ライン・ワール・マースの狭間から、草の如し徒然の観察八景。 政ごと/商いごと/言の葉ごと/遊びごと。

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Miscellaneous Human History 雑史/外伝

助舟と初代みなとや ["Rescue ship" & Riuemon]

助舟: Sukui-bune "Rescue ship"
[日本語詞:佐佐木信綱 / 原曲;リチャード・S・ウィリス]
[lyrics; Sasaki Nobutsuna / composer; Richard Storrs Willis] [note */**]

激しき雨風 天地暗く、
Fierce rain and wind in darkness
山なす荒波 たけり狂う、 Violent waves like mountain rush in rage [note ***]
見よ見よかしこに あわれ小舟、Look at over there A small boat played by sea
生死の境と 救い求む。 Appealing salvation between life and death

救いを求むる 声はすれど、
Recognize their voice for rescue
この風この波 誰も行かず、 Nobody goes because such wind and wave
見よ見よ漕ぎ出る 救い小舟、 Watch now a tiny rescue ship that's rowing out
健気な男子ら 守れ神よ。 God save brave young men


DSC_0088.jpg

赤っぽい塔らしきものが、なんとか見える。その手前に岩の群れが左右に走っている。それはコンクリートの堤防にそって積み上がっているのだ。見えない堤防の向こう側、つまり写真右奥に、弧状を描いて入江が収まっている。

170623 Takano Light-house

堤防は入江の西から突き出しているのだ。終戦(1945)以前に作られたのだろうか。堤防先端の赤っぽいものは入江の目印で、そして夜間に灯りを放つ。安全のために、昭和後期/平成初期に設置されたのでは…。
130年ほど前になる’救い船’の当時、いずれも存在していなかった。


DSC_0092.jpg

一枚め写真の中央に白く見える波の戯れ。130年ほど前、明治十七年八月二七日、波はこんなに穏やかでなかった。40余年前の七月、ある土曜日もやはり海は荒れていた。それら明治と昭和の暦は同じ太陽暦だが、前者は盆を過ぎ秋風が立ち台風が来ようと言う季節、後者は梅雨を終えたばかり、これから夏になると言う灰色のような境目の日々である。

This house stands in front and center towards the bay.
170623 Takano Omoya 03

上下の画像に十年の隔たり。セメント打ち放し二階家は後方の母屋を守る役割あり。その対面に物置と八畳二部屋の客棟、さらにトイレ別棟など雑建築を父が趣味で建てたが、それらは数年前に撤去された。二階家は長い人の住まぬ期間に塩分によるセメント侵蝕のため崩れ落ちそうなため、兄が昨年取り壊した。広々とするほぼ四角の敷地を既に見渡せる状況に加え、一新した母屋外まわりもよく分かる。明治初期からの藁葺き家は左手奥にあったらしく、その向いに充分な空間量を持つ家、即ちこの母屋を新築したのは昭和の初め。以来ここに居住した二世代を大切にすべく、誰も住まぬが住める状態に保つと言うこと。[note 1]

母屋はわずか百年少しにすぎない。インテリア↓:奥の間をオモテと呼び、床の間を正面に違い棚を側面に備え、仏壇も擁する。オモテと同じ十畳スペースの手前の間を何と呼ぶのだろう…。両間を仕切る滑り戸を取り去ると、祭りや寄り合いの席になる。天井が和式比例に従って高く採られ、平民・鈍百姓に似合わぬ造り。故なしではないらしい…

170623 Takano Geboorte huis Omote

終戦後まじか、掛けられていた二つ額は明治天皇と乃木希典の肖像である。今↑これが掛かっている。第三代京都府知事の北垣国道の感謝状。彼は京都市々長も兼職していたようだ。実際の署名捺印は知事代理・大書記官の尾越蕃輔が行っている。[note 2] 誰も来ず読まないのに掛かっている。
** 二年前 (06 June 2015)の記事↓にやや詳しく書いており、参照されたい。なおそこで用いた画像を再びここにアレンジ。
http://zasshizassozatsujin.blog.fc2.com/blog-entry-392.html 

170623 Thanks-award with translate-print
知事/北垣が竹野村の代表に宛てた金一封をそえる感謝状


遭難者救助の五週間後に、府から感謝状と金一封が当事者に送られている。公用車も電話もない時代、役所仕事と思われぬ迅速な成り行きに驚く。珍しい出来事でおそらく丹後界隈で話のネタになったに違いない。尾瀬は村長と思われ、彼が事件を府に通知、つまり感謝状発行をプロモートしたのだろうか?
これを高い屋根裏に眠っていた長持から見つけた父の注釈によると、明治17年8月28日は「二百十日、二百二十日の頃で、台風の時期である」。因州(鳥取県)沖から流され破船し竹野村沖合で発見されたのは’平民’三浦由三郎。’士農工商’制に代わる身分制度の一つか、平民に対するほかの身分とは? 部落民や華族と言うのは戦前(1945年)まで使われた語彙だが、さて?

激浪をついて三浦の救助に向かったのは二組。安田利右衛門と山崎與市郎とのそれぞれ他4名を従える二艘。前者は二代目利右衛門で、湊屋を屋号に名乗る60代の人物
[note 3]。当時の60代は既に爺であって、村の長老各だった筈。とりわけ漁村男子の年齢は都市部のそれよりかなり低かった。激しい肉体労働と’塩加減’のせいではあるまいか。
彼は一代目の分限を乗船五名の漁船を数艘持つまでに増やしていた。自らを’湊屋’と号したのはそれ故だろう。彼自らが救助の船に乗ったのだろうか?彼は配下の若い連中を指揮したと考えるのが自然に思える。父の弟(叔父)は、村の山崎姓を覚えていないと言う。村に’山崎’姓が在ったとしても、大変珍しい。私は聞いたことが無い。與市郎たる人は湊屋に務める船長各だったのではないか。

叔父が幼い時、’救い船’一件を村の古老から聞いている
[note 4]。浜辺に集まった村人たちが、漕ぎ出る救い船を固唾をのんで見守っていたそうである。「この風この波 誰も行かず、見よ見よ漕ぎ出る 救い小舟」と詠んだ信綱は、この時一二才である。彼の云う小舟はどんな和船だったのだろう?

私は以前の記事で、ギッコンと解釈。艪を漕ぐと、先細りの船が左右に揺れる。その様子をギッコン〜ギッコンと擬音化した名前と思われる。せいぜい二名で、波静かな夜間イカ釣り魚に辛うじて用いられるかも…。漁船としては、片手で櫂を操りながら、船上から箱鏡で海中を見ながらサザエ取りする、と言うような一人用小船だ。


center-under : 船外モーター付き現在のギッコン
2010-07-31 タカノ港 03


’船頭小唄’や’瀬戸の花嫁’から連想する和船は艪一本で推進するのは同じだが、嫁ぐ娘と付きそう母親を乗せ、なお十分な余裕のある大きさ。ギッコンならば、衣装が舟巾からはみ出たり、海水で濡れる恐れがある。花嫁を島から島へ、郷から郷へ乗せていくことはギッコンには文字通りの重荷であろう。

2010-07-31 タカノ港 04
この漁船は二名、魚によって三名も可能だろう。


ギッコンは荒波に五名を乗せ、救助に向かう仕事は出来ないのである。それを可能にするのは、網や道具類さらに水揚げした魚の収納設備を持つ船、言い換えれば風雨と波浪をついて五名で制御できる規模の船でなければならない。和船図鑑にはかなりのバリエーションが見られ、漁業域/地方との関わりだから、明治以降の京都府下の漁業史を探れば、分かるかも知れない。

【Note】;
* 「救い船」は唱歌「灯台守」の先代とも言える歌詞。加えて先々代に当たる『旅泊』と言う初代歌詞がある。実際に起こった遭難劇の5年後の明治22(1889)年に大和田建樹が発表した作品。信綱の作詞年次は1929(昭和5)年。これら知見は→「二木絋三のうた物語」主催者’ふたつぎ’氏の達見である。
http://duarbo.air-nifty.com/songs/2007/09/post_d15e.html
** English text from Japanese lyrics : just symple transfer ''from word to word'' by myself.
*** この二行目は1947(昭和22)年版「灯台守」(作詞:勝承夫)にそのまま受け継がれている。

1. この変哲もない田舎家で生まれたのはわずか二人の男子。即ち我が弟と私。なお兄の誕生地と母が私を受胎したのは北京。戦況悪化を鑑み、両親と幼子の3人家族は北京から父の妹夫婦が居る平壤へ。父と妹の夫のように軍属でない人々はすぐに帰国行動が採れた。妹は女子出産後に不幸にも亡くなり、その夫は仕事で帰日出来ないため、祖母が平壤まで孫を迎えにきていた。父母兄、祖母と形見の女児、計5人は必死に釜山まで。いつ出るか分からぬ引揚船を不安にさいなまれつつ多くの同胞と共に待つことになる。1945年6月、福岡めざした船はよろよろ何とか鳥取沖まで、小さな船で本土に上陸、斜面を這い上がると山陰線が走っていた。北京ー平壌ー釜山の難儀な逃避行を省みると、そこからこの祖母の家までは目と鼻の距離に過ぎない。安堵が祖母と両親に満ち溢れていたそうだ。

2. 北垣国道(キタガキ・クニミチ)は幕末期の倒幕運動の志士。明治14年、第3代京都府知事に就任。琵琶湖の水を京都に導いた功績者。尾越蕃輔(オゴシ・ミツスケ)は北垣の前任者で二代め知事・槇村正直(ウエムラ-マサナオ)右腕であった。

3. This RI-U-E-MO-N Yasuda mentioned in the letter died in 1848, unfortunately his birth year was unknown. He seemed to be second son of the family Yasuda that had a trademark *Dogu-ya*. A kind of Tool-maker house which was succeeded by first son I-be-i 伊兵衞 Yasuda安田. Second son should begin own pedigree, in another word `own family line`. So it became `Ri-u-e-mo-n`, The next generation would take over the name as the second Ri-u-e-mo-n who created Trade mark `Minatoya`.

4. 叔父は二代目利右衛門こと湊屋のために、小さな墓を建立している。この人は利右衛門の二代目だが、湊屋利右衛門として’初代’、と叔父は考えたのだろう。
二代目 利右衛門 04_edited-1

  
◎""""""""""""他参照 other references""""""""""""
An American pastor, Edmund Hamilton Sears made a poem *IT CAME UPON THE MIDNIGHT CLEAR* in 1849, then Richard Storrs Willis composed its melody. This song of hymn has been covered by many singers like Julie Andrews. [note 1] It may be thought an American folk song although very very christian contents.

The melody got an arrengement in 1874 by English composer Arthur Sullivan who named it as Hymn Tune "Noel". The "Noel" became quite popular and it's said more than 60 hymns or carols created from Sullivan's tune.

◯ 以下の''灯台守'題名と歌詞は戦後、音楽教科書に採用されたために、三つの中で最も知られる。
灯台守 Todai-mori. ''The lighthouse keeper''

[日本語詞:勝 承夫 / 作曲:リチャード・S・ウィリス]
[lyrics; Yoshio Katsu / composer; Richard Storrs Willis]
1
こおれる月かげ 空にさえて
Frozen moon with its shadow shines in the sky
ま冬のあら波 寄する小島 In mid-winter rough waves wash a small island
思えよ灯台 守る人の Concern those who keep the lighthouse
尊きやさしき 愛の心 Preciously gentle lovely minds
2
はげしき雨風 北の海に
Fierce wind and rain in the sea of the north
山なす荒波 たけりくるう Violent waves like mountain rush in rage
その夜も灯台 守る人の Also on a night, those who keep lighthouse
尊きまことよ 海を照らす  Illuminate sea with valuable truth

▲ Sears served as pastor at Un­i­tar­i­an church­es in Way­land, Lan­cas­ter, and Wes­ton, Mass­a­chu­setts. The hymn was first sung at the 1849 Sun­day School Christ­mas cel­e­bra­tion. ↓Reference, a cover sung by Julie Andrews.
https://www.youtube.com/watch?v=LwBajJ3ZFVo
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ken minatoya

Author:ken minatoya
Victor Westhoff(1916-2001)碑文Hij observeertからのHNを本名と苗字に先立つ屋号に変更。ウエストホフは生物フローラの相互生息環境を丹念に観察したBiotop概念の先駆者。ザザーッとフィールドを歩きつつ、こぼれ見える外史/雑人/雑草の風景

日本語→英語自動翻訳【星条旗】
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