主戦場になった南の面積は4世紀余前と同じ60㌶。自然めぐりの人々によって30㎝の堅め道が出来て、星5つの鋭角先端がやや高いから、シュハンス五角形を認めることが出来る。

Mokersheide corr 01

草とエリカの合い間あちこちに、直径10センチほどの開口部が見られる。長い耳をピンと立てる茶色のハース=野兎(兎仲間の別属)の出入口である(補足4)。内部は複雑な迷路で、ハースは自由に出没できる。敵になる狩人とその猟犬から身を守る塹壕に当たろう。


[補足]:
1.ローマ教皇庁による暦法転換、ユリウス→グレゴリオはモーカースハイデの戦いの8年後。実際にカレンダーが変わった年度は国によって異なる。しかし人類誕生以来、天体運行と実際とを整合させるため多くの歴法が考えられ組み合わされ、歴史上たいへん複雑になっている。ユダヤ歴もイスラム歴もどこぞの地方歴もあるそうだ…。天正2年当時の日本の4月14日が欧州ユリウス暦のそれと同じ日であったかどうか、私には不明。欧州に限れば、現在のグレゴリオ暦から11~12日を差し引いた日がユリウス暦の`同日`になるのでは…。エジプト歴であれ天照大御神歴であれ、ユリウス暦a年b月c日とグレゴリオ暦x年y月z日とは、事象同士の関わりが無ければそのままそっと21世紀の同日に受け取っていいのでは…。新選組の事件や輩の誕生日についてユリウスとグレゴリオ云々しても始まらない…。

2.Bernardino de Mendoza フェリーペ2世軍指揮官。オランダ独立戦争は別に80年戦争と言われる長丁場。宗主国スペインから総督・外交官・軍人が入れ替わり立ち代わり低い土地に派遣される。メンドーザは1572年ナールデン反乱時の指揮官。保塁要塞に避難し降伏した市民が彼のマスケット銃隊400名によって皆殺しされた。その後、街の略奪をおこなった。メンドーザは攻撃を受けたので反撃したと国王に報告。その星形要塞は2重堀と2重壁からなり、現存する欧州五陵郭の代表で最も美しい。19世紀半ば建造の函館五稜郭の間接的なモデルであろう。

3.マスケット銃の原型は火縄銃で、火薬入り銃弾を先詰めにして火縄点火でぶっ放した。現代からすると、装填に時間がかかり、雨天だと使い物にならず、命中するかどうか分らない代物だった。しかし火薬による個人携帯飛び道具の出現はそれを持たない敵に圧倒的有利をもたらした。天正3年、織田と武田の決戦・長篠の戦に於ける織田側大勝は火縄銃千丁の威力だとされる。2世紀余たった19世紀初めのマスケット銃は改良された近代筒だったが、行進太鼓に合わせて歩兵は胸を張って敵に前進した。嘘っぽい逸話であるが、敵の放つ銃弾が殆ど当たらず、恐れる必要がなかったとか…。その頃は既に銃剣が運用され、剣の部分が実質の殺傷手段になっている。

4.haas/hase/hareと似たものどうし蘭独英ではエリカに住む野兎の肉は極上品。穴から穴へ敏捷に走る野獣だから値打ちがあるそうだ。スーパーマーケットに暮れに出るハーゼは眉唾物…そんなに数が揃うわけがない。ハイデに近い地元肉屋なら信頼できる。 

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ken minatoya

Author:ken minatoya
Victor Westhoff(1916-2001)碑文Hij observeertからのHNを本名と苗字に先立つ屋号に変更。ウエストホフは生物フローラの相互生息環境を丹念に観察したBiotop概念の先駆者。ザザーッとフィールドを歩きつつ、こぼれ見える外史/雑人/雑草の風景

日本語→英語自動翻訳【星条旗】
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