ライン・ワール・マースの狭間から、草の如し徒然の観察八景。 政ごと/商いごと/言の葉ごと/遊びごと。

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Miscellaneous Human History 雑史/外伝

[後編]ベルギーの素っ頓狂  国家成立と王室


どなたもレオポルドと言う名前をお聞きでしょう。ディズニー動画の主役やローマ教皇など、あちこち一杯出てきます。leoはライオン、poldは古ゲルマンbald/boud(=勇猛)語源、つまりライオンの如く強いと言う意味。こちら平安時代、むこう中世ヨーロッパのオーストリア界隈で人気があった男子名。

30年前、自然食品店バイトのアグネスからレオポルドの話を聞いた。そのレオの妻がアグネスだったから。10世紀前のMarkgraf夫婦で、特にアグネスの豊穣多産(18人説あれどホントは14人だとか)が知られ、敬虔なローマカトリック旦那レオポルドは妻の功もあり、後に聖人に祭り上げられています。彼自身は三世ですが、親父と息子一人とで234と三連荘レオポルドですね。マルクグラフは辺境伯爵と和訳され、普通の伯爵より各上で、三代続きレオポルドはオーストリア(ハンガリー・クロアチア含みの現在よりズット広大域)支配者だった。

Frituur Broodautomaat
自然食品屋の真ッ向こう…上の看板フリテュールはベルギー"名物”世界でもっとも美味いポテトチップ。リンブルフでは"ポタト・フリテュール”と熟語と思うが、定かでない。下看板はヨーロッパで見たことが無い表示のパン自動販売機。下部に見える白い箱に所定の硬貨を入れると、プラスティック袋入りの30センチ長のパンが出てくる。数種から選択出来る。ベルギーだけにある"生活様式”だろうか? パン形の異なる仏西葡伊の南には無いだろう。独蘭丁等のパン先進国ではまず見ないゾ。ベルギー庶民生活がこの二つの看板コンビによって示されているのだ。


このレンチャン・レオポルドを真似た家系があるのです。初代は独小領邦家ザクセン・コーブルクの人。ナポレオンに抗して帝政ロシア将校として就職、戦後に家系筋の英王家ゆかりで英国籍を得てロンドンに住まい趣味三昧を楽しんだ人物。2世については現在の人々は口に致しません。3世は運も悪かったのでしょう、遊び人風情の印象を受けないでもありません。愛でたく今後も、君主制が続くならばレオポルド4世が出てくるかも知れませんよ。

1830年に立憲君主国ベルギーが起ったそうな!夏をすごした9月、ラウク(仏:リエージェ)とブリュッセルの自由開放派と言うか独立カトリックグループが手を繋いだ。ブリュッセルに臨時政府みたいな組織を立ち上げた。怪しからんと、オランニェ・ナッソウのフレーデリック親王は騎下軍勢をもって占拠するつもりだった。騒然となり、空気はピリリでしょう。が、低地南部(ベルギー)出身の軍/兵が知らん顔した…。風雲急を告げ、臨時組織が独立を宣言したのは10月4日です。さて現在、この良き秋の日がインデペンダント・デイになっているのかな?

Leeuw in Waterloo 01
ブリュッセル南の行政区ウァテルロー。1815年6月18日ナポレオン軍対ウェリングトン将軍指揮下の英独蘭の連合軍がぶつかった。オランニェナッソウの王子が銃弾で負傷。親父のウィレム1世が息子と連合軍勝利を記念して、45m高の人工山を作る。226段あるそうで登るのに苦労するが、広い戦場・耕作畑が一望できる。

ナポレオンが18世紀末から19世初め、数々の戦争を仕掛け、ヨーロッパを掌握します。胸躍る興奮の激動期でした。1814年3~4月敗れた彼はエルバに流される。ナポレオン後のヨーロッパ分割/整理の会合がウイーンで翌年夏頃までありました。参加列強が取るものは盗らねばと、喧々諤々した。だから遅々と進まず、もたもた会議は踊り長期戦になった。

中途の1815年3月ナポレオンのエルバ島脱出が伝えられます。こう言う大脱走が史上に時々あって面白い。まとまらぬ話をウイーンで続けながら、パリに戻り戦の準備をするナポレオンに対する連合軍編成が再び進むんですね。ドイツからハノーファー/ナッソウー/ブルンスヴァイクと言う公国軍勢を加え、リパブリックのオランダにプロイセンとブリテン王様所帯を軸にして態勢作りです。

ナポレオンはワーテルローに軍馬を進め、砲兵/歩兵の数でかなり分のある連合軍に圧倒される。いくさは日曜日に行われ、月曜火曜に百日天下の皇帝は東の海岸で逃走する船を捜さねばならなかったようです。彼を捕獲したウイーン会議首脳は今度逃げられては面目がつぶれる。慎重に遠い島を撰び、監視手続きを定めます。

同時に、狭いヨーロッパを切り取りして再びくっ付ける作業は大詰めを迎えます。ナンゾ便利な接着剤があると話が進みやすい。昔セメダインと言う今から思うと小さな黄色いチューブがありました。会議主催のオーストリア、ライバルのプロイセン、それに王様寄り合いブリテンなどがこのチューブからひねり出したのが新しい"王様たち”でした。

北はスエーデン+ノルウェイから南のスペインやナポリまで、南北の低地と革命後フランスとを加え、全て王様を祭り上げるのです。ナポレオン以前ハプスブルグ領だった低地南部はナンヤカンヤの結果、低地北部にある共和国オランダと統合される。強大なオースリアは小さいのをぎょうさん集め"(今と異なる)ドイツ連邦”のかしらになり、ロシア皇帝ははポーランド王を兼ね、プロイセンは内部の飛び地をなくして欧州中央をがっちり固める軍事力最強帝国になります。

南の低い土地の人々は昔から旧教ですから、勝手に新教の北部に一緒にさせられ、しかもついこの間まで敵の頭領だったウィレムを国王に仰がねばならない。南北合併はアングリカン英国が肩入れした結果でもあり、ベルギー域カトリック自由主義者にとっては全く割り切れない…。ウンニャローと言うしこりが残りますね。

こうして水が沸き立ち、沸騰するまで15年を要したんです。しかしヨーロッパ王たちの列に加わったウィレム1世(同じ数字の建国の父は国王と付かない)は他列強に伍する南北の統一、即ち"一つの大きな国”構想を擁き、独立運動を許さない。2次大戦後の蘭国がインドネシア独立に抵抗して警察国家的手法を採った愚行を連想します。

翌年2月欧州きってのモダンな憲法が発布され、7月に独立を支援する元ドイツ小貴族、即ち上述の元ロシア将校殿がロンドンからやってきます。彼は既に、(昨今大騒ぎの)ギリシャンへの王様就職口をもらいながら断っています。遠くすぎ言葉も分からず無理も無い...。今度ばかしは兎追いし故郷に近く、喜んで受諾するんです。国王名を古式の聖人に倣い、レオポルドとします。ただし血のゆかり無し/別地/近代ですから、当然1世からはじめます。

低地独立紛争にフランスが南部支援軍をだす。同じ言葉を話す地域を助けるのは自然です。これにオランニェ支持新教グループが対抗。同時にオランダ語支持者=南北統合派、対するフランス語派=独立派と言うファクターが働きます。ブラバント北部からその南部にオランニェ軍勢が入り、アントヴェルペン(英:アントワープ)は北部軍に占領されます。戦いは継続するも、臨時政府は憲法制定作業を進め、上述のように流麗たる文章によるヨーロッパ最新憲法を発布。国家存在の法的インフラを整えたわけですね。

ほぼ10年近くをかけ、旧教オランダ語(フラーンダレン)域と植民地無しのフランス語(ワロニア)域は植民地財政による比較的ましな新教北部からの実質的独立を達成。1838年ウィレムはルクセンブルグ所領など主張しつつ、またロンドンで賠償約束を得て、ようやくベルギー独立を承認。

これにオランダ初代国王60半ばのロマンスの尾ひれ話がつく。ベルギー紛争が解決する頃、彼はローマカトリック信奉者ベルギー伯爵夫人に惚れたらしい。恋は戦い疲れのせい? 愛は国境を越えると申します。1840年息子に譲位してベルリンに隠遁して結婚。カルヴァイン派国民の裏切りモノと言う非難を受けても、彼自身は幸せだった…。

ベルギー名は遠いムカシ昔、ベルガヤ?とか何とか言う騒々しい響きの、しかし由緒ある名から採られたらしい。そのベルギーのカトリック賢者達がなぜ、わざわざベルガヤと縁もゆかりも無い北方ドイツ人を王に迎えるなければならなかったのか?21世紀の人みな平等の民主主義からすると、スットン狂な発想だ。時代精神と言うか、王をいただかねば国家が立ち行かないと言う19世紀初めの常識…。

レオポルドの姪にヴィクトリア女王がいる。いろいろ相談に乗り、ヨーロッパ辺境の田舎貴族ザクセン=コーブルク=ゴータ系の繁栄を実現する。彼自身の子息はコンゴに植民地を作り、子女はメキシコ皇帝に嫁いだり…なんですが、もしもカトリックの自由改革派の人々がリパブリック政体を選択していたならば、ベルギーは欧州列強をしのぐユニークな未来を作ったかも知れない…。夢想してみる価値はある。

ならば、レオポルドの息子の非人権・大逆は起らなかったかもしれない。戦後のベルギー人にとって恥ずべき忌まわしい歴史をその息子が作った。黒人を人間と見なさい白人絶対時代ながらも、ベルギー人によるベルギー人のためのミリオンを超える虐殺・暴虐を実行した。これをワロニアの若者が「レオポルド2がレオポルド2のためと言う人格面もある」と言いました…。普通の人間を知らない尊大な王侯と言う意味かも知れません。なぜベルギー大都市に多くの黒人住人がいるのか、迂闊にも30年前に私は教わりました。

Atoomtoren Expo
ベルギー復興と技術立国を目指すシンボル:Atomium  1958年ベルギー最後の万博。

フラーンダレン語でKoninkrijk België と書くのがベルギー王国でした。今もそのままの表記なら、左派や民族右派が国名変更を綱領に入れているかも知れません。アルベルト二世が兄ボードワインを継いだ今の国王ですが、その息子達50才前後 フィリップとロウレントも時々チョンボするようです。それだけメディアが気軽にジョークを飛ばすのでしょう。

第一党N-VAのウェーヴェルは「ローレントがまた(独裁者を継いだ息子体制が問題になっている)コンゴにヴァカンスに行くようなら、彼の王室費半分削ってしまう」と言います。極右とされるVlaamse Belang(フラームスの利益/関心)党は王室メンバーを素直に評する感じを受けます。日本のそれとかなり違うのかも。党首ドゥ・ウィンテルがプリンス達の御愛嬌とにこやかに言っています。ベルギーもブリテンも、きょうびのヨーロッパの飾りガラス箱の人形諸君は多かれ少なかれ似ているようです。

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ken minatoya

Author:ken minatoya
Victor Westhoff(1916-2001)碑文Hij observeertからのHNを本名と苗字に先立つ屋号に変更。ウエストホフは生物フローラの相互生息環境を丹念に観察したBiotop概念の先駆者。ザザーッとフィールドを歩きつつ、こぼれ見える外史/雑人/雑草の風景

日本語→英語自動翻訳【星条旗】
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