ライン・ワール・マースの狭間から、草の如し徒然の観察八景。 政ごと/商いごと/言の葉ごと/遊びごと。

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Here&there lands 雑なるアレコレ大地

's-Hertogenbosch(1)  Den Bosch  北ブラバントの街


ス-ヘルトーフェンボッシュは、公爵を意味するHertog所領の森=Bosch と言う街の名。長いのでふつうDen Bosch(デン・ボス)と呼びます。もともと短い方の呼び名だったのが、11世紀髭のゴットフリード1世と言う公爵位の領主を得てから、長いほうの呼び名が正式になったそうな。

ヒノキの森を伐採して奈良京を築き、周囲が裸の山になったので京に引っ越した…と言う雑史がある。ヒノキ山の再生に人の1代をかける以上の時間がかかると言う。奈良に近い山から、東大寺を初めとする大伽藍建築に必要なヒノキ巨木をきり集めたのだから、山々とその土壌が悲鳴をあげない筈がない。

次の都を選定する条件は、伐採材を輸送しうる距離に巨木が生える後背山地を持つ川の流れる平野であるべきだったのでは…。奈良で犯した失敗を繰り返してはならない。京の盆地をめぐる山々はうっそうたる豊かな森であった筈だ。京都から離れた川沿いの集材地に"天皇領の森”のような地名があっても不思議でなかったかも知れない。

luik
窓を保護する外側の蝶番付きで回転する雨戸(よろい戸)、建築正面の表情を作る。現地語でラウクと言い、教会内の祭壇にもしばしば相似的ラウクが登場して、作りのモチーフが宗教的に何処までもアレンジされていく…


”帝の森”そんな連想をしうる都市がデン・ボスである。息子の大叔母がその町の住人である。ス-ヘルトーフェンボッシュがホントの名前、と彼女から教わった。彼女の旦那ヤンは市の歴史建築保存の主幹だった。世紀を通じて、火事(15世半ばの大火事が知られる)や戦争(1次2次の大戦)で破壊されたり消失したりした原型を復活するのが旦那の専門。従って書斎は古い資料が山済みになっている。あちこち広げられた古書があって、「本一つ動かすと雷が落ちるのよ」と肩をすくめながら、当時進行中の街の下を流れる運河整備計画図を見せてくれた。

古都の周囲をめぐってドムメル河が流れ、巧みに掘割にしている。砦から始った町の頑丈な河壁もある。またその水を分けて市中に流す。物資輸送のためだろう。狭く暗いトンネルのような水路を、今は船外機付きの5m長の遊覧ボートが巡回している。アントヴェルペンやアムステルダムのような規模と違う趣だ。

Maria met Chritus Miracle
「愛しき女性友愛会」みたいな組織とその愛しき女性"聖母マリア”で知られる街が欧州に幾つかあるようだ。奇跡をほどこす原初的なイメージのマリアに思われる。真意を知らない。信者の方にいつか詳しく聞いてみたい。デンボスはその一つで市中あちこちにこうした像を見かける。

運河が作られた時、空が丸見えだったろう。ブルゴーニュ公国からハプスブルグ領になる間に都市化が進み、運河の上に建物が覆いかぶさるようになったようだ。その凸凹を整理し、モダンな古都にしよう。戦後の都市計画の常である。水路に関して結果的にモダンにならず、遺跡保存が優先している感がする。引退して久しいヤンが「ありゃーワシの願いじゃ」と言うかも…・

ブルゴーニュと言うのは14世紀半ば以降から現在のベルギー/蘭領ブラバントから南へ下がりスイス隣接の広大なフランス領を持つ"大国家”でした。領主の家をヴァロアと言い、最後のマリーがオーストリア・ハプスブルグのマキシミリアンと1477年に結婚。ハタチですから当時だと"晩婚"です。不幸にも落馬をきっかけに25才で亡くなります。

つまり1482年にアントヴェルペン・ブリュッセルなどと共に、その東北域にある11世紀末から継続したブラバント公領のデン・ボスもハプスブルグ領に属するようになる。ただの農民や町人はどこの領地になろうが、よほどの悪代官でもない限り、利益/不利益と無関係だっと思いますが…。

16世紀、この土地は比較的平和だったかな…と言う気がしないでもありません。マリーの息子をフィリップと言い、彼も平均的寿命(28)ほどで亡くなり、後のカルル5世を残します。フィリップの妹マグダレータは20才までに二度結婚して1~2度死産を体験後、甥っ子カルルを後見するんですね。若干20過ぎで、もう結婚しませんと言う印の被り物をしている。蒼々たる後見人に相応しい。甥と叔母は誰が見ても直ぐに分かりました。ブルゴーニュの支配者二人の顎はしゃくり出て、栄えあるハプスブルグ家系直系を証明していますから。

彼女は当時の年だと、よく長生きした女性です。聡明な人で、ヘンリー8世の妹マリー・チュダー侍女としてきた幼いアン・ブーリン(エリザベス1世の母親)の才を読み、手元に引き取り教育したりしています。ブリュッセル直ぐ北のメッヒェレンに宮殿を構え、そこでブルゴーニュ総督を勤め、人気が高かったそうです。

彼女の日常言葉はフランス語で、フラーンダレン(フランダース=ベルギー)のフェント生まれの甥っ子も同じです。これはブリュッセルがフランス語圏と言う現在に伝わっています。彼等をフランス人と言えないが、生活語がフランス語で、細部ながらアン・ブーリンもペラペラだったのはマグダレータにも負っているわけです。

やがて甥っ子が母方のスペイン王を継承、そして神聖ローマ皇帝選挙に勝ち抜き、仏英をしのぐハプスブルグ全盛時代をもたらします。マグダレータのお膳立てと様々な 場面の外交力に功があった点と、カルル自身の帝国内に於ける精力的行動と誠実な人柄ゆえで無かったか、と手前勝手に思います。凡人と馬鹿と横暴ときに気違いが多い 絶対君主にさようなコンビ例は珍しいような気がするんですね。

Sint Jan Achterkant
St. John's Church が英語圏コモンウェルズ諸国圏に幾つあるか? 別格本山と言う感じのUSにウジャウジャ建っているかも…。想像が尽きかねます。蘭語だとシント・ヤン教会で、これも相当数の大建築があります。日本の旧教に於いて、聖ヨハネス福音教会と言うのかどうか分かりませんが、やはり複数の同名教会があるのでは? 

昨年10年かけて大修復が終了したデン・ボスのシント・ヤン教会。一つ上の画像は裏側。オランダで最も美しいと管理教会関係者の自慢。修復費20%の8億ユーロを彼等のキャンペーンで工面。
Sint Jan

旧教圏のブルゴーニュに属したデンボス域は16世紀半ばに40の僧院と20万の人口を持っていたそうです。現在の日本一つの県のような地方に、当時20万ですから、宗主国スペインに反旗を翻した北部諸都市にとっても、南スペイン・ハプスベルグ総督側にとっても、政治的/領地取り合戦において重要戦略域です。

1568年にオランダ17地方独立戦争が宗主国スペイン・ハプスブルグの対して始ったとされます。そしてこの一年前に京都上御霊神社あたりから応仁の乱が始っている。前者は休みばかしの連続と言うか、軍資金と食糧と厭戦気分と、それだけで無い他との戦争をまじえ80年つづきます。後者はよく分けの分からない理由でほぼ10年続いたそうです。10年も長い。生まれた赤ん坊が十才になり、チャンバラゴッコを始めるのです。

だから、8倍の戦争期間と言うのは信じがたい。よく考えると、いずれも似ている感じがします。特に都市デンボスも渦中の80年は、歴史の区切りや個別ハプニングの主題を整理する都合で命名したと言うように思えます。デンボス郷土史と言った80年の事実を並べるならば、小さな図書館が一杯になるでしょう。その時代に生きた普通の名も無き人々はこう言うでしょう; そんな戦争あったん?僕はしらんな~。
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ken minatoya

Author:ken minatoya
Victor Westhoff(1916-2001)碑文Hij observeertからのHNを本名と苗字に先立つ屋号に変更。ウエストホフは生物フローラの相互生息環境を丹念に観察したBiotop概念の先駆者。ザザーッとフィールドを歩きつつ、こぼれ見える外史/雑人/雑草の風景

日本語→英語自動翻訳【星条旗】
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