ライン・ワール・マースの狭間から、草の如し徒然の観察八景。 政ごと/商いごと/言の葉ごと/遊びごと。

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Nostalgic Melody&Film 懐メロ&フィルム

泉にそひて、繁る菩提樹、慕ひ往きては、、 Bodhi ≠ Linde [そのⅢ]

三つとも同じように見える。そりゃーそうだ。リンデンバウムことシナノキ仲間の欧州自生樹だから。隣にもし植物園のように菩提樹が並ぶならば、誰が見てもそれぞれ温帯と(亜)熱帯に育つ明らかに異なる木々だと一目瞭然にわかる。しかし昔の山野に於いて互いにまじりあって共存しつつ、仲良く睦みあってきたナツとフユ、そして彼らの子になるオランダリンデの三つに慣れ親しむには少し時間がかかるかもしれない。日本列島に自生する仲間でやや小型のシナノキやヘラノキと、どこか表情が違い、微妙な個性をしめすリンデ達。本稿最下段にこのクローズアップを掲載。きっと欧州リンデ三つの区別を看取されるかもしれない。
Zomer Hollande Wintel 06 Takken Klein


泉に添いて 茂る菩提樹
したいゆきては うまし夢見つ
幹には彫りぬ ゆかし言葉
うれし悲しに 訪いしその蔭
訪いしその蔭

この詩(ウタ)は近藤朔風(コンドウサクフウ)の訳詩。本名を逸五郎と言い、1880年(明治13年)東京で、但馬藩儒家系に生まれる。東京音楽学校に1901年から、東京外国語学校に1902年からそれぞれ在籍。音楽と欧州諸語の組み合わせ故に、五七の格調を持つ素直な訳詞を産み出した逸材である。

原詩は Johann Ludwig Wilhelm Müller (ヨハン・ルートウィッヒ・ウィルヘルム・ミューラー)の12篇を含むWanderlieder von Wilhelm Müller詩集から。ウィリヘルムのさすらいの詩…左様な題名である。彼は近藤に先立つ86年前にデッサウに生まれている。

さすらいの旅で詠われた12篇を読み、歌曲に仕上げたのは Franz Peter Schubert (フランツ・ピーター・シューベルト)。フランツはウィーン郊外でミューラー誕生の3年後1797年1月末に生まれ、10才頃すでに音楽の天才素養を示した。上の和訳歌詞のメロディーは Liederzyklus (英;Song cycle=歌曲)分野に属し、晩年の作品。ウィリヘルムによりさらに詠い足された12篇を加えた計24篇の連作歌曲が一般に知られる。

古木、巨樹のボダイジュがネット上のパブリック・ドメインに多く紹介されている。仏教の聖なる象徴だから当然と納得できる。とは言え、日本や欧州で見られない樹木だから、私には少なからず驚きである。
Bodhitree vier photos 340KB
1852年のドイツ出版物に写実画が掲載されている。菩提樹は欧州(知識)人にとってモンキーパズル(ナンヨウスギ)と同じように、熱帯の珍しい大木として知られていたと言うこと。VOC(蘭・東印度組合会社)を通じて、つまり平戸/出島から江戸期の本草学者に知られている可能性はあろう。日本は仏教国家だから、余りある理由がある。


日本/ドイツ/オーストリアの三人を廻る小話。ウィリヘルム・ミューラーから始めよう。
ミューラー生地はエルベ沿いの小さな街・デッサウ。デザイン史を習った人なら、近代建築とデザインの発祥・バウハウス学校の地として知っているだろう。ベルリンの西南100㎞、ライプツィヒの北60㎞ほどに位置する。ほぼ生涯をデッサウに生きた詩人はナポレオン戦争末期1813-1814年にヴォランティア兵役に就いたらしい[補註1]。デッサウのギムナジューム後、ベルリン大学・文学(文献)部に入った頃の若い祖国愛…、ヴォランティアだから後方兵站の手伝いをしたのかも知れない。

ミューラーの生年は1794(寛政6)年。12篇は1820年前後、26~7才の作品になる。19世紀初めならやや遅い青年期になるような気がするが、12篇の内容と言うかモティーフは17~8才以来の旅の経験を含んでいると思われる。二十ほどの若さゆえに放浪するのか? 若いにも拘らず、さすらう余裕があったのかも知れない。ひっきりなしに欧州を揺るがせ200万の兵を消耗したナポレオン戦争が片付いた1814年、ウィリヘルムはベルリンの学業にもどる。そしてバイエルンあたり南ドイツからイタリアへの(さすらい?)旅に出ている。見知らぬ土地と人々との出会い。あるいは孤独な旅の経験が熟して「冬の旅」を含む作品群に結晶したのだろう。

一見ロマンティックでありながら、何故`冬`か? やや暗い黙示的気分が感じられる。遍歴詩編は彼の頭の中で編まれた政治社会的な`さすらい`、言い換えれば世相へのエンゲイジメントであるまいか。最初の12篇「冬の旅」は1821年上梓の作品集 Den hinterlassenen Papieren eines reisenden Waldhornisten (旅する角笛吹きの遺稿)中の77作品に含まれると言う。`遺稿`は朔風の訳に忠実に反映されている(後述)。

朔風が菩提樹と訳したドイツ語彙はDer Lindenbaum。`リンデの木`と言う意味でシナノキ属の仲間である。それは↓のようなコラージュ画像とその前後のキャプションで追っていただきたい。初めの組み写真と↓とのパット見ですら、菩提樹とシナノキとの違いを直ぐに理解されるだろう

ナツオランダフユ 樹形一般比較 03
ミューラーが詠い、シューベルトが曲付けした Winterreise (ヴィンテルライゼ=冬旅)の第5編 Der Lindenbaum は上三つの樹木一般名である。ミューラーがデッサウで普段せっしてロマンを感じた樹種は真ん中のオランダリンデであろう。既に17世期以降、人の住むところのリンデ殆どは野生/自生種でない植えられたリンデであったと思われる。大葉のナツも小さな葉のフユのリンデも、村内の小さな通りや隣村への街道の両側に植えられた。しかし街路樹や公園などに植えられるリンデは殆どオランダリンデになってゆく。苗木の生産性において、両親よりその子が遙かに優れていたのだ。[補註2]。中央の街路樹根っこに陽射しに照らされた緑のこんもりが続いている。これがオランダリンデたるヒコバエ/勢いある萌芽軍団である。

フランツ・シューベルトに関する音楽的研究は巷に溢れている。左様な天才がウィーン界隈に何人もいて、互いに交わったと言う事実に、ホォーッと興味を覚える。フランツには交響楽/ピアノ曲/歌曲/歌劇など膨大な業績があり、恐るべき才能に驚嘆する。神は天才を創造する一方、凡人も大量生産する。凡人の友人たちが10代少年期以降の天才を支え、貧しい青年期を助けのだと言う。

歌曲のカも歌えぬ輩にも、上のリンデンバウムのメロディーは綺麗に響く。それ以上の音楽的知識(常識)に欠け、何も分らない。ウィリヘルムは幾度か推敲して、最終的に三節に収めたように思われる。3つの筋と言うか、イメージからなり、旋律は一つの節の半分だけである。後半分は同じ旋律を繰り返す。つまり三節六部と考えると、6番まである歌詞と言うこと。朔風の和訳にも6番まであると思われるがどうだろう。

歌曲の天才、そんな表現を見つけた。しかしリンデンバウムとほか11篇、さらに書き継がれた12篇の旋律が5~6行の詩文に対応するだけなら、音楽作業量は多くない。それは歌謡曲の作曲家の仕事に等しい。Song cycleと言う概念は即ち、歌謡曲/ポピュラーソング/フォークソング…と言うことではないか。交響楽を楽譜に書きつける創造力と作業量は、ソング・サイクルのそれらと比較できないだろう。長丁場の集中力と全体構想、メリハリ/バランスなど、並みの歌謡旋律ごときの作業量でないと思われる。

Zomer Hollande Wintel

欧州に三つのリンデンバウムあり。樹形から見当つけられる場合もある。葉や果実の様子からだいたいわかる場合もある。真ん中のオランダリンデは左右のナツとフユを親とするために、様々な個性をもつタイプが現れる。図鑑に記述されるのは標準的と言うか、典型的な特徴である。さような優等生的なそれぞれが無いわけではない。しかし実際のフィールドにおいて、まず優等生にお目にかかれない。世界の植物園は互いのネットワークで、コレクションを融通/交換し合う。多くの場合、昔から育て続けた優良系である。あるいはその植物園の固有形質をもつ言わばシリーズ個体である。戦後の日本に欧州三つのシナノキ、すなわちリンデ種がポツリポツリ導入されている。半世紀を経た定植個体がある。環境/気候の違う日本で成木として見られる樹齢であるから、どのような表情なのだろうか。


ボダイジュとシナノキが別の木であるように、交響楽と歌曲は別分野である…と言う論がありうる。シューベルトはいずれにも才能を発揮した…。並外れた音楽頭脳だから、いずれも出来る、と私は考える。長くて10数行、たいてい3~8行詩に曲を与える歌謡作曲者が10~100分に及ぶ`音楽`を作れるとは思えないから。

もう一つ、余談だが、歌謡曲作りは運よくヒットすると印税で稼げるが、交響楽作りで儲けるのは難しい。クラシック・コンポーザーなる職業は存在できず、その代り彼らは指揮者/(宮廷)音楽官/音楽教育者として生活する。シューベルトの場合は理解者/ファンの支援と資産家/スポンサーによっている。凡人たちのお蔭で、世界はシューベルトを味わえるのである。


童は見たり 野中のばら 清らに咲ける その色愛でつ あかず眺むる 紅におう 野中のばら 
「野ばら」歌詞。原詩は二十すぎ若きヨハン・ウォルフガング・フォン・ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe)がストラースブルク大学在学中に詠んだ叙情詩。近村の少女との恋を詠った愛の詩。100を超える作曲作品があるそうだ。日本で良く知られるのはシューベルトとウェルナー[補註3]のメロディー。音楽とほど遠い私すら、いずれを耳にしても、あゝと懐かしい気分になる。熟年世代殆どの方が二つとも口ずさむめると思う。

Heidenröslein(≒ハイデに咲く可愛いバラ≒野バラ)を逸五郎(朔風の本名)は幾篇かの訳詩に試みたのではないだろうか。彼は明治政府に尽くした但馬出石藩(豊岡)高官の息子で、やはり良家で叔父叔母に当たる近藤家に12才で養子入り。恵まれた環境に育まれ、語学/美術/音楽を一つの器に収めた人物。ゲーテと同じ教養人と言えよう。ハイネの`Lorelei`にせよ、ミューラーの`Der Lindenbaum`にせよ、ゲーテの`Heidenröslein`にせよ、`相応しい訳詩家に巡り合ったことになる。

ナツ オランダ フユ 樹形一般比較 02
左右の両親リンデは15~20mの距離で撮影。子供オランダリンデは50~60mの距離から。ナツの胸高直系は60^70㎝、戦前にこの農家`おばあちゃん`が左右にフユとナツを植えた片方のナツリンデである。幹回りはそれなりだが、背丈は10mほどに過ぎない。右のフユは株立ちの10本ほど束の一つ樹形の姿。太いのは直系20㎝ほど。真ん中の個体は根っ子に出る筈のヒコバエが見当たらない。葉表情と果実さらに樹形と樹高はオランダリンデの特徴にかなっている。80%オランリンデと言うことにしよう。

1884年、22才牧野富太郎は四国・土佐から上京、東京帝国大学理学部植物学教室に出入りを許された。桜井逸五郎は4才になっていた。草本観察と標本採集の鬼・牧野は教室の教授/助手と同じようにインド熱帯樹木名・菩提樹を知っていた筈。だが日本分類草分け期の彼等に実物に接し採集する機会は無い。古来から寺院に菩提する樹木があり、それで十分だったと思われる。シナノキ属とイチジク属とをごっちゃ混ぜにしていたと言わないが…、他にすることが山積し、手が届かなかったのだろう。逸五郎の例えば二十の時、事情が変わったわけでない。彼にとっても、少壮植物学研38才牧野にとっても、菩提樹は寺院の木であり、盆や冠婚葬祭にお目にかかる樹木であり続けた。

逸五郎は知識人だから、望むなら直ぐに菩提樹≠シナノキを理解した筈。だが富太郎も逸五郎も列島に隔離された日本人に変わりなかった。法事のたびに顔見知り和尚が経を唱えに来る。何かある度にお布施を出し、村や街の我`寺`を維持しなければならない。檀家でない家は存在しなかったのだ。全国隅々にある寺は治世システムにくみこまれ機能していた。日常は仏教即ちお寺さんと不可分だった。知見として知る分類学上の異なる二つの木々がオーバーラップして、いつの間にか一つに合体していた。21世紀ネット社会の今から振り返ると、左様な屁理屈っぽい説明が私に精一杯である。

朔風訳のリンデンバウム歌詞ヴァリエーションが幾つあるか不明。もっとも用いられるのが冒頭にあげた版であろう。ウィルヘルムの言葉を美しく朗々と訳し、原詩[補註4]に在るように一節目二行目に一度だけ出てくる題名Der Lindenbaumに漢語`菩提+樹`を当てている。私が何度も繰り返す「サンスクリット語を音写した漢字で、釈迦の悟り(根本思想)+樹」と言うこと。朔風は誤訳を堂々と犯したのである。

回り道して、元の3節を行ごとに移してみる。I am a boy→僕は一人の少年である。このような一行単位で音韻含みの詩を機械的に訳し下すのはナンセンスである。しかし朔風がここから和歌的なリズムに代えて綺麗かつ忠実な`和訳作品`を産み出した経緯を想像出来よう。

1.門前の泉の傍に 一本のリンデが立っている その陰で物思いにふける 沢山の甘い夢 幹に文字を彫り刻む 多くの愛に溢れる言葉を [補註5]

2. 喜びと悲しみ いつも私の心に在る 今日は歩かねばならない 夜のしじまを超えて まだ暗闇のままなので 目を閉じて 枝のざわめきを聞いている 彼女が私を呼んでいる 旅人よ 私のところにおいで ここに安らぎを見つけられるのよ

3, 冷たい風が吹く 私の顔に 頭から帽子が飛ばされていった 振り向くことさえ出来なかった いま私は何時間も あの場所から遠ざかっている 私はいつも時間にせかされている あなたはそこに安息を見つけるの あなたはそこに安息を見つけるの

因みに朔風の2番と3番はこう歌い上げられている。
2.今日もよぎりぬ 暗き小夜中 真闇に立ちて まなこ閉ずれば 枝はそよぎて 語るごとし
 「来よいとし友 ここに幸あり ここに幸あり」
3.面をかすめて 吹く風寒く 笠は飛べども 捨てて急ぎぬ はるか離りて たたずまえば
 なおもきこゆる 「ここに幸あり ここに幸あり」[補註6]

我流の一行語彙訳と完成した朔風訳を比べて分ることは、朔風が原詩3節6部を巧みに半分にしていること。原詩の雰囲気をとどめながら、意訳と言うか、抄訳を実現している。先述した6番までは従って作らず、3番で打ち止め。教育唱歌でも一般歌謡でも、現実的な提示である。

ミューラーの原詩を恋に破れた若い旅人の12篇連作とすると、その一つデル・リンデンバウムの朔風訳は十二分に主題を伝えていよう。12篇を含む計77の立派な詩集の題名は「旅する角笛吹きの遺稿」である。詩人は死者の残した詩の数々と言う含みをこめている。言わば舞台設定、あるいは背景になるイメージ。朔風「ここに幸あり」リフレインは実は主人公わたしが冥途(=天国)で得た心の充足だと解するべきだろう。

「嬉し悲しに」訪ねる木陰を作るリンデの木。そのリンデが「旅人よ 私のところにおいで ここに安らぎを見つけられる」→「こよいとし友 ここに幸あり ここに幸あり」と呼ぶのである。手短に言えばリンデンバウムたる擬人が旅人にここに来て自死するならば、平和な安息の日々を得られると誘っているのだ。

研究者はむろん承知だろう。けれども歌曲を愛し歌う人々はどうだろう?知る人は知ると言う塩梅かも知れぬ。朔風は遺稿集のテーマを忠実に訳していると先に述べたのはこの理由に他ならない。これを彼は理解した上で、唱歌/歌曲の和訳作品にしあげている。おまけに強かな誤訳`菩提樹`を、皮肉れば`何くわぬ顔で`実行して、2次大戦を超え遙かこんにちまで人々に「ボダイジュってシナノキ仲間なんだよ」信仰を植え付けてきた。

果実について;ナツリンデは8~10㎜、外壁が厚く親指と人差し指でまず押しつぶせない。ヘラ状笠中央から出る果柄に付く果実個数は平均3個。4個や2個も見かける。5個を超えることはない。フユリンデの果柄先端は数本分岐し、合わせて5~12個を付ける。直径平均5㎜。小さいので簡単に両指で潰せる。アイノコ=ハイブリッドリンデの5mmサイズ果実をまず見ない。それ以上から10mmまで個体(業者手持ち)によって様々、個数も同様バラツキが見られる。
Tilia 3 spaces nog niet mature Fruits klein
こうして三つリンデの果実たちの差を観察できる。菩提樹の果実は日本亜熱帯(沖縄など)に自生するイチジク属と似ている。オオイタビ/ヒメイタビ/イタビカズラなどの可愛い小木や蔓植物に八百屋店頭イチジクを連想する果実が付く。釈迦の菩提樹果実も食用になると思われるが、どうだろう。もしそうなら、有難い功徳を得られるに違いない。


朔風に50篇近い訳詩があるそうだ。酒が好きだったらしく、それなら訳業で食って行けまい。生業は教師や役人だったのかもしれない。ハインリッヒ・ウェルナーが生業の音楽教師をしたようにダ。功成り名遂げた88才の長寿をまっとうした父・桜井勉に対し、逸五郎は1915(大正4)年に病没。好きな酒が原因らしい。35才だった。

デッサウ生まれのミューラーは、ベルリン大学を出て間もない頃、トルコ圧政下に在るギリシャ・シンパシサントとして名高かったらしい。政治的関心と文学+音楽的素養が`冬の旅`主題の土壌になっているのであろう。ベートーベンに先立つ半年ほど前の1827年3月に、(多分)不治の病・結核で亡くなった。

ハインリッヒ・ハイネやゲーテに並ぶべきも無い並みの詩人と言う評価がある。しかしシューベルトとの`共同作品`冬の旅`によって名を留めている。作詞なければ、歌曲はあり得ない。彼はほぼ生涯一貫してデッサウに住み、郷土偉人と言うべきだろう。享年33才である。シューベルトの`野バラ`と伍する旋律の作曲者ウェルナーはミューラーの6年後に生まれ、その死のきっちり6年後に亡くなっている。彼も33年の人生だった。

シューベルトは`冬の旅`に曲付をしている頃、チフスを患っていたらしい。作曲で飯を食い難いのはシューベルトに限らず、音楽家/芸術家はたいてい貧乏と付き合いが良い。貧しいので病に陥る可能性は高い。フランツは恐れつつ敬愛した先達ベートーベン葬式に参列した。仲間とカフェーに入り、一杯飲み干して言った;諸君と共にベートーベンを無事埋葬することができた。二杯目をのんでさらに言い足した;さて彼に続くのは誰だろうな? その時フランツはミュラーの`冬の旅`に取り組んでいた。その主題のひとつは死への招待だった。

翌年の1828年、デル・リンデンバウム歌曲の主題に従うように、フランツは11月に亡くなる。冬の旅発ちだ。21世紀、メモリアルな立派な墓は観光客に便宜良いウィーン市墓地公園にあるらしい。亡くなった当時の埋葬地は近くの教会墓地で、彼の墓石はLudwig van Beethoven (1770-1827)墓石と隣あって並んでいた。享年31才。

Der Lindenbaumを廻る日本/ドイツ/オーストリアの訳詞家/詩人/作曲家たちは31~35年を生きた。これらの年齢までに生涯仕事を成すと言う見本ではないか。やたら長生きするのは凡人たる一つの証やも知れぬ。

【補註】;
1. 19世期末即ち1890年代のボナパルト・ナポレオンの欧州制覇は11~12世紀遡るCharlemagne(シャルルマーニェ。独;Karl der Große)を彷彿させる。彼の9世紀半ばフランク王国とナポレオン19世紀末フランスの全盛期版図は重なると見て良い。小寸のボナパルトが、5世紀クロヴィスが起こしたメロヴィンゲン、7世紀末カルル・マルテルのカロリンゲンの2王朝を経てシャルル大王に至る言わば現EUと重なる帝国をわずか20年ほどで実現した。それは同時に、いくさに続く戦の時代。←いくさの無い時代が欧州にあったか?と問うならば、`書かずもがな`である。
ロシア史が言うところの`祖国戦争`に二つある。大を付けるのがドイツ第3帝国(ヒトラーのバルバロッサ作戦)に対する祖国戦争で、コルシカから出た英雄に対する戦争は只の祖国戦争かもしれない。ナポレオンは湯気を立てる出来たばかりの帝国内(伊/蘭/独/墺など)から駆り集めた50~60万大軍を持ってロシア征伐に出かけたのだ。しかし兵站が追い付かず、彼らは冬将軍に凍てつかされ、おおかたが故郷を再び見ることが無かった。へなちょこ皇帝・アレクサンダーが良き将軍と冬場の加勢を得て混成大軍を翻弄した。稀代の英雄にとって初の負け戦だった。
これに応じて、これまでヘイヘイかしこまっていた被占領諸国+ブリテン+スエーデンが六たび目の反乱を起こす。ミューラーの大学入学の頃である。反フランス連合軍と立直し/にわか仕立てフランス軍が小競り合いの勝ち負けを繰り返した。1813年10月両軍が、リンデの街・ライプツィヒで大激突。35万vs19万だから、多勢に無勢。準備万端の連合軍vs招集したての新兵フランス軍。ボナパルト閣下軍は壊滅に近い惨敗。逆にプロイセン≒ドイツ史は今も一連の対ナポレオン戦役を「解放戦争」と呼んでいる。ミューラー実家デッサウはライプツィッヒに近く、食糧/弾薬運びに協力したのだろうか…。

2、先項「オランダリンデとルイーゼ」参照

3.Heinrich Werner(1800‐1833)。das Grüne Herz (緑の心臓部)と呼ばれるテューリンゲン自由州の村Kirchohmfeld(キルッヒホムフェルト)で生まれる。シューベルトと同世代。エルフルトの音大で学ぶまで、兄と弟と共にクワイアー(教会)コーラスで才能をしめす。ゲーテ„Sah ein Knab’ein Röslein stehn“(小さなバラが立っているのを少年は見た。別名„Heidenröslein“=野バラ)詩に既に100を超える作曲があった。シューベルト作品が上述のように既に知られている。ハインリッヒは1829年コブレンツの`ブラウンシュヴァク歌曲祭`に於いて指揮者を果たし、自らの歌曲`野バラ`を初演。他の100余の作品を凌ぐ名声を得て、彼のメロディーは世界中で親しまれている。音楽教育者であリつつ、作曲家として生涯に百近い佳作を残す。

4.ミューラー冬の旅 五つ目リンデンバウム3節
Am Brunnen vor dem Tore Da steht ein Lindenbaum Ich trumt in seinem Schatten So manchen sen Traum
Ich schnitt in seine Rinde So manches liebe Wort Es zog in Freud und Leide 
|: Zu ihm mich immer fort :|

ich musst auch heute wandern Vorbei in tiefer Nacht Da hab ich noch im Dunkeln Die Augen zugemacht
Und seine Zweige rauschten Als riefen sie mir zu Komm her zu mir Geselle 
|: Hier findst du deine Ruh :|

Die kalten Winde bliesen Mir grad ins Angesicht Der Hut flog mir vom Kopfe Ich wendete mich nicht
Nun bin ich manche Stunde Entfernt von jenem Ort Und immer hr ich's rauschen Du fndest Ruhe dort
|: "Du fändest Ruhe dort :|

5.`門前`(vor dem Tore)が何故出てくる? オランダリンデ大木と清水を湛える泉が用意されている。この門は霊界(天国)への入口であろう。

6.`ここに幸あり`大津美子の持ち歌の題名と歌詞のオリジナルが朔風である。拝借した作詞家はたっぷり印税を稼いだ筈。才に恵まれれば稼げず早死する。凡人はそっと借用して、長生きする…(大津版作詞家がどうなのか知らない)


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ken minatoya

Author:ken minatoya
Victor Westhoff(1916-2001)碑文Hij observeertからのHNを本名と苗字に先立つ屋号に変更。ウエストホフは生物フローラの相互生息環境を丹念に観察したBiotop概念の先駆者。ザザーッとフィールドを歩きつつ、こぼれ見える外史/雑人/雑草の風景

日本語→英語自動翻訳【星条旗】
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