ライン・ワール・マースの狭間から、草の如し徒然の観察八景。 政ごと/商いごと/言の葉ごと/遊びごと。

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Politics and economics 政治/経済

ベルリンの壁  50年記念日 

        Berlin toren

今日のドイツは何時からある?
日本が明治維新と言う自らの力で成し遂げた近代革命を持つように、ドイツもそれを成し遂げた時期がある。それをこの塔が示している。

と書くと、ドイツは日本のように古代弥生時代からほぼ単一民族として今日に経った"珍しい国"になってしまう。だから、ドイツが日本のような一つの国民国家になったのは勝利の搭と呼ばれる上の記念碑を作った時代だと言う筋で考えてみます。それが幕末から明治維新と重なる時代であるのは注目される。

ドイツ(Deutsche)と言う概念はドイツ人、またはドイツ語でしょう。ドイツ語を話す地域はイタリアにもベルギー/ポーランド/チェコにも、そしてオーストリア/スイスにもあります。すると彼らはドイツ人?彼らはドイツ人であるより、それらそれぞれの国人であり、またバイエルン人やザクセン人プファルツ人と言う気分ですね。何処を探しても21世紀の連邦国家にまとまったドイツ人は存在しなかった。

30年戦争はボヘミアにエリザベスとフリードリッヒ5世が行く前後に始ったとされ、彼等の敵は同じウェッテルスバッハ家のバイエルン人。同じ言葉を話しながら、このようにして19世紀半ばまであっちこっちに勝手な政治勢力が21世紀連邦国家領内に右往左往していた。長靴半島はもっとチリチリバラバラだったかも…。足利政権崩壊後の下克上など弱肉強食の戦国時代と比べると分かりやすい。

ボヘミアから逃げたエリザベスとフリードリッヒ夫婦の疎開先がブランデンブルグ選帝侯と言う貧乏領で、隣のポーランドや北海超えのスエーデンに頭の上らない領邦でした。半世紀たち、やはりフリードリッヒ言う息子がオラニェ・ナッソウからFヘンドリックスの娘ルイーゼをもらい、発奮して頑張り、独立独歩の常備軍を持つ政体組織にします。それゆえ大をつけてグローシェ・フリードリッヒと呼ばれます(王国昇格後のフィリードリッヒ大王は子孫)。彼はただの選帝侯より格上の辺境伯になり同時にプロイセン公を兼ねます。つまりBrandenburg-Preußens と言う大きな勢力になるわけです。いわば戦国時代の関東一園を制する感じでしょうか。

2世紀近くを飛ばして、バラバラ勝手なドイツ語圏をまとめようとしたのが大フリードリッヒの曾々…孫ウィリヘルム1世を戴くプロイセンです。大砲と兵隊(鉄と血)が要ると議会演説した鉄血宰相ビスマルク、近代参謀制の権化のようなモルトケ、それに戦場の大将ローンの揃ったプロイセンは1864年デンマーク戦、1866年オーストリア戦、1870年フランス戦を動員・侵出・展開と電光石火に勝ち続けます。

三つ勝利記念が上の96m高の搭です。もともと50mで、のち総統ヒトラーが引越しと同時に継ぎ足し現在高になった。その余分を差し引いて考えます。ベルリンに立つのは現在の一つ国家の首都だからではなくて、近代軍政によるその時点で世界の最強軍が出た"その"地元に他ならないからです。これら三つの勝利によって、現在のような(緩やかな連邦制とは言え)一つのドイツが始めて成立する。日本明治維新の"役目"を三連荘(レンチャン)の勝ち戦に重ねるゆえんでございます。

ドイツは新参国家も新参すぎると思いつつ、昨日サテライト映像を見ていました。映像は珍しいベルリンのど真ん中。陸上競技の2つの種目を数か国選手が国別に争う。棒高跳びと走り幅跳び。場所は上画像左の塔からまっすぐ1キロmほどブランデンブルグ凱旋門に歩き、門を潜り抜けた場所。

       Berlin 01
         ブランデンブルグ凱旋門と手前の広場 勝利の搭は門の向こう側

150m四方に近いパリーゼル 広場と言うと思います。そこに助走路2本を敷き、三方に観客スタンドを設置した仮設競技場です。陸上競技もアトラクションになった、と言うに留まらない意味があるのでしょう。種目別に、またはスポーツ別にこうした催しを主なる記念行事の一環として行う趣向です。参加選手にも陸上競技そのものにも記念行事主催者にも、むろん観客/市民にも、全ての関係者にメリットがある。

陸上競技で、一流選手を集める欧州首都大会シリーズに於いて種目別の総合勝者になると金の延べ棒一つが特別につきます。多額の賞金によってスポーツを奨励すること。あるいはスポーツに精出すことは商いで儲けるのと同義と言うこと。インターナショナルなレヴェルならテニスやフットボールのスターに引けを取らない収入だそうだ。

IOCブランデージ委員長を覚えている方は多いでしょう。オリンピックのアマティア精神を唱え、コマーシャル活動でかせぐスポーツ人を排除しました。貴族的傲慢か理想主義か? 時代はかわり、礼金/賞金/金の延べ棒が当たり前になった。人の為すトップ・スポーツとは特上ビーフステーキにかぶりつく為に疾走するドッグレース…。なら、コロッセアムで戦う格闘士のローマ時代から変わっていないと言うことだ。

      Berlin 02 
        バーは5m50cmほど、こんな棒高跳びを見たら、ここに凱旋したナポレオンが腰を抜かす

      Napoleon 1806 10 27 Brandenburgtrum
       1806年10月14日ナポレオン軍はテューリンゲンJena/Auerstedt会戦でプロイセン軍を壊滅す。
       27日ブランデンブルグ門を12万大軍が凱旋。フランス革命後ナポレオン負け知らず黄金期。


1961年8月13日に「ベルリンの壁」建設が始まった。西ベルリンを隔離する環状壁である。今日が50年目にあたる。ブランデンブルグ門のアトラクションはこの記念行事の一つである。焦点の定まらないサテライトニュース画像で恐れ入ります。西ドイツ米空軍基地から西ベルリンの小さなテンプルホフ空港への未曾有の大空輸作戦が軌道にのり、2年後にJケネディー大統領がチャーリー監視所に上がり、左右に伸びる壁と東ベルリ域を視察しています。「ベルリンを決して見放さい」決意をのべた演説は冷戦史の一里塚である。

17年後の1978年春に、私はこのパリーゼル広場界隈に不必要に長居した。東ドイツ域をブラインドを閉じた「目隠し列車」で通過して西ベルリンに入った。西側市域の路端にシャクの白い花が咲き誇っていた。チャーリー監視所に近い通行口から東側に入った途端に、空気がヒンヤリとしたのを覚えている。

3度の改良を経て、既に無人地帯を備えた壁は共産主義と民主主義を完全に分ける強靭な構造物に思えました。西側観光客に許されたテレビ塔(初めの画像の右側)からブランデンブルグ門までの一帯に、なぜか白いセリ科の雑草が目立たず、その代り数名単位の警察または軍人監視要員がところどころに目立つ。多くないが、家族つれや若いカップルが日曜日の陽射しを楽しんでいる。太陽があるのに、ひっそりと淋しい風景。訪れた人々と会話を交わすのを避けているようにも感じられる。<

観光客に飲食を提供するレストランとカフェーが軒を並べていた。正確な場所がどこだったか、覚えていない。先年どこか見つけようと半日歩き回った。おそらくアレクサンデル・プラッツあたりだったのだろう、いまは様変わり、、残念。

     Berlin 03
       大フリードリッヒの都市作り:このまま行くと美しい並木路ウンテル・デル・リンデン通り

賑わっているレストランで軽い食事をとりながら、印象をスケッチしていた。そのころ写真代わりに何処でも何でも直ぐにスケッチしていたのです。鞄に何時もただのA4紙をいれ、首に3本のボールペンをぶら下げて、ちょっと時間があれば手早く描いていました。ビッテと声をかける人がいて、見上げると主人が店内を描いてほしいと言うんですね。

しばらく引っ込んでいた蝶ネクタイの彼が持ってきたのはA3サイズの分厚い殆どスケッチブックに等しいサラッピンなんです。どうやら何かの会に使う参加客人サインブックのようです。滅多に長い時間をかけませんが、この時は1時間くらいかけ、3本持っていたマーカー(イラスト用マジックインク)もポイントに用い、客で賑やかなインテリア様子を描いたんです。

彼はひどく喜んでくれ、フルコースをワイン付きで供してくれました。小さな東洋人にとても食べきれない量で、左党の私はもっぱらワインをいただき、出てきた端正な表情しかしアマゾネスの上さんの独英チャンポン話を聞かせてもらいました。額に収め飾るのよと言うので、イヤ殴り書きスケッチだから勿体無い、と頭をかいたり白ワインをすすったり…

飛んだハップニングの後、東側出口棟を通過しようとしました。すると事務所に呼び込まれ尋問され、さらに奥の別室で真っ裸にされました。後で西側警備員から聞いた説明は;時々被害にあう人がいる。東側警備は飾りでなく真面目に役目を遂行している。本音は観光客の残り東ドイツマルクは言うまでもなく、ハードカレンシーである西ドイツ・マルクを強制的に出させる目的だそうです。

観光を楽しめる自由な西側人に対する、言はば嫉妬と嫌がらせと言う説明です。そしてパスポートをみると滅多にない日本人、おまけに東側で高価なアルコールを飲んでいる。とっちめてやらねば気が済まん!

個人的体験とはいえ、ちょっと出来ない体験かなと思います。あのレストラン夫婦が壁の無くなった今、どこにどうしているのか? 殴り書きスケットチを今でも持ち続けているのだろうか…。あるいは既に天国で寛いでいるかも知れない。左様な小さな個人的`歴史`を、どなたも人生に経験するんでしょうね。

[記:2011-08-14]
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ken minatoya

Author:ken minatoya
Victor Westhoff(1916-2001)碑文Hij observeertからのHNを本名と苗字に先立つ屋号に変更。ウエストホフは生物フローラの相互生息環境を丹念に観察したBiotop概念の先駆者。ザザーッとフィールドを歩きつつ、こぼれ見える外史/雑人/雑草の風景

日本語→英語自動翻訳【星条旗】
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